平成29年もいよいよ今日かぎりとなりました。昨日、速谷神社へ訪れてみると幟立て、前垂れしめ飾り門松の組み立てもされており、境内には露店が数多く並んで初詣準備万端のようである。
※ 当ブログは老化防止のために記しているぶらり見たままのブログですが、今年も多くの方々にご来訪閲覧頂き大いに励みとなりました。来年も老体鞭打って更新を続けたいと思いますのでお暇な時にご来訪ください。
今年も明日限りとなりましたが去っていく酉年に因んで今年撮影した鳥を・・・ 上画像はキジの雄(4月10日近所で)、中上画像はキジの雌(2月24日石城山で)、中下画像はムクドリ(5月7日田んぼで)、下画像は綺麗な鳥であるが鳥名不明(5月11日松江フォーゲルパークで)撮影したものである。
今年もあとわずか、先日河野原大歳神社の注連縄を作成したことを紹介したが、数日前に河野原大歳神社の拝殿と本殿前に架けておいた。画像をみると房飾りの中心がずれていたが神さんに怒られそう・・・
ウォーキング途中に参詣する原地区の伊勢神社は初詣準備がしてあり、一の鳥居と二の鳥居には新しい注連縄が架けられていたが拝殿と本殿前は古い注連縄のままのようであった。
極楽寺境内にある松ですでに枯れて上部は折れている木に見たことがないようなコブがみられた。サイトによると木にコブ病が発生することがあるとあったがコブ病によるものであろうか。廿日市参道脇の松の切り株に飴色の硬いサルノコシカケが生えていた。
極楽寺への廿日市参道26丁碑の脇にある手無し観音堂であるが観音像は無くなり石仏が安置されている。江戸期の地誌絵図に手ナシ神と記されているものがこれに相当するものであろうか。星ケ城跡の脇を過ぎると屏風を立てたような巨石、通称「屏風岩」の上に大日如来像が安置されているがかつて堂宇があったが朽ちてしまった。明治35年(1902)に大日如来堂再建の棟札が残されているようである。
極楽寺の力石
伊弉諾神宮の力石
田村神社の力石
極楽寺境内にある砲弾型の力石でかつて娯楽の少なかった時代の極楽寺縁日の日には若い衆が力自慢をしていたものであろう。戦前には鉄製の打出の小槌型の力石(?)があったようである。昨年5月に参詣した淡路市の伊弉諾神宮境内には丸型の力石が3個あり、高松市の田村神社境内には長方形で重さが刻された力石が6個みられた。
18丁・19丁碑
20丁・22丁碑
24丁・26丁碑
27丁・29丁碑
30丁・34丁碑
35丁・36丁碑
37丁・13丁碑
極楽寺廿日市参道には江戸期の里程碑が建立されているが失われているものも多くある。今回は宮島SA脇から登っているので18丁碑から37丁碑までの里程碑があり、37丁碑向い側には観音参道の13丁碑が建立されている。廿日市参道の里程碑は天明元年(1781)に廿日市の町人衆によって建立されているのである。
一昨日今年納めの登山をと宮島SA脇から廿日市参道を登り極楽寺に参詣しもう少し足を延ばそうかと夫婦樫がある駐車場付近まで行くと残雪があった。帰路23丁付近から放浪癖が疼き出し廿日市参道を外れ、天狗岩と思われる大岩を見て臼ケ谷を下り上平良参道を経て帰った。極楽寺山は登りやすい山であろうか中高年の登山者が多く30人位出会ったであろうか。
昨日紹介した旧国道跡が残る八坂山の先端部は現在ヤクショウ鼻と国土地理院の地図に記されているが、江戸期の地誌絵図には役所ノハナと記されている。このヤクショウ鼻は大野地域でわずかに残されている自然護岸の岬の一つであり、少し東側にある岬(下画像)の名称は明らかでないがこれらの自然景観はいつまでも残してもらいたいものである。
昨日紹介したJR八坂山トンネルに隣接して海側に国道2号線の八坂山隧道がある。昭和23年(1948)に八坂山隧道がある国道2号線が開通する以前の国道跡が岬の先端部にみられる。山上の西国街道に代わって明治12年(1879)に海岸沿いに国道が築造されており、岬の岩盤を人の手で掘削して道路を造っていたが維持管理がされないと元の自然に還っている。
大野地域の垣ノ浦と下灘の間に海岸まで伸びた八坂山を貫通しているJR山陽本線の八坂山トンネル(正式名称は不明)の東側と西側の画像である。山陽鉄道㈱は明治30年(1897)9月に広島~徳山間が開通しているので上り線側のトンネルはこの時に築造されたものとみられ石積みがみられるトンネルである。下り線側のトンネルは大正15年(1926)3月25日に大野浦~玖波間が複線化されているのでこの時に築造されたものであろうか。
原森宗地区の道路沿いにある田んぼで離れた場所の2ケ所が見事にイノシシに掘り返されていた。何れの田んぼも作付けはされてないので被害はないのであるが・・・ 当ブログ主の休耕田もこのようにイノシシに掘り返されて夏の草刈りには凸凹で大手間が掛かって泣かされているのである。
旧国道433号線の速谷神社橋の西端付近路傍に建立されている速谷神社参道改修碑で、速谷神社の昇格に伴った参道の改修事業を記念するために建立されたようである。参道の改修事業は昭和4年(1929)10月に工事着手して翌年6月に竣工しており、可愛川に架かる大之木の橋を速谷橋、大原に架かる橋を神路橋と名付けた鉄筋コンクリート造の橋が架けられていたが昭和26年(1951)のルース台風で流出している。
上平良河野原地区にある大歳神社の注連縄づくりを例年の如く始めて神社本殿と拝殿に架けれるように出来た。氏子ではないが作り始めて何年になるだろうか。今年は変わった注連縄に挑戦、画像下側の注連縄が一般的なものであり、上側のものは数年前に訪れた近江八幡市の日牟禮八幡宮随身門の注連縄を真似て藁束2本を捩りながら綯ったものを3組作って綯ったものである。
広田神社の境内に御免石と表示した大石が基壇の上に設置されており碑文には「宝暦十二年広田社藤掛山に遷座せし折大石あり宮内村下組の氏子人この前を通り参詣せし時御免なさいと言いし故この名有り」と刻されている。この碑文の典拠が江戸期の地誌で確認することができないのであるが・・・古い時代から神聖視されてきた大石であろうか。