平成25年もいよいよ今日かぎりとなりました。昨日、速谷神社の境内にはすでに露店が数多く並んでおり、幟立て、注連縄張りや門松しめ飾りの組立ても終わって初詣準備万端のようである。
※当ブログは老化防止の気まぐれぶらり見たままのブログですが、今年も多くの方々にご来訪頂き大変有難うございました。来年もできるかぎり頑張りたいと思いますのでお暇な時にご来訪ください。
先日、河野原大歳神社の注連縄を作成中であることを紹介したが、大歳さんの拝殿と本殿に新しい注連縄を掲げた。
拝殿の間口を計測していなかったので少し注連縄が短かく垂れが少なめであるが、次回チャンスがあれば少し長めにしなくては・・・
昨日宮園公園の芝生広場にドクターヘリコブターが飛来し救急患者が搬送されたものとみられる。飛来時と飛び立ち時には芝生広場内に入り込まないように消防隊員が配置されていた。
ドクターヘリが飛び立った後にポールに掲げられていた吹流しが降ろされており、飛来したヘリコプターが上空から風向、風速の判定、確認ができるように掲げられていたようである。
速谷神社絵葉書にみられる一の鳥居で昨日紹介した昭和57年(1982)頃まで存続していた両部鳥居と同じものとみられる。
絵葉書画像をみると一の鳥居である両部鳥居と現在の楼門の位置に明神鳥居の二の鳥居、神門の位置に明神鳥居の三の鳥居がみられ、当時は三基の鳥居があったようである。
速谷神社参道入口付近に建立されていたかつての木造両部鳥居で、昭和57年(1982)頃まであったが腐朽のため現在のコンクリート大鳥居が建立された。
鳥居に掲げられていた神額には明治8年(1875)二品親王熾仁書とあり、有栖川宮熾仁親王の揮毫のようである。
昨日紹介した二重原八幡神社のかつての鳥居に掲げられていた神額は現在も残されている。
神額刻銘によると寛政8年(1796)の正月に当村の割庄屋と氏子中によって寄進されたようである。鳥居は寛延2年(1749)、天明5年(1785)、明治9年(1876)に建立されているようである。
二重原地区にある八幡神社の急勾配で長い石段の途中に6ケの並んだ石がみられるが、ここにはかつて木造鳥居があったところである。
厳島神社の鳥居と同じ両部鳥居が昭和57年(1982)頃まであったが、腐朽のために撤去されてからは再建されていない。
畑の片隅に皇帝ダリアを植えておりいまだ花が咲いて通りすがりにいつも花を見上げていたが、ふと茎の方を見ると今まで見た事がない葉茎の付け根であった。
葉茎は各段毎に90度ずれて互い違いになっており、葉茎の付け根が不思議な形状で上部の葉茎の付け根から花茎が伸びて花を付けている。最初の葉茎は両側に出ているが成長につれて付け根が次第に繋がり膨らんでいくようである。
昨日は冬至だったので「はつかいちブラリ湯」では、今年なり年だった鈴なりの柚子を浴槽たっぷり入れた柚子湯とした。
先日来紹介していた田んぼの石積み作業も終わってのんびりと柚子湯三昧・・・あぁー極楽!極楽!
すべすべ肌の入浴シーンをと撮影依頼したが即却下。・・・ということで無人の画像のみ。
昨日は天気の移り変わりが激しく晴れていたかと思っていると雲って雨が降り出し、又晴れてくるというような生憎の天候であった。
極楽寺山系から野貝原山系一帯は白くなって雪かみぞれが降っていたが上平良付近では雨で、宮島と大奈佐美島・豪頭鼻間の厳島海峡では陽射しが帯状に見られた。
昨日、上平良地区を散策していると田んぼでひこばえの穂が付いているのがいまだ残っていた。
早い時期に稲刈りをされたものとみられ小さな二番穂があるがほとんど実は入っておらずこの時期まで存続していたが、この寒さでじきに枯れていくものとみられる。
天満神社境内に昭和3年(1928)御大典記念に寄進した日の出醤油の刻銘がある玉垣がある。
日の出醤油醸造元である東合資会社は須賀町のグランドメゾン廿日市駅前がある地で大正11年(1922)に創立している。下画像は昭和11年(1936)頃の東合資会社店舗の様子であるが何時ごろまで醸造していたのであろうか。
先日速谷神社での注連縄作りで余った稲藁を貰い受けたので大歳さんの注連縄・飾り房をと挑戦してみたが、気に入らないので後日また作り替えだ。
注連縄作りは三人がかりでないとうまく出来ないのであるが、一人で悪戦苦闘の末画像のような注連縄が出来た。力を入れて藁束を捻りながら藁を補給し綯っていくのであるが一人では難しいものだ。
上平良地区にある通称吉野山周辺の民家庭先まで猪が出没して田畑を耕したように掘り返す被害があり捕獲用の檻を設置して貰った。
捕獲装置が作動しない状態で檻の中に糠を撒いてしばらく猪を馴らしておいてから捕獲装置を作動させるようであるがうまく捕獲できればよいのであるが・・・
昨日、速谷神社において新春に社殿などに飾る注連縄作りが地域の氏子の人達によって行なわれた。
稲藁のあくた取り、木槌で藁打ちなどの下準備から本殿、儀式殿、斎館、注連柱の4ケ所の大小4本の注連縄などを分担して作製した。