平良地区陽光台団地の高台から原方面を遠望すると中央を山陽自動車道の速谷高架橋が横切っている。高架橋の手前は上平良の集落で、上側に見える手前の山はコゴロ山、左側に原小学校と原集落、遠くには一景苑団地がみられる。遠くの山で高く見える山が汐見山で、昔、厳島神社の管弦祭の日には葛原の住民がここで提燈をとぼして管弦船を迎えたということである。人差し指の運動! ポチッとね!
津田地区にある民家の土蔵に取り付けられている蔵飾りで、鉄板を円形に加工して苗字のひらがな一字をとった屋号とみられる「かねふ」が書いてあるものである。土蔵の漆喰塗りの維持管理は大変なので亜鉛鉄板が張ってある土蔵がみられ、蔵飾りも漆喰細工でなく鉄板加工のものが時々みられるのである。人差し指の運動! ポチッとね!
深江地区を更地に向かって行くと対厳山団地の高い擁壁があり、壁面には大小たくさんの円弧状模様が描かれている。葛かずらであろうか垂れ下がった蔓が風に揺られて擁壁面に円弧状の模様が自然に描かれたもののようで、雑草と風が創り出した芸術である。人差し指の運動! ポチッとね!
宮園団地内にある宮園公園は一周400メートルのトラックやサイクルロード、芝生広場や遊具などが整備されており、早朝にはウォーキングやジョギングで健康づくりをする人が多くみられる。昨日はグランドゴルフの大会でもあったのだろうか多くの人が集まってプレーをしていた。なんと中高年のグランドゴルフをする人が多いこと。人差し指の運動! ポチッとね!
原往還道について続けて掲載しているが、廿日市から最初の集落があった原橋本地区の民家である。昨日記したがこの往還道を小荷馬が1日に約500頭が行き交っていたということで『原で橋本田舎で名所、出馬入馬市がたつ』と唄われるほどの賑わいであったようである。ここは三叉路で辻地蔵があり橋を渡って手前が川末から泉水峠、大沢越を経て吉和、匹見方面に通じており、左手に進むと山県方面へ通じていた。人差し指の運動! ポチッとね!
玖島平谷地区のはずれに黒草街道と表示された中国自然歩道の看板があった。この道は石州往還から川上方面に向う往還道を黒草街道といっていたようである。
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昨日紹介した昔の原から吉和、匹見方面や山県方面に向かう往還道があるすぐ下の広池川のそばに小野荒神社が祀ってある。昔、広池の谷で土石流があり田畑が被害を受けたために水害防止と、往還道を行き来する人馬の落下事故が多発したために交通安全を祈念して村人が祀ったもののようである。人差し指の運動! ポチッとね!
五庵山付近から小野地区の集落と遠くには極楽寺山を遠望する。左側の高く見える山が星ケ城跡で右側の低く見える山が極楽寺のある山である。手前の急傾斜地崩壊対策の工事が行われている部分で道状に見える部分は、江戸時代、原から吉和、匹見方面や山県方面に向かう往還道があったところで、上平良や原からの近道であった。人差し指の運動! ポチッとね!
広電宮島線の唯一のトンネルで藤掛山の下にある串戸隧道で平良側からの写真である。昨日紹介した新宮神社のすぐ裏手にあたる。串戸隧道は長さ106.62mの短かくカーブしたトンネルで、大正9年(1920)11月に着工して大正11年(1922)11月に竣工している。人差し指の運動! ポチッとね!
下平良新宮地区にある新宮神社で現在の社殿は平成9年(1997)に改築されたものである。新宮神社は下平良の氏神で永禄元年(1558)9月29日の墨書銘のある懸仏があり、神仏習合時代の珍しいものが残されています。人差し指の運動! ポチッとね!
廿日市駅北土地区画整理事業で駅と洞雲寺との間の山が崩され始めている。現在は佐方小学校通学路付近が掘削されており、尾根筋もブルドザーの音が聞こえるので駅裏の緑の山ももうすぐ消滅しそうだ。人差し指の運動! ポチッとね!
市内各所のゴミ集積場でよく見る光景であるが、ゴミ収集日の間違いや分別の仕方が間違っていて収集出来ない旨の赤い警告シールが張ってあるのをよく見かける。それに当番か責任者が表示したものとみられる注意書きが張ってある。原地区にあったゴミ集積場にはユーモアのある素人画が張ってあり、思わずニッコリ・・・むつかしい注意書きよりこのほうが説得力がありそうだ。人差し指の運動! ポチッとね!
折敷畑山の裾野を造成して宮園や四季ケ丘団地が造成されたのであるが、山に接する小さな谷で水流の少ない谷川に、巨大な砂防堰堤と関連施設が設けられている。関連HPによると広島西部山系には地形が険しく、また風化によって崩れやすい「まさ土」となる花崗岩が広く分布している。さらに宅地開発が山の斜面にまで広がっており、土砂災害の危険性が高いとのことで土石流を防ぐ砂防えん堤の整備の推進を図っているとのことである。人差し指の運動! ポチッとね!
江戸時代の国道であった西国街道の街道松が大東地区に1本残されており、松の葉がまばらだったので樹勢の衰えかと心配したが、写真のように緑葉であり酷暑を乗り切ったようである。かつては岩戸土橋から廿日市の東口の間に68本の松並木があったが現在ではこの1本のみであり大切にしたいものである。人差し指の運動! ポチッとね!
二重原八幡神社のある高台から上平良大原地区を遠望する。写真の下側には河愛川(速谷川)が流れており、民家があるところは小字大原地区で遠くの山は極楽寺山で尖がった最高所は中世の星ケ城の跡である。黒折から国道433号線に向けての廿日市循環線が写真の3/1の高さの所を横切る予定である。人差し指の運動! ポチッとね!
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