平成27年もいよいよ今日かぎりとなりました。昨日、速谷神社では注連縄交換や門松しめ飾りの組み立て幟立てもされており、境内には露店が数多く並んで初詣準備万端のようである。
※当ブログは老化防止のために記しているぶらり見たままのブログですが、今年も多くの方々にご来訪閲覧頂き大変有難うございました。来年もできるかぎり頑張りたいと思いますのでお暇な時にご来訪ください。
未(羊)年もあと1日余りとなり来る年は申(猿)年となるが、今年は上平良地区のあちらこちらに猿群団が出没して農家を困らせた。来年は申年なのでお猿さんはテリトリーを守ってもらいトラブルを起こさないようにしてもらいたいものである。
上画像は平成3年(1991)5月に訪れた中国ウルムチからトルファンに向かう途中の草原でみた羊の群れで、下画像は上平良地区に出没した猿で爆竹を鳴らしても高い木の上から高見の見物。
先日、正月飾りに使用されているユズリハの木が二重原八幡神社の社叢にあったことを紹介したが、正月飾りにウラジロも用いられている。当ブログ主の山林になぜかウラジロが繁茂して日陰をつくっているので木が生えてこず厄介なものである。
ウラジロは大型の羊歯で裏が白いので「白髪が生えるまで長寿に」「潔白さ」などと縁起物として正月飾りに使用されているようである。
玖島地区の一丁田バス停付近にある同行倉庫で看板に楢原泉水同行倉庫と表示されており、玖島地区では講中のことを同行と言われているようである。
以前にも紹介したが講中(同行)では毎月の御講寄や年末の御法事、また葬儀などに使用する什器類を講中(同行)倉庫にて保管していたが、葬儀方法の変革などで什器類を使用することがなくなってきている。
以前、購入していたしめ飾りにユズリハが使われていたがどのような樹木なのかは知らなかった。先日二重原八幡神社の社叢に見たことがない木があったので調べてみるとユズリハの木のようである。
ユズリハは春枝先に若葉が出たあと前年の葉がそれに譲るように落葉することから、親が子を育てて家が代々続いていくように見立てて縁起物とされ正月飾りに使用されているようである。
正月に向けて各地の神社などでしめ縄づくりが行われているが、後継者不足や稲藁入手困難などでしめ縄づくりが困難になっているところもあるようだ。
原地区の伊勢神社では後継者不足であろうか2~3年毎にしめ縄を作っているようで今年は一の鳥居と二の鳥居に新しいしめ縄が架けられている。(上画像)下平良地区の新宮神社は都市化で稲藁入手困難や後継者不足のため速谷神社で去年作ったしめ縄が2度目の務めである。(中画像)上平良の大歳神社は氏子の高齢化、後継者不足でしめ縄作りが途絶えために当ブログ主が作った。(下画像)
農耕文化の伝統を色濃く残した「しめ縄づくり」の行事も高齢化、後継者不足、都市化で稲藁入手困難や地域での交流、奉仕活動など薄れつつあるがこの伝統行事を継承していきたいものである。
原長野地区の最奥部にある特別養護老人ホーム清鈴園の玄関ポーチ壁面に色鮮やかな「花咲かじいさん」のモザイクタイル画が掲げられている。
このモザイクタイル画は当園の開園5周年記念に入園者一同により昭和51年(1976)9月26日に制作されたようである。
原長野地区にある旧国鉄時代の有蓋コンテナ利用した講中倉庫で国鉄C20-18981と記してあり、有蓋コンテナは昭和46年(1971)から製造されているようで老朽化のために払い下げられて転用されたようである。
かつて各講中では毎月の御講寄や年末の御法事、また葬儀などに使用する什器類を講中倉庫にて保管していたが、葬儀方法の変革などで什器類を使用することがなくなって処分されている講中もある。
畑の片隅に植えてある柚子の木には今年も鈴なりに柚子がなっており、昨日は冬至だったので浴槽にたっぷり柚子を入れて入浴した。
風邪予防、血行促進などなど効能があるとされるがカラスの行水では効果のほどは・・・ ゆず湯モデルを依頼したが即却下。
上平良地区の狭い脇道であるが比較的車が良く通る道沿いに飛び出し注意を喚起するかかしがみられる。
近所に子供さんがいる家族が引っ越ししてこられたのでドライバーに子供の飛び出しを注意してもらうために制作されたようである。
昨日、上平良二重原八幡神社の氏子の人達により新年にむけて境内の清掃と注連縄づくりが行われていた。
二重原八幡神社は集落北の小高い山上の森の中にあり、急勾配で長い石段を上がった途中にかつて木造の両部鳥居があったが現在は礎石のみ残されている。鳥居の段から数十段の石段を上ると社殿境内となる。
のうが高原跡の周回道路から泉水峠に向かい県道294号虫道廿日市線を通って我が家に向かった。泉水峠から川末の出合までは石だらけの道で人と獣が通るのみのまさに嶮道である。
上画像は泉水峠で手前に石積みがみられ、昭和5年(1930)頃の文献で泉水峠に休憩所があったことが記されているのでこの場所にあったものとみられる。
先日、速谷神社の注連縄づくりで余った稲藁を使用して河野原大歳神社の注連縄を作ったが、撚って綯う作業が一人仕事なので形の良いものは出来なかった。
配り物をする途中のお宮でいつもお参りしており注連縄を作る人がなく縄が架けてあったので見るにみかねて氏子ではないのに勝手に作り始めて数年になる。
一昨日、新年に向けて地域の人達が速谷神社の注連縄づくりを行った。稲藁をわら打ち機で軟らかくして注連縄を綯う人、縄を綯う人、飾り房を制作する人など手分けをして儀式殿、斎館、注連柱、境内社などに架ける注連縄5本を制作した。
先日紹介した菰巻きの大注連縄は手間取るために事前に制作しており、大きめの飾り房などを制作し取り付けて拝殿に架けた。
かつての「ヒューマンカントリのうが高原」の最高所に標高733mの三角点があったが現在は少し西側の標高719.2mの山頂に移設されている。
元の三角点ケ所には2つに折れた陸軍輸送港域第53号標石が残されており隣接して展望台が残されている。展望台からのうが高原の主要施設であった高原ホテルの廃墟が遠望できる。