『はつかいち』 ぶらり

安芸の宮島の地・・・廿日市を見たまま紹介―独自の好奇心アンテナを張り巡らせて、ビビッと反応したものを紹介します。

石城山神籠石-環状列石

2017年02月28日 | その他


光市と田布施町にまたがる石城山の8合目位のところに鉢巻状の神籠石と言われる古代山城の遺構が残されており50年ぶりくらいに再訪した。
以前に紹介した行橋市の御所ケ谷神籠石や総社市の鬼ノ城でもみられた列石とおなじもので、石城山の北半周約2600mに亘り列石を見ることができる。発掘調査によるとこの列石は版築土塁の礎石のようで神籠石といわれる古代山城で特徴的にみられるようである。

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七尾中学校の標高標石

2017年02月27日 | 「廿日市地区」ぶらり


七尾中学校の校門手前左手の校舎横に建立されている標石はかつて木造本校舎中央入口脇に建立されていたもので「標高二〇・一メートル」「緯度 北緯三十四度二十一分」「経度 東経百三十二度十九分三十二秒」と刻されている。現在場所では標高、緯度、経度も少し違っているだろう。
この標石頂部の標高は当ブログ主が1年生のときにクラブ活動で先生、上級生に連れられ佐方橋西側の旧国道沿いにあった水準点(下画像に3.32mとあり現在はない)から測量器具のレベルで見通しが出来る範囲で次々と高低差を測ってこの頂部の標高を計測したものであるが、低学年であったのであまり役に立っていなかった。

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謎の線路脇石段

2017年02月26日 | 「廿日市地区」ぶらり


JR山陽本線の越峠垰(コイトウダオ)掘割り部分で、線路の向う側にガイドレールが途切れて4ケ所の石段がみられるが何のために設けられているのか以前にも紹介したことがある。
かつて越峠垰掘割り部分は両側が山であり戦時中空襲警報が出たら汽車が山影に止まって乗客は降りて防空壕などに避難していたと越峠垰近くにお住いの方から最近聞いた。そのために乗り降りする石段があったのを藤掛ハイツ造成の際に踏襲して設けたのかも知れない。

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警鐘塔

2017年02月25日 | その他


下松周辺を徘徊中、下松市河内地区の降松神社中宮、上宮への参詣道脇と常安寺に向かう周南市大河内地区に懐かしい警
鐘塔が現在でも残されていた。
何れも集落の高台に設置されており火災やその他の緊急時に急を告げるために設けられていたものであるが、現在は防災行政無線の整備がされているものとみられ使用はされていないのではなかろうか。

コメント (2)
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洞雲寺孫末寺の常安寺・下笠野厳島神社

2017年02月24日 | 廿日市関連


昨日紹介した渓月院から直線距離で2km位のところ周南市大河内にある常安寺は洞雲寺開山金岡用兼の法孫である津翁道要が開山した寺で洞雲寺の孫末寺である。

笠野川に架かる渓月院への門前橋から上流側すぐに下笠野厳島神社があるが由緒など定かでない。渓月院、下笠野厳島神社など中世から廿日市方面と何らかの関わりがあったのであろうか。

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洞雲寺末寺の渓月院

2017年02月23日 | 廿日市関連


下松方面に行ったついでに周辺を徘徊し光市小周防にある洞雲寺の末寺である渓月院を参詣した。

洞雲寺の開山である金岡用兼の法嗣(仏教上の後継者)であった章山貺雯は洞雲寺を退院して渓月院の隣峯に延命寺を開き住居していたが老衰となり、龍文寺四世大庵須益が開創していた渓月院も荒廃していたので金岡用兼の法孫である津翁道要が延命寺と合わせて再興し、師の章山貺雯を渓月院開山として自ら二世となった寺である。

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妙見山鷲頭寺-妙見宮鷲頭寺

2017年02月22日 | 廿日市関連


妙見山鷲頭寺は明治期に神仏分離が行われて別当七坊のうちの宮司坊(閼伽井坊)は妙見宮鷲頭寺と称して街中の中市1丁目に遷座した。
妙見宮鷲頭寺は入口に真言宗御室派と表示されており鳥居があって鳥居額には妙見宮とある。大きな山門に比べこじんまりとした本堂で境内には石鳥居のある荒神社など二社が祀られており、真宗安芸門徒の当ブログ主からみると不思議にみえる寺院である。(桜尾城と妙見社

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妙見山鷲頭寺-降松神社中宮・上宮

2017年02月21日 | 廿日市関連


降松神社下宮(若宮)から鷲頭山に登って行くと17丁の里程碑が建立されているところに大きな随神門がある。随神門から少し登ると石鳥居があり石段を登ると標高約200m位のところであろうか20丁碑がある中宮に至る。
中宮には手水舎、拝殿、幣殿、本殿などがあり山上なのに多くの伽藍が維持されている。かつて領主の庇護があったものとみられる毛利家家紋のある鬼瓦が境内脇にあった。中宮裏手から少し進むとと石鳥居があり標高243mの鷲頭山山頂に至ると上宮本殿が鎮座している。(桜尾城と妙見社

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妙見山鷲頭寺-降松神社下宮(若宮)

2017年02月20日 | 廿日市関連


桂公園北麓にある妙見社は桜尾城時代に山口の大内氏が代々氏神として崇敬していた妙見社を勧請したものとみられ、下松市の大内氏ゆかりの妙見信仰の発祥の社寺を探訪した。
かつて鷲頭山の山麓から山頂にかけて下宮(若宮)、中宮、上宮や宮司坊(閼伽井坊)など七坊の別当があったようである。大内氏の庇護を受けていた妙見山鷲頭寺は大内氏滅亡後も徳山毛利家の崇敬を受けていたが、明治期に神仏分離が行われて妙見山鷲頭寺は降松神社と妙見宮鷲頭寺となって、鷲頭山麓には降松神社下宮(若宮)が鎮座している。(桜尾城と妙見社

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笠戸島深浦の厳島明神

2017年02月19日 | 廿日市関連


下松市笠戸島西端の深浦漁村集落にある厳島明神は海中に石鳥居が建立されており、その先の山裾(上画像左手前側にあるが鳥居の先は高い防波堤があるため絵にならず)に石造小祠の厳島明神が祀られている。
由緒などについては定かでないが毎年旧暦6月17日は十七夜(管弦祭)が行われており、数隻の漁船に提灯を灯して厳島明神に参詣して港内を一巡する行事が続いているようである。(管弦祭画像は「防州見聞録」より拝借)

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水車の残骸

2017年02月18日 | 「廿日市地区」ぶらり


川末地区でみられたかつての水車が朽ちて画像のようになっていた。
昭和57年(1982)頃、当時可動はしていなかったが下画像のようであった。
資料によると旧宮内村では明治44年(1911)ころ水車場が8ケ所と僧都が9ケ所あったようで、また旧平良村では大正15年(1926)ころ水車が10数ケ所あり精米や製粉に使用されていたようである。当ブログ主が子供の頃は水車や僧都で精米や製粉に使用していたのを記憶しているが電気事情が良くなってからは効率の悪い水車は使用されなくなった。

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高圧線鉄塔で架線張替え工事中

2017年02月17日 | 「廿日市地区」ぶらり


宮園・四季ケ丘団地上の折敷畑山・横道山中腹を横切っている高圧線の鉄塔上で架線の張替え工事が行われている。

鉄塔間隔が広く高所でどのようにして張り替えるのかと思っていたが作業をしている人の話によると既設の高圧線を利用して張り替えるので新設のように難しくはないようだが高所であり大変な作業のようである。

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凸石のある高ゲシ

2017年02月16日 | 「廿日市地区」ぶらり


原地区にある民家宅地の高いゲシ(石垣)に所々飛び出た石がみられた。以前明石地区にあったので所有者に聞いてみたがなぜ飛び出しているのか分からないとのことであった。
高いゲシに生えた雑草などを取り除く時に歩み板などを掛けるために所々に石を飛び出して石積みをしたのではなかろうか。

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まみか谷の烏帽子岩か!

2017年02月15日 | 「廿日市地区」ぶらり


江戸期の地誌に原村の名勝としてまみか谷の烏帽子岩が記載されているので、川末地区の人に尋ねてみたが場所不明であった。
絵図と同じ谷の林道を遡っていると急斜面の杉林のなかに巨岩があったのでこれがまみか谷の烏帽子岩とみられる。谷から見て烏帽子状に見えるのであろうが杉の木が林立して全貌が不明なので滑りそうな急斜面を攀じ登って側面から眺めてみると画像のようであった。

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安芸のひとつ火跡碑

2017年02月14日 | 「廿日市地区」ぶらり


原川末地区の最奥部の民家後方の杉林の中に建立されている安芸のひとつ火跡碑で、古老が伝えていた安芸のひとつ火伝説をもとに昭和62年(1987)4月に原老人クラブ連合会によって建立されている。
江戸期の地誌に潮見垰、大嶽垰ミヨノ火「右闇夜ニ者必火見ヘ、依而海上通船此火を目印ニ船ヲ寄候故ミヨノ火と申来リ」とあり、江戸期からの潮見垰、大嶽垰ミヨノ火伝説が忘れられて安芸のひとつ火伝説となって「廿日市の民話伝説」(昭和53年廿日市町教委発行)に収録され杉林の中に建立となったようである。

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