上平良地区の二重原川に架かる二重原橋の床版をみると長年にわたっての自動車通行により表面が削り取られて玉砂利が表われている。
現在ではコンクリートに玉砂利を使用することはなく均一サイズの砕石を使用しているがこの橋のコンクリートに使用されている玉砂利をみると大小色々なサイズのものが使用されており、河川の砂利が採取禁止される以前に築造されたものであろうか。
昨日紹介した佐方川沿いにJR山陽本線の鴨原踏切があり、鴨原の地名は江戸時代に藩主が鷹狩りをする鴨原(鷹野)があったからである。当時、佐方1丁目から4丁目一帯は葦(アシ・ヨシ)が生い茂った湿地帯であったようである。
江戸時代の終わりごろ弘化3年(1846)1月25~27日に広島藩主が廿日市に逗留して鴨原で鷹狩りを行って鷹、真鶴、真鴨、小鴨、鷺、五位などが狩猟できたようである。
佐方地区を流れている佐方川は佐方1丁目の町並みより高い位置を流れている天井川で、佐方川の川底から鴨原踏切北交差点の道路面との差は約-1.0メートルである。
現在は護岸が整備されているが江戸期の地誌には「大雨洪水之節ハ砂夥敷流出候処、素ヨリ川筋高砂土手故動スレバ切込ミ田地砂入等統都テ洪損之愁有之、・・・」とあり、大雨の時には砂土手が決壊して田んぼに砂水が流入していたようである。
速谷神社本殿脇に祀られている境内社の稲荷神社であるが、天保13年(1842)に刊行された厳島図会の絵図速田社をみていると境内社が蛭子社となっていた。
元禄11・14年(1698・1701)の速田神社焼失再建の記述に蛭子宮とあり、安政6年(1859)の諸事書出帳など江戸期の史料には胡子社、恵比須社とみられる。昭和9年(1934)の速谷神社造営誌には境内神社として稲荷神社とされているがどのような経緯で改祀されたのであろうか。
新宮神社の境内にある旧平良村の戦役紀念碑で明治45年(1912)7月に建立されている。この碑には明治27・28年日清戦争、明治33年北清事変、明治37・38年日露戦争などの戦死者、病没者、従軍者の名前が刻されている。
この碑はもと可愛橋西詰め脇に建立されていたのは記憶しているが、それ以前は速谷橋の袂にあったと聞いたことがあるが裏付け資料がないものだろうか。
新宮神社に架けられている注連縄は速谷神社から貰い受けたもので相当以前に先人たちが作成したもののようである。このような注連縄の作り方を継承した人がおらず速谷神社では現在作成しているようなものになった。
架けられている注連縄は綯っていたものを解いて再度三つ編みにしてあり、注連縄の綯い方を熟知されていない方が行ったものと思われる。
一書によると新宮神社は藤掛城主の小方加賀守が永正頃領内鎮守のために祀ったのが始まりとあるが詳しいことは定かでない。
当神社には「永禄元年9月29日、新宮本地仏」の墨書がある懸仏があり神仏習合時代の信仰を窺うことが出来る。明治期の神仏分離でも残されていたのである。
平良地区最下流域の田んぼは広電廿日市市役所前駅近くの新宮1丁目2番にあり(上画像)、薬師井手からの灌漑であろう。
可愛川の東側では県道から平良保育所、廿日市駅方面に向かう市道沿いの平良1丁目15番と18番にあり柳庵川からの灌漑とみられる。何れの田んぼも周辺は市街地化しているので田んぼ作りは大変だろう。
先日、田んぼ周辺に猪が出没したことを紹介したが今度は遠く離れた別の田んぼ周辺の畑を掘り返していた。山陽自動車道で山が遮断された反対側なので別の猪かもしれない。
田んぼ周辺に張る防止ネットの準備が出来ていないので猪おどしを作ってみたが音が小さく威しの効果はなさそうだ。優雅だと猪が寄ってきては大変だが。
JR山陽本線上に架けられた大之木水路橋から鉄道線路を見るとは越峠垰付近で大きくカーブしている。
電車に乗っても電気を供給する架線の張り方まで気にしたことはなかった。線路はカーブなりになっているが架線は折れ線グラフの線のようにカーブに沿って折れ曲がって設置されていた。
一昨日の新聞報道で厳島神社の楽房などの修理開始の報道があった。現在楽房の屋根は直線となっているが明治30年代頃までは社殿風の反りのある屋根であった。
江戸期の厳島図会絵図(下左画像)や明治30年代の発行と思われる絵葉書(下右画像)にみられる社殿風の屋根であるが、明治37年(1904)発行の厳島名勝写真帖写真では屋根が直線となっている。明治30年代に楽房の修繕が行われているのでこの時に改変されたようでありどのような理由で反り屋根が直線屋根になったのであろうか。
山陽自動車道の宮島サービスエリア付近の法面にはタカサゴユリがたくさん咲いている。以前は法面の樹木が伐採されていたのでタカサゴユリが群生していたが樹木の繁茂で繁殖が抑えられているようである。
タカサゴユリは外来種で台湾に自然分布しているようでタイワンユリとも言われているようである。
速谷神社の神門にこのほど大注連縄が架けられた。この大注連縄は島根県飯南町の大しめなわ創作館を運営している注連縄企業組合の人達によって制作されたものである。
昨年秋に大しめなわ創作館を訪れたが大注連縄外周の菰は編み紐が外から見えないような編み方で見ただけでは習得出来ないような熟練を要す編み作業である。
先日、日覆いテントのある県道(商店街)を紹介したが舗装道路の終わりが県道終点でここからは厳島神社境内となり注連柱が建立されているが右側は店舗で隠れている。
この注連柱は明治13年(1880)9月に当島の大根屋芳植右衛門により奉納建立されたようである。
宮浜温泉の逢瀬橋手前にある注連柱でなぜこのようなものがあるのだろうかと刻銘をみると明治44年(1911)5月広島市の手拭改良元祖桑原政助が創業25周年紀念で厳島神社大前に奉納建立している。
この注連柱はもと宮島駅から宮島口桟橋へ向かう参道に建立されていたが道路拡幅に伴って新しく開発された宮浜温泉に移設されたようである。