新しく整備された広電廿日市駅の西側にあった以前の駅舎前にある建物でこの建物はかつてマキノバス自動車待合所跡であり、昭和18年(1943)に広島電鉄に買収され広電バス廿日市営業所であった。
当ブログ主が小学生の頃ここの廿日市営業所から湯来方面に行くバスに乗って母親のさと河内に行っていたことを思い出した。昭和29年(1954)に2号線沿いに廿日市営業所は移転している。(下画像:ふるさとの写真集より)
原地区の立善寺境内にある西本願寺23代門主裏方の歌碑で「うけつきし み法の火奈り とこしへニ 世をてら須へく 万もり行かなむ」と刻されており、昭和33年(1958)に建立されている。
先日、西本願寺に参詣した伝灯奉告法要は24代門主から25代門主に法義伝統を継承されたことを奉告する法要で、大谷嬉子は先々代の裏方である。
神戸ポートタワー展望台からの遠望で神戸駅方面にある神戸クリスタルタワーは外壁面がスカイブルーのガラスカーテンウォールでひと際目立つ超高層ビルである。
超高層ビルのガラスカーテンウォールには周辺のビルなどが写されており、展望台を移動すると変形したビル群が場所によって変わって見える。
西本願寺参詣後に有馬温泉に宿泊し一昨日は神戸クルーズ、出発前の寸暇を惜しみ久しぶりに神戸ポートタワーの展望台から神戸市街地、六甲山系、神戸港などを遠望した。
当ブログ主が就職して数年後位に買っていた書籍が書棚にまだ残っており、その中に鋼管構造の神戸ポートタワー設計図があったことを思い出し引っ張り出してみた。
一昨日は伝灯奉告法要で西本願寺に参拝した。バス車中からスマホで初めて送信、宿泊ホテルからタブレット送信したが慣れないことなのでうまく送信できなかった。
西本願寺阿弥陀堂で伝灯奉告法要の後に大谷本廟に参拝して有馬温泉に宿泊した。西本願寺では寸暇を惜しみ唐門や書院の外回りを駆け足で拝観した。
廿日市市中央市民センターの階段2階ホールにかつての佐伯郡役所の表札と取り壊し前の姿を現した郡役所模型が展示してある。
中央市民センターの地には擬洋風建築の佐伯郡役所が明治20年(1887)に竣工しており、郡制が廃止されてからも諸団体に使用されていたが昭和46年(1971)に市民センターの前身中央公民館建築のために郡役所建物は解体された。 「佐伯郡役所」
以前各地に残されている講中倉庫を紹介したことがあるが、ここ数年のうちに上平良地区の吉野講中、則貞講中、森下講中、原地区の下ケ原講中の各倉庫がなくなっていた。
地域的な信仰互助集団である講中ではかつて毎月当番の家でお寺さんを招いての御講寄、年末の御法事や、葬儀の際の食事用配膳什器や炊事用具、葬儀用具などを講中倉庫に保管していたが、時代の変革により使用されなくなってきたので什器類の処分倉庫撤去となったのである。
大竹市玖波6丁目にある称名寺の喚鐘で天和元年(1681)に鋳造されているが鋳工名が刻されていない。しかし、これまで紹介してきた特徴ある蕨手文様が鋳出されており年代的にみると廿日市鋳物師の山田貞栄が鋳造したものとみられる。
称名寺喚鐘の文様は上側中帯に蓮教寺梵鐘の上側にみられる蕨手文様と同じものであるが喚鐘で中帯幅が狭いために上半部しか鋳出されていない。
佐伯区五日市1丁目にある光禅寺の梵鐘で延宝7年(1679)に山田貞栄が鋳造したもので先日紹介した蓮教寺梵鐘と同じ年に鋳造されている。
光禅寺梵鐘の文様は下側中帯に蓮教寺梵鐘の下側にみられる蕨手文様と同じものであり同一の木型が使用されたものかも知れない。上側中帯には唐草文様が鋳出されている。
以前紹介した極楽寺の梵鐘(画像は鐘楼に架かっていた頃)で蓮教寺梵鐘の前年、延宝6年(1678)に山田貞栄が鋳造したもので市の重文に指定されている。
極楽寺梵鐘の文様は上側中帯には蓮教寺梵鐘の上側にみられる蕨手文様と同じものであり同一の木型が使用されたものかも知れない。下側中帯には唐草文様が鋳出されている。
天神山下にある蓮教寺の鐘楼に架けられている梵鐘で延宝7年(1679)に廿日市鋳物師の山田貞栄が鋳造したもので市の重文に指定されている。
山田貞栄が鋳造した梵鐘の中帯には他では見られないような蕨手の独特な文様がみられので紹介してみよう。蓮教寺の梵鐘では上下の中帯で少し異なった形状の蕨手文様で頂部には剣先のような文様が鋳出されている。
天神山にある天満宮境内社の淡島神社で江戸期の地誌に阿淡島社とあるが由緒など明らかでない。祭神が女神であるので女性が参詣されていると聞いたことがあり、櫛や簪が供えられていたということである。
表示では3月3日が祭日のようであるが現在は4月3日の節句に祀られているようである。