時折り紹介している廿日市11代目桜島大根が左側畝で5株が順調に育っており、右側畝では松本市東北部が特産の切葉松本地大根も順調に育っている。
種蒔き時に畝作りを次々として何となしに桜島大根と切葉松本地大根を隣り合わせにしてしまったが、花が咲いて隣り合わせでどのように交配していくものであろうか興味が湧いてくる。
御手洗川に架かる久保橋で親柱の刻銘によると明治19年(1886)5月に架橋されたようであるが、何時の時代であろうか現在のように架け替えられている。
橋梁や橋床はコンクリート製であり親柱と高欄が当時の部材が使用されている。高欄をみると巨大な石が使用してありかつては橋床も直角方向に長石が並べられていたようである。
民家土蔵の蔵飾りで当家の繁栄安泰を願った文字、火災に遭わないようにと龍の字を表したもの等や苗字、屋号などを表した文字も多くみられる。
上画像は上平良地区でみられるもので当家の苗字の一字が表されている。下画像は以前に訪れた周南市須金の町並みでみられた蔵飾りで国の字の上に山が表されており苗字か屋号が表されているものとみられる。
JR山陽本線串戸第3踏切り近くに建立されている天王址碑であるが建物が密集したところにあるので容易に探訪することができない。
宮内砂原地区にある天王社について江戸期の地誌に「此社往古者下組氏神広田社麓ニ有之由之処、天正年中之頃高汐満テ破損ニ付当時之社地ヘ移転有リ」とある。天王址碑の碑文、資料などみていくと紀元2600年(昭和15年-1940)紀念に旧社地付近であるこの地に天王址碑が建立されたようである。
玖島地区の県道294号虫道廿日市線沿いにある勁操園(八田公園)の「八田新七信敏翁之碑」で明治28年(1895)に建立されている。
記念碑の基礎部分の長石は綺麗に加工されており上部の親柱の加工や高欄の透かし加工など技術力の高い石工が関わって建立されたものであろう。
下平良地区の民家屋根に葺かれている瓦をみると各所に「吉」の字がみられ当家の苗字か屋号の一字を入れたものとみられる特注品の瓦が葺かれている。
上画像で大棟の鬼瓦と拝巴瓦、下画像で入母屋屋根隅棟の隅鬼瓦と隅巴瓦、軒瓦の巴瓦などで通常巴文様などがあるところに「吉」文字が表されている。
宮内北山地区にある黄幡神社の本殿脇に祀られている石祠で御神体であろうか白く丸っぽい石がみられる。当市域でこのような石祠はあまり見ることはなくこのような石を産する他地域から持ち込まれたものであろう。
古い時代には石祠で信仰されていたものが後の時代に現在の社殿が造営されたものであろうか。江戸期の地誌には王伴社がみられるが詳しいことは不明である。
原川末地区の川末集会所脇にある石鳥居で刻銘によると明治32年(1899)3月に建立されたようである。
江戸期の地誌によると王歳宮とあり川末地区で祀られていたが石鳥居が建立されて10年後の明治42年(1909)12月に伊勢神社に合併されている。かつての大歳神社に奉納されていた川末斎庭神楽は連綿と川末神楽団によって伝承されていたが後継者不足で途絶えてしまった。
玖島上川上地区にあるかつて農業用の倉庫であったものとみられる壊れかけた建物で、柱や梁、束など丸太を多用した建物である。
特徴的なのはアーチ状の横架材で自然の曲がり丸太を使用しており2本も同じような曲がり材があったものだ。
以前、原地区で道路築造によって細長い田んぼが二分割されていたことを紹介したが同じく道路築造により画像のような田んぼになったところもあり、狭い所は40~50cmで田んぼの作付もできそうにない。
当ブログ主の畑も道路築造により向かい側に2.06㎡の土地が残されたが何の利用も出来ない死に地となった。
原地区でみられたハゼの組み方で二叉のハゼ杭が主体で所々に一本ハゼ杭がみられる。長手方向の水平力に抗するため二叉のハゼ杭の片側と一本ハゼ杭に斜めハゼ杭が縛り付けてある。
当ブログ主は三叉と二叉のハゼ杭を適宜組み合わせていたが、父親が作っていたハゼ杭が老朽化したために現在はアルミ製三脚を使用しており風物詩のハゼも画一化のため興ざめである。
秋日和が続いているので上平良・原地区では稲刈りが各所で行われており、従来通りのハゼ架けも各所でみられ色々な稲束の架け方がみられた。
上画像から下段には稲束を七三に分けて交互に架け上段には二叉に分けた稲束を架けているもの、下段には稲束を七三に分けて交互に架け上段には斜めに稲束を被せたもの、下段には稲束を七三に分けて交互に架け上段には穂先を互い違いにして被せたもの、下段には稲束を七三に分けて交互に架け上段には穂先を揃えて被せたものなどがみられる。
御手洗川に架かるJR山陽本線の鉄道橋梁で上り線側のレンガ積み橋脚と川岸の石積み橋台は明治29年(1896)ごろ山陽鉄道の敷設工事で築造されたものとみられる。
レンガ積み橋脚の上部部分はコンクリートが打設されているので後の時代に改修工事が行われているようである。
以前にも紹介したが宮内宮迫地区を流れる宮迫川の水は宮園団地の高い擁壁に設けられた流出口から流出しており階段脇に設けられた水路は茶色になっていた。水路上からは田んぼへの取水口が設けてあり少し下流では数多くの鯉が泳いでいた。
宮園団地は真砂土の山を造成しているので流出する水は鉄分を多く含んでいるものとみられそのために茶色になっているが稲作や鯉の生息にも影響ないようである。
国道2号線の御手洗川に架かる藤掛橋は昭和6年(1931)から着工された宮島観光道路の建設で昭和7年(1932)3月に架橋されている。
上流側の親柱は花崗岩を部分加工して積み上げたもので観光道路の建設時に架橋した当時のものとみられる。下流側の親柱は何時の時代かに道路、橋の拡幅に伴ってブロック積みとされている。