昨日紹介した備後落合駅の2・3番線ホームの上屋の骨組みは古レールを加工して築造されており、厚く塗られ柱材から刻銘がかすかに読み取れる。刻銘には「CARNEGIE 1908 ET ・・・」とあり、アメリカのカーネギー製鋼会社が明治41年(1908)に鋳造、レールとして使用し耐用年数を経過して上屋に再利用されたもののようである。
昨日紹介した備後落合駅の2・3番線ホームの上屋の骨組みは古レールを加工して築造されており、厚く塗られ柱材から刻銘がかすかに読み取れる。刻銘には「CARNEGIE 1908 ET ・・・」とあり、アメリカのカーネギー製鋼会社が明治41年(1908)に鋳造、レールとして使用し耐用年数を経過して上屋に再利用されたもののようである。
日野路からの帰路途中、俄か鉄ちゃんになりJR備後落合駅に寄ってみた。芸備線からこの駅で木次線が分岐しており、かつて100人余の国鉄職員がいたということであるが今は閑散とした無人秘境駅である。駅には3番線までのホームがあって数多くの線路がみられ草に埋もれかけた転車台も残されており往時を彷彿とさせる。
訪れた時間に木次線の列車が1番線に到着して2番線の新見行、3番線三次行に乗り継ぐようになっているようであるが、木次線が不通になって代行マイクロバスで5~6人の乗客が到着して乗り継いで行かれた。
下榎厳島神社
丸山厳島神社
今回訪れた日野路にある厳島神社二社を参詣したが、なぜ中国山地に厳島神社があるのだろうか。日野町下榎にある厳島神社は鳥取県神社誌に「社伝に宝永年中同村安左衛門と云ふ者安芸国嚴島神社より勧請せしと・・・」とあり、日南町丸山にある厳島神社は同神社誌に「伯耆志に曰く夏日山の城主夏日重郎左衛門永豊といふ人安藝の産にて厳島明神を勧請す・・・」とあった。
根雨の街並みに向かう途中にオシドリ観察小屋の案内表示がしてあり、街並みのマンホール蓋にもオシドリがデザインされていたので、日野川に架かる伯備線鉄橋下にあるオシドリ観察小屋に行ってみた。飛来シーズンを過ぎていたものとみられ数羽のオシドリしか見ることが出来なかった。
車を降りると連れ添いはインスタ映えのネタ探しに、当方はいつもの徘徊とオシドリのようにいつも一緒ということになれそうにない。
出雲街道の宿場町であった日野町根雨の街並みを散策していると松江藩主が宿泊した本陣の門が街並みの町屋に移築保存されていた。街並みの中でひと際風格を帯びた町屋がみられ伯耆の鉄師である近藤家の邸宅のようである。奥出雲のたたら製鉄の鉄師田部、絲原、桜井家御三家については何度か訪れて知っていたが伯耆の鉄師近藤家は初めて知った。宿場町の面影が残る街並みに昭和4年(1929)に建築された洋風建築の元山陰合同銀行根雨支店もみられる。各部に施された装飾は当時流行していた建築様式であろうか。
先日紹介した岡山県新庄村の凱旋桜見物を済ませて隣接の鳥取県日野町にある金持(かねもちであらずかもち)神社を参詣した。日曜日であり多くの参詣者がみられた。看板表示によると金持は景気の良い地名であり明治期に金持神社と改称されたようである。昭和後期ころから「当社に祈願をして宝くじを買ったら大当たりした」との噂から現在のような流行神となったようである。当ブログ主は以前に唐津市の宝当神社に参詣したが・・・
JR大野浦駅の改良工事について何度か紹介したが、先日通りがかりに訪れてみると斬新ななデザインの橋上駅舎と自由通路が完成していた。かつての大野浦駅舎は北口にあり駅舎からホームへは斜めの変則的な渡り通路や跨線橋であったのが思い出される。
先日の見島行きに萩市に早く着いたので市内川島にある桂太郎旧宅を訪れ写真を撮っただけで萩商港に向かった。桂太郎は明治維新後に総理大臣を三回務めており廿日市の桂公園に関わりがあった人である。桂太郎は先祖の桂元澄が居城していた桜尾城跡を買収してかつての廿日市町に寄贈したのである。
条件として寄贈の山林は桂公園と命名して、永久に維持することと開園記念碑を建設することになっていたが、桜尾城跡は削平されて遺構は無くなっている。
金毘羅宮
住吉神社
見島神社
吉祥寺
讃岐坊
本村地区にある金毘羅宮、住吉神社、見島神社、吉祥寺、讃岐坊を参詣した。漁港近くの高台にある金毘羅宮では訪れた日が祭日で社殿で祭典が行われていた。住吉神社も漁港に隣接して祀られており境内には境内社もみられた。見島神社は明治期に八幡宮と客幡宮が合祀したようであり、当神社には至徳4年(1387)、八幡宮の刻銘がある鰐口があるようであるが拝見はできなかった。
吉祥寺のかつて山門は萩城の城門が移築されていたが、昭和62年(1987)に改築されたようであり、萩城の城門を偲ぶためであろうか毛利家の紋章「一に三つ星」の瓦が使用されていた。江戸期、讃岐坊は八幡宮と客幡宮の社坊であったようで、応永20年(1412)、客幡宮の刻銘がある梵鐘があり本堂内には北前船の奉納絵馬が掲額されていた。
約4時間の滞在時間で日本海の孤島見島を駆け足探訪、主だった所しか見ることが出来なかったが、当ブログ主にとって魅力ある島であった。
本村地区を散策していると笠石と表示した画像のような石造物がみられた。ネットによるとナバ石ともいわれ原始宗教の遺物で男性のシンボルを表し笠石の上に小石を載せて拝むと子宝に恵まれるとある。先にも記したが見島は本土より遠く離れた孤島であり島独自の信仰形態があったものとみられるのである。
見島の最高所標高175mのイクラゲ山にある航空自衛隊春日基地見島分屯基地で、西日本の空の監視の要衝として航空機等の警戒監視をしているようである。この地は昭和16年(1941)に呉海軍警備隊特設防空見張所が設置され、翌年には電波探信儀の装備工事が行われている。
昭和20年(1945)敗戦により連合軍に引渡し撤去されたが、朝鮮戦争の勃発により昭和25年(1950)米軍がレーダー監視所を設置しており、昭和30年(1955)に航空自衛隊見島分屯基地が開庁してから現在に至っているようである。
見島内で通れる道路を電動レンタル自転車で一周したが、溶岩台地であることはほとんど分からなかった。先に紹介した観音寺がある観音崎の海岸筋は溶岩台地独特の美しい景観であった。見島の岩石学的研究によると約1200万年前から約820万年前の間に起こった火山活動によって出来た島のようである。
先日紹介した要害山の見島灯台の脇にある鬼子母神堂には鳥居が建立されており、昨日紹介した観音堂と同じように仏教の堂に鳥居が建立されているのである。観音崎の”おにようず”を揚げる観音平の端に鳥居がありその先の岩の上にも鳥居があり何か祀られており、同じく観音崎の古牧台公園には円形に囲んだ中に不動明王像などが祀られている。
石積み墓域と同じく当ブログ主はみたことがないものであり本土より遠く離れた孤島で島独自の信仰形態があったのだろうか。
宇津地区の観音崎にある観音寺に向かう参道には鳥居が数多く建立されており神社かと・・・鳥居の扁額をみると正観音とある。本堂には木像正観音が安置祀られているようである。当寺所蔵の鰐口は拝見することは出来なかったが、銘文には応永13年(1406)と刻されているようであり、当寺は中世中頃から存続していたようで、江戸期には茅葺屋根の本堂だったようである。
一昨日は見島の露兵漂着地碑を紹介したが、昨日は日露戦争の戦勝記念の凱旋桜見物をした。岡山県新庄村を通る旧出雲街道の宿場町であった新庄宿の街並みの両側に、明治39年(1906)日露戦争の戦勝を記念して桜が植えられ、がいせん桜通りと称されているようである。昨日は時折り小雨の中の”がいせん桜まつり”であったが、がいせん桜通りは大勢の観光客で賑わっていた。がいせん桜の方は散り始めており少し時期が遅かったようであったが、人通りのない新庄川土手の八重紅しだれ桜は見頃であった。