極楽寺の山門(仁王門)は廿日市参道の36丁碑があって観音参道と合流した所にあり、自動車で参詣する人は通ることはない。山門(仁王門)は痛みが激しかったので最近改修されておりきれいになっていた。山門の両側には大きな木造の仁王像がと思ったが・・・従来の木製仁王像ではなくブロンズ色の小さな鋳造製仁王像が安置されていた。更新の活力になります! ポチッとね!
洞雲寺門前の立て道から西側方面をみると左側に駅裏の山があり、正面に見える家のすぐ近くまで都市計画道路畑口寺田線の建設が進んでいる。廿日市駅北土地区画整理事業で駅裏の山も今年中にはなくなるようで、古刹洞雲寺と田園と緑の森とがセットになった駅裏とは思えないような美しい景観の見納めとなるのではなかろうか。更新の活力になります! ポチッとね!
先日、JR山陽本線沿いにある洞雲寺の山門脇の住宅が取り壊されており、右側の住宅もなくなっていた。廿日市駅北土地区画整理事業で駅裏の山も今年中にはなくなるのではと地元の人が話しておられた。駅裏とは思えないような美しい景観の見納めとなるのではなかろうか。更新の活力になります! ポチッとね!
旧宮島町役場庁舎で昭和44年(1969)に建築されたものであり、現在は廿日市市宮島支所として使用されているが、耐震性能が低いために今月一杯で宮島桟橋前に移転するようである。江戸時代にはこの地に宮島奉行所が設けられていたところであり、長い間宮島支配、政治の中心地であったところだったのだが・・・更新の活力になります! ポチッとね!
宮島桟橋から参道の商店街を通る長さ480mの道路は、広島県道170号線―厳島港~厳島神社線である。商店街が終ったところにある標柱からが厳島神社境内地であり、舗装の終わりが県道の終点である。道路上には伸縮式の日よけテントがある一風変わった県道である。更新の活力になります! ポチッとね!
極楽寺山にある蛇の池ではピンクや白など色とりどりの睡蓮が池全面に咲きはじめており、大蛇でなく錦鯉や亀が出迎えてくれた。昔は蛇の池祠が堰堤脇に祀ってあったが現在はどこにいったのだろうか。今頃から夏にかけては見頃になりますので避暑をかねて命の洗濯はいかがですか。更新の活力になります! ポチッとね!
洞雲寺の桜並木の参道から佐方小学校方面に向かう道上には石仏が並んでいる。この道が出来たときに桜の苗木が寄贈されたことを記した古い看板が残されていた。BMホール、旺文堂、みどり廿日市店、スーパーふじおかなど懐かしい名前がみられ昭和50年代前半の頃であろうか。更新の活力になります! ポチッとね!
梅雨の中休みとなって里では雨が上がったので極楽寺山に登ってみた。極楽寺山上は深い霧が立ちこめて少雨が降っていたにもかかわらず多くの善男善女が参詣していた。本堂の下方にある小さな池上の樹枝にはモリアオガエルの卵泡が数個みられた。更新の活力になります! ポチッとね!
天神下地区の廿日市町並みにある町屋でかつては3軒連なって廿日市町屋の典型的なものであったが、中央の町屋は建て替えられて現在は両側のみが残されている。明治時代にはこの町屋に廿日市郵便局が設けられて電話の交換台もあったようである。更新の活力になります! ポチッとね!
下平良小野地区にある逆サイホン式水路で、西広島バイパスの築造で従来の農業水路が遮断されたために設けられたものである。上流からの水路がバイパス下を通り側道の向う側に見える呑口舛に入り、側道下を暗渠で潜って吐口舛の上部から下流側の水路に流れてゆく逆サイホン式水路である。更新の活力になります! ポチッとね!
JA平良支店前を流れる可愛川に架かっていた珍しい橋名「とんこ橋」の跡で、大字頓子にちなんだ橋名であった。江戸時代には下平良村に登牟古(とんこ)という地名があったようで、明治時代に入ってから頓子の字が使われるようになっている。更新の活力になります! ポチッとね!
国道2号線の可愛川に架かる榎浦橋で、昭和6年に昭和恐慌の失業対策事業として宮島観光道路の工事が行われ昭和7年3月に宮島~五日市間が完成した。小学生の頃下平良の同級生が「カンコウ道路」と良く言っており「カンコウ」が何のことなのかと思っていたが・・・今では観光道路といってもわかる人は少ないのではなかろうか。更新の活力になります! ポチッとね!
広電宮島線の地御前神社前には地御前海岸臨時駅の跡が残されている。地御前海岸はかつては海水浴場であり海水浴シーズンと管弦祭の日に開設されていた臨時駅で、いつ頃かは不明であるが7月7日から8月31日まで開設されていたようである。更新の活力になります! ポチッとね!
住吉土手の桜の花については何度か紹介しているが、現在は土手面の雑草と桜の葉が茂って緑一色である。土手は時々散歩する人がいるだけで街中の喧騒から隔絶された緑のオアシスである。住吉新開と住吉土手は江戸時代の末期に築造されたものであるが桜の木はいつ頃に植えられたものであろうか。更新の活力になります! ポチッとね!
何度か紹介した本町地区にある広島醤油㈱は昭和17年に戦時統制会社として作られたものであった。可愛川沿いの道路脇には当時のものとみられる門柱が残されていたが事務所と共に工場改築、量販店新築のために取り除かれて道路拡幅が行われていた。更新の活力になります! ポチッとね!
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