平成24年もいよいよ今日かぎりとなりました。昨日、交通安全で名高い速谷神社の境内にはすでに露店が数多く並んでおり、門松しめ飾りの組立ても終わって初詣準備万端のようである。
※当ブログは老化防止の気まぐれぶらり見たままのブログですが、今年も多くの方々にご来訪頂き大変有難うございました。来年もできるかぎり頑張りたいと思いますのでお暇な時にご来訪ください。
加賀方面で買った種を栽培した吹立(ふきたち)菜で、金沢地方で栽培されている地野菜のようである。
くきたち菜、おそ菜、てんば菜とも呼ばれて小松菜と兄弟菜であり、雪の降った後には甘味が増して歯ざわりも柔らかくなるようなので、観賞用にはならずおいしく食べられそうである。
信州方面に行った時に種を買って栽培した切葉松本地大根で、松本市東北部が特産の大根のようである。
葉は切れ込みが深くギザギサになっており根形は尻詰まり型で、摺り大根にすると強烈な辛味で我が家では見向きもされなかった。ネットによると漬け物にすると辛味が美味に変わるようであるがどうしたものだろうか。
宮島の各所で松枯れの木が伐採されているのがみられ、健在の松の木の多くに松枯れ防止樹幹注入済の標識が取付けられている。
標識によるとマツノザイセンチュウに良く効くショットワン・ツー液剤が注入されているようである。
※昨日、当ブログを開設してからトータル閲覧数170万PVと多くの方々に閲覧をして頂きました。老化防止のために何とか更新している面白くもなく万人向きでない当ブログですが、まだまだ頑張りますのでお暇な時にご来訪ください。
上西蓮地区を流れる珍しい川名でドンドン川とあり土石流危険渓流と表示してある。
常時はわずかの水しか流れていないが急傾斜の渓流で大雨の時にはどうどうと音をたてて流れるのでこのような川名となったものと思われる。一書には呑呑川と漢字名で記されている。
新町にある大束富くじ場跡碑で江戸期この付近に大束入札場所があった。
富座で求めた諸口の合鑑(相鑑)紙と木駒に同一の番号、口名や思い思いの文句を書いて、合鑑紙は加入者が保管しており、木駒は桶に入れて指定期日に桶の小穴より木駒を突いて当り籤を決定していた。宮島では焚き木の大束が特産品であり、これを入札するという形で富籤が行われていたようである。
宮島桟橋待合所前広場の前にある潜龍門を過ぎると池浦で、池浦と長浜との間の岩鼻にもトンネルが掘られているが名称などについては不明である。
このトンネルも大正時代に長浜方面への道として築造されたものとみられる。現在トンネルの先である長浜側は侵食されて道路の痕跡も残っておらず断崖となっている。
宮島桟橋待合所前広場の前面に潜龍門という小さなトンネルが見られる。要害山の岩鼻に設けられたもので手前は池浦、向う側は小浦で昭和40年代に地先海岸が埋め立てられ現在のようになった。
明治末期の絵図には要害山岩鼻には潜龍門はみられず、大正12年(1923)の絵図には潜龍門がみられるので大正時代に長浜方面への道が築造されたものとみられる。
毎年少しずつドングリの木に椎茸の種菌を打ち込んでおり、2年生ホダ木か3年生であろうかボツボツと椎茸が生え始めている。
全く自己流のやりっぱなしであるが自家用に足りるだけのものは出来そうだ。5~6年でホダ木は腐食するので補充のため今年も少しドングリの木を伐採しなければ・・・
遊びの菜園、廿日市8代目の桜島大根の生育状況を時々紹介しているが、左側2株は在来の青首大根と交配したものとみられ長めの大根となっている。
右側2株は桜島大根の性質を比較的よく受け継いでいるようであり、右端のものは本来の桜島大根の葉のようにみえる。おいしく食べる方法があるのだろうが我が家では見向きもされず観賞のみの大根となっている。
時折宮島SAスマートICへのアクセス道路工事について紹介しているが、現在国道433号線寄りの山斜面を掘削して仮設通路が造られている。
ここの部分は峠となっているので新設道路面は掘り下げられて低くなるため左側の山部分は大きく削られ法面となるようである。
上平良地区の大原講中に伝えられていた萬覚帳で平成14年に講中で処分されたものを保管しているものである。
大正13年(1924)から記されている萬覚帳と明治36年(1903)から記されている婦人講の萬覚帳で、これによると婦人講が昭和36年(1961)まで行なわれていたようである。
一昨日は衆議院議員総選挙及び最高裁判所裁判官国民審査が行なわれ、開票作業が行なわれる阿品台東小学校体育館には各投票所から投票箱が次々と持ち込まれていた。
市域の54投票所などから3箱ずつ160余の投票箱が集まりずらりと並んだ様子は圧巻である。旧町村から引き継いだものや有権者の多少などの関係であろうか色々なサイズのものがみられるのである。
昔からの廿日市極楽寺参道でなく一般的に利用されている登山道で市道分岐からすぐのところの脇に石碑がみられ、上部には梵字のカーンがみられるがその他の刻字は判読できない。
江戸期の地誌絵図にはこの付近に小野寺跡と法道寺跡がみられ、場所は不明であるが古老の話ではこの付近は葬地であったと聞いたことがあるので、古い時代に何れかの寺があったものとみられこの石碑も関係するものであろうか。