佐方八幡神社に建立されている狛犬で船屋敷田原小左衛門集善と刻されており、安政5年(1858)に奉納されたものである。
先に紹介した天満宮、正覚院と各寺社に寄進している田原小左衛門は裕福で信仰心の厚い人であったようである。
昨日桜の名所である住吉土手を訪れたが桜の蕾は固くボンボリは吊り下げられているが花見は当分先のようである。
ところが4月1日には住吉土手に隣接する昭北グランドにてさくら祭りが開催されるようであり桜はないがこの周辺は賑わうのであろう。
天神山の天満宮随身門前の石段脇の石手摺で御船屋敷田原小左衛門と刻されており、文久2年(1862)に設置されたものである。
天満宮の参詣口で目立つところに他藩の家中が寄進していることは船屋敷の人々と当地との関わりが深かったことがわかるのである。
天神山の正覚院境内にある行者堂前に建立されている石燈籠で元治2年(1865)に建立されたものである。
刻銘によると津和野藩御船屋敷の田原小左衛門が寄進しており、船屋敷の人々は当地との関わりが深かったものとみられる。
岡山県美作市を通るかつて姫路から鳥取に通じていた因幡街道の大原宿にある旧大原本陣で鳥取藩主が宿泊していたようである。(古い資料には小原と記されているが現在は大原とある)
この本陣は鳥取藩主が往来する際は援助を受けることが多く、藩主の専用施設であったようである。
NHKドラマ夢千代日記で知られている湯村温泉街の路地を散策していると塀面に昔懐かしいホーロー看板がずらりと掲げられていた。
これらの中に当市中国醸造の懐かしいダルマ焼酎の看板があったがいつの時代のものであろうか。廿日市駅からさつま芋を運んでいた頃の焼酎看板であろうか。
国道178号線を鳥取方面に向っているとJR山陰本線余部橋梁下を通過する。この橋梁の脇にはかつての余部鉄橋一部が残されており、説明板によると橋脚の鋼材は米国ブリッジカンパニー製で明治45年(1912)に開通したようである。
余部駅は集落から40m余りの山上にあるので幅1m位のつづら折れの山道を登らなくてはならない。下画像は杉林の中の駅前通りである。
日本三景の一つである天橋立から丹後半島の先端方面に向って行くと伊根湾を囲んで約230軒の舟屋がずらりと並んでいる。
舟屋は海面ぎりぎりに建てられ1階部分は舟のガレージで舟を引き上げるようになっている。海側には切妻屋根で妻入りの舟屋がずらりと並らんでいるが、道路を隔てた山側の母屋は平入りであり特徴的な町並みである。
舞鶴市を流れる由良川に沿った国道178号線を天の橋立方面に向かっていたら道路脇の「安寿の里 もみじ公園」に安寿と厨子王像が建立されていた。
かすかな記憶であるが子供の頃に安寿と厨子王の話を聴いたことがある。近くには山椒大夫の屋敷跡など伝説に因んだ所が多く残っているようである。
舞鶴市は呉市と同じように明治期に旧海軍鎮守府が置かれたところで、現在でも市内各所に旧海軍関係のレンガ建造物が残されている。
その中の1棟を利用した赤レンガ博物館はレンガをテーマとし世界のレンガ関係の資料が展示紹介されており、レンガ建造物愛好者必見の施設である。
当ブログ休止中に丹波・丹後路の各地を放浪したので種切れを補うために紹介します。
京都府北端にある南丹市美山町の茅葺き民家の集落で、38棟のかやぶき屋根の建物があるようである。ここのかやぶき民家の特長は棟飾りで、棟の上に神社の千木に似たようなX型に角材を乗せて、建物の大きさにより5本、7本と奇数本乗せている。
宮内地区の岡迫谷にある岡迫大歳神社で脇に榎の幹周り1.8m位の神木がある。昔境内の木を切った人がありその人は失明したといい、それでその木の根を御神体にして祀ったと以前古老に聞いたことがある。
この神社も明治7年に八坂神社に合祀されたが氏子達によって明治8年に復旧分祀されたようである。
宮内地区の宮園団地入口付近にある宮迫集会所脇を進んだ突き当たりにある宮迫明神社である。
かつて宮迫谷の奥部にあったのであるが周辺は宅地化されて窮屈となり鳥居も不自然な位置に建立されている。明治7年に八坂神社に合祀されたが氏子達によって明治8年に復旧分祀されたようである。
昨日紹介した原地区の民家屋根の切妻部分棟下に装飾的な彫刻の懸魚(ゲギョ)が取付けられている。
この民家の懸魚と同地区他所にある民家の懸魚のデザインが部分的に似ているところがあるので同一大工によって建築されたものとみられる。