後畑地区のアルカディア・ビレッジのすぐ脇にある岬上の高台にある「あんやしき積石塚」で、かつては周囲ぐるりと田んぼでその中にあった。古い時代に後畑地区を支配していた有力者が葬られた墓所とみられ、神聖地として手が付けられず田んぼの中に残されていた。現在周辺一帯はグランドゴルフ場として整備中であり、奥津城周辺も騒々しくなりそうだ。更新の活力になります! ポチッとね!
玖島地区のとある谷筋を入った所に小さな池があり、その上に茂った木の枝に「モリアオガエル」の産卵の泡である卵塊が数多くみられた。ここの場所では梅雨時期に近いこの頃になると毎年見ることができるようであるが、草や雑木が茂っておりあまり近づくことができない。更新の活力になります! ポチッとね!
川末地区の田んぼ脇に昔懐かしい瓦焼きのコタツと下部が壊れた土製アンカが置かれていた。コタツは完形品で中の土製火入れ函に灰を入れ炭火を埋めて、コタツの上に直接コタツ布団をかぶせたり、木製のヤグラの上にコタツ布団をかぶせていた。更新の活力になります! ポチッとね!
廿日市の町並みの中にある小高い天神山上の正覚院裏には大きな楠木があり、天神さんのシンボルで遠くからも見ることができる。崖の端にあるために計測が出来ないが幹周りは7~8mくらいあるものとみられている。更新の活力になります! ポチッとね!
広電宮島線の下平良地区にある弘法踏切で、ここを流れていた弘法川にちなんでつけられたものであるが川は見られない。現在、弘法川は西広島バイパスの側道付近から道路下を暗渠で流れており、廿日市港に流出している。更新の活力になります! ポチッとね!
旧尾那岡地区にある民家土蔵のケラバにある蔵飾りで二重の山印に上の字が表されている。この家の屋号とみられ「やまうえ」か「うえやま」と呼ばれているのであろうか。更新の活力になります! ポチッとね!
「高圧線の巨大あやとり」と紹介していた下平良地区を横切っていた高圧線は取除かれて鉄塔も撤去されていた。最後であろうか法華山の鉄塔に作業員が登って解体中であった。この特別高圧線は広電の旧変電所に供給していたものが、変電所の新設で必要なくなったための撤去のようだ。更新の活力になります! ポチッとね!
上平良地区にある里山では現在笹ゆりが満開で甘い香りを周辺に漂わせている。毎年下草の刈り込みが行われているために笹ゆりが繁殖して群生地となっている。更新の活力になります! ポチッとね!
原地区ではこの頃珍しい麦畑があり麦の穂が黄金色に輝いており「麦秋」、とり入れも間近かであろうか。子供の頃、親は百姓をしているのに麦飯ばかり食べさされており、学校に弁当を持っていった時には隠すようにして食べた思い出がある。更新の活力になります! ポチッとね!
昨年11月12日に紹介した天神下にある町屋で、早稲田大学名誉法学博士・文学博士で昭和20年代から30年代の初めに廿日市町長を務めた佐伯好郎氏の生家だったが、昨日みると取り壊されてなくなっていた。二度と見ることができないかつての町屋の姿を再度掲載いたします。更新の活力になります! ポチッとね!
佐伯地区を走っていると民家の物置に珍しい蝮薬(まむし薬)の琺瑯看板が一枚架けられており、もう一枚物置の中に保管されていた。商標登録にはマムシがデザインされており尾道市のラヂウム薬院本舗が全国一手の発売元で蝮薬は胃腸病に利く薬であったようである。マムシといえば精力剤と思っていたが・・・更新の活力になります! ポチッとね!
可愛川に架かる七尾橋を渡ると石積みの塀に囲まれた旧家の墓地があり、墓碑の中ほどには大きな楠木がある。先祖代々の墓碑を見守り続けた墓地の守り木として大切に残されているものと思われる。更新の活力になります! ポチッとね!
宮島口の西にある広銀健康保険組合保養施設であるレゾナンス宮島は宮島を借景とした素晴しい庭園があり、庭園の一角には先に紹介した「碧庵」と扁額が掲げてある茶室がある。建物側から遠望すると借景の宮島が望まれるのであるが、海岸側の外から逆に見た庭園である。更新の活力になります! ポチッとね!
廿日市市域の瀬戸内沿岸で宮島を除いてはほとんどがコンクリート護岸で囲まれており自然海岸はほとんどみられない。大野地区では岬の跡が大小4~5ケ所の自然のまま残されており、これらのうちでチチヤスの入口脇にある早時の港入口には早時の岬がわずかに残されている。更新の活力になります! ポチッとね!
上平良地区と原地区の境付近の山沿いにある菜園では周囲と天井がすべてネットで覆われていた。この菜園は山沿いにあり猪や山猿、タヌキなどが出没するために自衛策を講じないと収穫物を横取りされるためにこのように防禦されているのである。更新の活力になります! ポチッとね!
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