杉の浦の海岸はかつて松並木のある海水浴場で賑わっていた。当ブログ主が小学校5~6年生の頃であろうか臨海学校で訪れたことがある。
当時は砂浜であったが現在護岸や牡蠣養殖の作業港など整備されて画像中央にみえるホテル前付近に残されている松並木が当時を思い出させてくれる。
包ケ浦神社は包ケ浦海水浴場の南東岬の先端部にある岩塊上に石積みを構築してその上に祀られている。
この岩塊を「包のエビス岩」と呼ばれているようで、当神社の正面からの参詣は船上からでないと難しいようである。
時折「さくらのおか公園」の整備事業の進捗状況を紹介しているが、桜の品種は不明であるがすでに苗木は植栽されていた。
桜の木の周辺には芝生の植栽や法面縁には帯状にユキヤナギであろうか低木の植栽工事が行なわれていた。
包ケ浦隧道の杉の浦側手前で道路脇の公園化されたところにある金岡水で以前にも紹介したことがある。
ここの地で洞雲寺開山の金岡用兼が座禅したところといわれ金岡水という名水が湧出していたところで、かつては下画像のような井戸であったが周辺開発に伴って現在のように整備された。
包ケ浦火薬・弾薬本庫・糧食支庫方面には昨日紹介した呉軍港防御包ケ浦交通路が使用されていたが、広島湾要塞が大正15年(1926)に廃止されてからはこの道は内務省に移管されている。
戦後になってからだろうか杉の浦から包ケ浦に向う左側の包ケ浦隧道が築造されてから呉軍港防御包ケ浦交通路は廃道となったものとみられ、平成元年(1989)に右側の杉之浦隧道が築造されている。
昨日紹介した包ケ浦火薬・弾薬本庫・糧食支庫方面に通じる呉軍港防御包ケ浦交通路は杉の浦まで自動車も通れるような道であるが、それから先は殆んど知られていないので探査してみた。
杉の浦公園の裏側から軍道の名残りが残されており、道端側溝の石列が所どころにみられ途中何か不明の基礎遺構が残されていた。軍道は宮島廃棄物最終処分場の取付け道路に出たのでここからは海岸線を通っていたものと思われる。
新町の道路脇に建立されている標石で陸軍省とあり、ここから包ケ浦火薬・弾薬本庫・糧食支庫、鷹の巣砲台に通じる呉軍港防御包ケ浦交通路が明治32年(1899)に築造された起点である。
宮島桟橋から紅葉谷公園に向かう迂回山道(うぐいす歩道)から杉の浦に通じている山越え道のすぐに石畳道が残されており、杉の浦側の一部にも石畳道が残されているが、後世の補修が加えられているようである。
昨日、包ケ浦神社沖に大型船が広島湾内に向けて航行していた。船名は「ORCHID ACE」とありネットによると平成20年5月に建造された商船三井の自動車船のようである。
総トン数は59,262トン、前長199.99m、全幅32.26mで自動車積載台数は6,287台のようである。
時折紹介している国道433号線の改良工事で、原地区内で最後の区間である原市民センター前では歩行者用のトンネル構築物の工事が行なわれている。
以前に紹介したがすぐ下手には陸橋が出来上がっており、国道2号線から上平良地区までの国道433号線はすべて平面交差であるが、現在のところこの付近のみが立体交差とされている。
雨が降るというので一昨日やりっぱなし菜園の秋ジャガイモを収穫した。たしか二品種の種ジャガイモを植えたようだが何であったのか覚えていないええかげんな栽培である。
ところが種イモが良かったのか気候が良かったのか? 大きなものは500g位の比較的大きなジャガイモが収穫でき、皮ムギの手間が省けると好評のようである。
昨日紹介した西教寺本堂前にある天水桶で、石板4枚をチギリ金物で組み立て桶状にしてあり正面に用水と刻されている。
この天水桶は屋根からの雨水を利用した防火用水であったころの名残りであろうか。現在、各寺院での天水桶はモニュメントとして設置されているようである。
郷地区にある潮見山西教寺で山号が潮見山とあるのでかつて海を見ることができたのであろうか。西教寺は江戸期の始めに現在地より西方の護安にあった護安寺跡に真宗寺院を開き、後に寺号を西教寺と改めたようである。
当時の毛保川や永慶寺川の河口は現在より大きく入り込んだ海岸線であったようで、護安寺跡に開いた西教寺から潮を見ることができたのでこのような山号とされたのであろうか。
国道2号線(宮島観光道路)の串戸地区にある宮内別れの交差点で、西広島バイパスが開通するまでは宮内方面や佐伯・吉和方面への主要な分岐点であった。
現在は西広島パイパスの宮内交差点が宮内方面や佐伯・吉和方面への主要分岐点であり宮内別れと称しても良いような交差点である。
宮内串戸地区を散策していたら民家の庭先に懐かしい縄ない機が放置されており骨組みが朽ち始めていた。
子供の頃に親が縄ない機で縄をなっていたのを手伝ったことがある。ペタルを踏んで機械を回転させラッパ型部分に藁を差し込むとよわれて縄になりドラムに巻き取られるすぐれものの装置であった。
地御前八ツ面に祀られている八ツ面神社でかつて八ツ面谷奥に祀られていたようであるが、明治初期に現在地に移され現在の社殿は昭和初期に建てられたようである。
当神社の由来は不明であるが八ツ面谷から八ツ面垰を経て宮内村へ通じる小池の傍らに古くから祀られていたようで、江戸期の芸藩通志には「八面は八岐大蛇を祭といふ」とあり、境内の石燈籠には天明9年(1789)の刻銘がみられる。