さくら公園から上平良地区を見ると一見住宅がびっしりと建っているようであるが、道路を通るとまだあちらこちらに田んぼや畑がみられる。下画像の絵葉書は昭和初期頃に速谷神社横の見晴らし山から写されたもので民家は数軒しかみられないのどかな田舎であったが・・・
先日、英気を養うために島根県邑南町にあるいわみ温泉を訪れたが、寄り道をして日貫地区にある庄屋屋敷である邑南町重要文化財の旧山崎家住宅を見物に行った。特徴ある大きな茅葺屋根の母屋をはじめ2棟の土蔵や付属屋敷など庄屋屋敷の風格を残した堂々たる建物である。
茅葺屋根が兜状に葺き刈り込まれた特徴ある屋根で、棟押さえ=棟飾りである馬乗り型は茅を半円状に束ね杉皮で包んだものが15ケ所設置されている。この馬乗り型は「カラスオドリ、ホテ、オドリ、オドリコ、サンバワラ、マキワラ」等々、各地方で色々と呼び方があったようである。馬乗り型の上部には横竹が置かれており「カラスオドリ、カラスドマリ、スズメドマリ、ウワキ、ムナギ」などと呼ばれていたようである。(参照:中国地方の民家)
助藤集落が見渡せる高台からの風景で、手前に昨日紹介した旧助藤小学校の付属建物があり、左側遠くに集会所がみられる。かつて周辺集落(大虫・夏夜鳥・虫道・二井山)を含めての小学校があったという集落であったが、現在は市の世帯数・人口データー(平成30年4月1日現在)によると助藤地区には4世帯で12人のみ居住されているようである。
(旧助藤小学校-平成19年撮影)
助藤地区の助藤小学校は昭和63年(1988)に休校となり、平成4年(1992)に廃校となって津田小学校に統合された。小学校跡には平成19年(2007)頃には校舎や講堂などが残されていたが、現在は付属建物のみと助藤小学校創立110年記念碑、同学校沿革碑が残されている。
虫道地区の氏神であった河内神社はかつて集落が見渡せたとみられる山にあるが、ここ十数年訪れた人もいないようであり笹藪の藪漕ぎをしないと訪れることが出来ない。本殿の前にも昨日紹介した捩じれ木が垂れ下がっており、最後まで留まった氏子さんが注連縄を作る藁がないので捩じれ木を注連縄の代わりとしたものとみられるのである。本殿の脇まで笹竹が迫っておりここも先行きが心配である。訪れた18日には本殿軒下に雪が残っていた。
虫道地区にある小祠であるが江戸期の地誌にもみられず何が祀られているのか定かでない。小祠の前には紙垂のようなものが下がっているので注連縄の代わりであろうか捩じれ木が吊り下げられている。虫道地区は居住者がなく廃村となっており、この小祠も痛みが進んでおり先行きが危惧される。
久しぶりに津田内山地区の切石谷にある榊ノ湯の湯治場跡に行ってみた。御湯神社下から湧出していた水は竹の樋で大岩の上から流れ落ち湯治客が諸病を癒していたようであるが、現在はほとんど湧出していない。御湯神社は昭和50年(1975)12月に新築されたようである。切石谷の入口にはかつての国民宿舎岩倉ロッジ岩倉温泉の泉源貯水タンクが残されている。
津田小学校の校庭に(石段を上がった門の右側)石造の二宮金次郎像があった。今まで県道との間に家があり見えなかったが取り壊されて像があることがわかった。像が高いところにあるので何を読んでいるのか分らない。以前訪れた西予市宇和開明学校にある二宮金次郎像の本(下画像)には難解な中国古典「大学」の一節が刻されていたが・・・
速谷神社本殿脇にある阿形の狛犬で、文政12年(1829)5月に寄進建立されたものである。吽形の狛犬は昭和61年の火災で崩壊失している。当神社には室町中期頃の作とみられている木造の狛犬が残されており、県の重要文化財に指定されている。この狛犬は神宝館で展示されている。画像はないが拝殿前には昭和63年(1988)12月に寄進建立された狛犬もある。 (木造狛犬画像-廿日市の文化第15集より)
原地区をウォーキングしていると石垣の一部の石が無く、石なりにリブ波鉄板が切り取られて張ってあり中央部は扉となって施錠されていた。大きさからあまり奥行きがあるとは思えないが何があるのだろうか。