旅行中にみられた鐘で、上画像は台中市鹿港にある龍山寺に吊り下げられている鐘で、教会の鐘のように裾が開いているが下端は水平でなく波状に作られている。鐘に鋳出されている銘文に民国再壬戌年とみられるので1922年(民国11年)に鋳造されたもののようである。中画像は当寺の古い鐘でガラスケースの中に保管されており説明表示によると中国浙江省寧波で1859年(咸豊9年)に鋳造されたようである。下画像は台北市にある龍山寺の鐘で和形の梵鐘と同じ形状のもので、日本で鋳造されたのかも知れない。
旅行中にみられた鐘で、上画像は台中市鹿港にある龍山寺に吊り下げられている鐘で、教会の鐘のように裾が開いているが下端は水平でなく波状に作られている。鐘に鋳出されている銘文に民国再壬戌年とみられるので1922年(民国11年)に鋳造されたもののようである。中画像は当寺の古い鐘でガラスケースの中に保管されており説明表示によると中国浙江省寧波で1859年(咸豊9年)に鋳造されたようである。下画像は台北市にある龍山寺の鐘で和形の梵鐘と同じ形状のもので、日本で鋳造されたのかも知れない。
地下鉄で高雄駅に向かったのは、日本統治時代の1941年(昭和16年)に建築された旧高雄駅舎を見るためであった。現在は移転され高雄鉄路地下化展示館となっているが遅い時間のため閉館されていた。現在、新駅舎など周辺の整備工事が行われており、旧駅舎は将来新駅舎に結合され入口として利用される予定のようである。その後、六合夜市を見物したがここでは食することは遠慮し、夕食場所を探すがなかなか見つからず珍道中・・・
今回の旅行はツアー旅行であり集合時間は厳守していたが、ガイドの視界から消えバラバラに徘徊していた当ブログ主と連れ添いは要注意人物であったろう。OPに参加せず美麗島駅から一駅地下鉄体験をした。美麗島駅は南北線と東西線の交差する駅であり、交差点下にあるようで斬新なガラス張りの地下鉄入り口が交差点角に4ケ所みられ、地下に降りるとホールには目を見張るようなステンドグラスが張り巡らせてある。
切符売り場は日本語表示も出来るようになっており難なく購入出来、オセロのような丸いプラスチック切符が出てきた。入札時は自動改札機にかざすと扉が開き出札時には回収穴に入れると扉が開いて出札できる。ホームと線路の間には隔て壁が設置してあり列車到着時に扉が開くようになっていたので列車を撮ることは出来なかった。
市道の国広線で御手洗川に架かる国広橋で銘板によると昭和63年(1988)2月に架橋されたようである。明治33年(1900)発行の陸地測量部発行の地図には橋の記号がみられないので小さな橋が架かっていたものとみられる。
本日は高雄から鹿港の町並みを散策、初めて台湾新幹線に乗り台北から幻想的な九份を散策した。日本の観光地かと思うよう日本語があちこちから聞こえた。慣れぬタブレットから送信。
昨日は原地区にある廿日市市民俗芸能伝承館(眺楽座)でデコ芝居-説教源氏節人形芝居が演じられた。演目は朝顔日記の贋婿入りの段が演じられ、眺楽座の見せ場の舞台装置である「八反返し」で屋敷の奥行きのある広さを表していた。原小学校の児童全員も鑑賞しておりこの中から原地区で伝承されてきた説教源氏節人形芝居を継承してくれる人が育ってほしいものである。
当ブログ主は中学の頃ラジオ少年で同じ仲間と自転車で廿日市市平良から広島市紙屋町の第一産業(現エディオン広島本店)や広島駅前的場の鯉城無線などにラジオ部品を購入しに行き鉱石ラジオ、ゲルマニュームラジオ、並4ラジオなどを制作していた。画像は最後に制作した5球3バンドのラジオであるが、60年近く経過しているので部品が劣化しており電源を入れると煙が出そうだ。
原・川末地区をウォーキング途中に道路脇の雑草の中でアナグマが餌を探していた。こちらの姿を察知したのか道路に降りてしばらくカメラの方を見ていたが草むらの中に逃げていった。
御手洗川沿いで御手洗橋上手の分かりにくい場所に建立されている広田神社御旅所跡碑で、昭和49年(1974)9月に建立されている。広田神社の御旅所について江戸期の地誌に「神輿御宿院ヘ遷座ス、此社往昔ハ大竹筋当時之御旅所ニ有、元禄之頃甲田山ニ遷ス、中頃又今之小西山ニ遷ス」とあるが、詳しいことは定かでない。
上平良地区を通る山陽道の側道脇の法面に萩が生えているがもう花が咲いていた。萩の花は秋の七草の一つであり、中秋の名月に飾っていたような気がするが・・・