天神山から廿日市本陣跡と新しくなった中央市民センターの俯瞰で赤線で囲った部分が本陣跡の位置である。本陣跡の片隅に建立されていた石碑は分譲宅地化されたために隣接した中央公民館(当時)の本陣跡寄りに移設されていた。
今回、中央市民センターの整備で前庭の楠木近くの赤丸ケ所に廿日市本陣跡の石碑が移設されており以前より本陣跡から離れた位置に設置されているのである。この石碑だけを見ると中央市民センターの地が本陣跡と思われ間違った位置を教える石碑となっているようである。 「廿日市本陣」
孫たちのサツマイモ掘りをとサツマイモの苗40本を植え付けていたが猪にきれいに掘り返された。隣接地の菜園各所でも被害を受けていたので二重に防護網を張っていたが網を破って侵入された。
サツマイモの根にはまだ芋は付いていないので餌にあり付けなかったのかまだ小さい柿の実をかじっていた。費用と手間暇かけて全滅・・・有害鳥獣の駆除を依頼しても対応が鈍いので個体数を減らすよう自己防衛するしかない。猪御用だ!
梅雨明けの炎天下、市内の探訪を終わり人吉駅に帰って一息ついているとホームに「SL人吉」が見えたのでこの列車で熊本駅まで帰ることにした。「SL人吉」は蒸気機関車による列車の牽引で両端の列車は展望ラウンジが設けられて沿線の球磨川を眺めることができ、途中の停車駅では長い停車時間があり大正11年(1922)製造の蒸気機関車や駅舎など見ることができた。
人吉駅構内では明治期に建築されたというアーチの出入り口がある石造の機関庫と蒸気機関車の方向転換する転車台などを見ることができた。SL列車に乗るのは何十年ぶりであろうか。黒い煙をたなびかしながらの「SL人吉」で九州の小京都人吉を後にした。
相良氏の菩提寺である願成寺本堂前には御陽成天皇勅願所とある大きな石碑が建立されていた。境内の相良家墓地には人吉藩相良家当主や夫人、子供や家臣など大きな五輪塔ではないが240余基の林立は圧巻である。
墓地内の一角にはNHKの大河ドラマ「真田丸」に登場している石田三成ほかの供養墓が建立されていた。なぜこの地に石田三成の供養墓が?と思ったが相良氏は当初石田方に属していたが寝返って徳川方に応じ近世大名として存続したようで、相良氏は石田三成など三十三回忌供養を行い供養墓を建立したようである。
茅葺の覆屋がある老神神社に参詣すると通常燈籠は参道両側に一対で建立されている場合が多いがここでは参道の中央に八角形の石燈籠が建立されていた。宝珠、笠、火袋、中台、竿、基礎すべて八角形で特に火袋は斬新で特徴ある形状である。
国の重要文化財に指定されている本殿上には茅葺の覆屋が設けられており、これまで紹介してきた青井阿蘇神社、岩屋熊野座神社、武家屋敷と当地では昔ながらの茅葺屋根の建物が多く残されているところである。
武家屋敷は生憎の定休日で外から見るだけで、武家屋敷の入口門は人吉城唯一の現存遺構が移築されている堀合門のようである。先日紹介した人吉城の犬走り石垣画像左側のかつて堀合門があった場所には復原された門が建てられている。
茅葺の武家屋敷は藩主の狩りの際休憩所として球磨郡一丸に建てられていた御仮屋を明治期に移築されたもののようである。
人吉駅裏にある大村横穴群で上画像左側の先にも横穴群がみられるが、何れも崩落の危険があるため近づくことができないのと夏草が茂っているために部分的な探訪しかできない。
看板表示によるとこの横穴群は古墳時代後期に造られた墓のようで、一部の横穴入口周囲には動物、武器、武具、幾何学文様などの装飾がみられるようで中画像でかすかにこれらの一部を確認することができる。
人吉市の西境付近にある石水寺の前を流れる馬氷川に架かるアーチ型の石橋(眼鏡橋)で江戸期の嘉永7年(1854)に架橋されたようである。川向の山門(現在修理中)から石橋を渡ると道路が横切っており、続いた参道石段下と上に見たことのないような第二、第三の門がある。
第二門は4本の石柱の上に木造の小屋が架けられ屋根は厚板が葺いてあるもので、第三門は大きな板状の石を丸く刳り貫いた何れも珍しいものである。
中世から近世にかけての相良氏居城である人吉城で球磨川と胸川の合流点沿いには多門櫓、角櫓、長塀などが復原されている。(上画像)
城跡各所で石垣はみられるが御館跡の武者返しの石垣が特徴的で、天端の石がはね出しているもので幕末期に築造されたようである。(中画像)このようなはね出しの石積みは以前訪れた北海道函館市の五稜郭(下左画像)や長野県佐久市の龍岡城(下右画像)など幕末期に築城された西洋式城郭にみられた。
人吉市のあちらこちらをレンタル電動自転車で探訪中に郊外で葉たばこを栽培している畑を当ブログ主は初めて見た。
ネットで見ると球磨地方(熊本県南東部)は有数の葉たばこの産地のようで煙草神社なるものがあるそうである。以前紹介した昔の葉たばこ乾燥小屋のようなものは見当たらなかった。
人吉市街地を外れた南東部にある岩屋熊野座神社で拝殿と3棟並んだ本殿の覆屋は茅葺であり、覆屋にはプラスチックの透明板で本殿を風雨から守るようにしてある。何れも国の重文に指定されているようである。
参道入口に建立されている石造鳥居は厳島神社の鳥居によく似た両部鳥居形式の鳥居で球磨地方(熊本県南東部)では唯一のもので元禄14年(1701)に寄進され国の重文に指定されているようである。
昨日の朝、徘徊初めに再び青井阿蘇神社を参詣した。楼門、拝殿、幣殿が茅葺屋根であることは昨日紹介したが、人吉・球磨地方には茅葺の社寺が多くみられるようである。
この社殿群をみると彫刻や彩色など豪華な装飾が取り入れられており人吉・球磨地方独特の伝統的な社寺建築であろうか。
昨日、小倉に帰る娘、孫達の車に便乗して足を延ばして人吉市に向かい徘徊を始めた。先ず国宝である茅葺きの楼門、拝殿、幣殿などの青井阿蘇神社を何年ぶりであろうか探訪した。
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宮内小学校横を通っていたら体育館屋根の軒部分に見たことがないような構築物が設けられていた。この体育館は昭和52年(1977)に建築されたようで、屋根面の水平剛性が足りないために平成27年(2015)に耐震工事が行われたようである。
既設建物への工事であり屋根面内部に設けるのが難しいので外部に水平のトラスを設けたためこのような異様な構築物となったようである。
宮内的場地区にある廃光代寺観音堂で中世の光代寺は禅寺で厳島社末社天王社の別当職を務めていた。本尊は十一面千手観音像で極楽寺の本尊と同じ木で行基菩薩の作と伝えられている。
戦国時代末ごろ光代寺の住持は廿日市鋳物師山田次右衛門の弟の林斎で、江戸期になって林斎は還俗し宮内村の庄屋に据え置かれ代々世襲し観音堂守をも務めていた。