『はつかいち』 ぶらり

安芸の宮島の地・・・廿日市を見たまま紹介―独自の好奇心アンテナを張り巡らせて、ビビッと反応したものを紹介します。

西国街道一里塚跡

2018年01月31日 | 「廿日市地区」ぶらり





宮内地区の専念寺前に建立されている西国街道一里塚跡碑で昭和57年(1982)に建立されている。ここの一里塚は広島の元安橋袂の里程元標から4里の塚であったが実際にはもう少し下流の辻という地にあったようで塚の傍らには茶店があったということである。

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広電バス極楽寺線終点-極楽寺山口跡

2018年01月30日 | 「廿日市地区」ぶらり

 


原地区の長野集落をかつて広電バスの極楽寺線終点である極楽寺山口まで運行されていた。昭和37年(1962)5月頃には広島バスセンターから2便、廿日市から1便運行されており昭和50年(1975)頃も運行されていたようであるが何時頃廃止になったのかは定かでない。ここから右側の道を進んで高い峰に向かう道が原参道であったが国道433号の長野ループが出来てからはルートが変わっている。

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広電バス原線終点-原(原療養所口)・原車庫跡

2018年01月29日 | 「廿日市地区」ぶらり


元原(原療養所口)バス停(現原小学校上)


原車庫跡


昨日紹介したが昭和37年(1962)5月頃、広島バスセンターから原(原療養所口)行きが11便あり終点の原(原療養所口)で折り返していた。(現在バス停は原小学校上となっている)バス車両が大きくなってこの場所での転回が難しくなってきたからであろうか、川末車庫との中間付近に原車庫が設けられていた。現在原車庫は使用されていないがこの前のバス停は原車庫である。

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広電バス川末車庫跡

2018年01月28日 | 「廿日市地区」ぶらり





 

原地区川末にある広電バスの川末車庫跡で車庫棟続きに朽ち始めた宿舎跡がある。昭和37年(1962)頃には広島バスセンターや廿日市から川末行きが6便あり、終便が21時33分着、乗務員はここで宿泊して翌朝6時35分に廿日市行きの始発便が出ていた。この便のほかに広島バスセンターから原(原療養所口)行きが11便あったようである。
現在は空気を運んでいる状態の広電バスが広電廿日市市役所前駅から川末車庫跡裏の転回広場まで10便が運行されているようである。

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河末橋と川末橋

2018年01月27日 | 「廿日市地区」ぶらり


河末橋

 川末橋


原地区川末を通っている県道294号虫道~廿日市線の川末川に架かる河末橋でこの先からは車は通れない険道となる。江戸期の石州往還道は上画像の手前出合で泉水峠経由と大沢峠経由に分岐していた。河末橋のすぐ下流に市道下切線に向かう川末橋がある。江戸期から川名は適宜河末川と川末川の表示をしていたようである。

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白鷺-コサギ

2018年01月26日 | 「廿日市地区」ぶらり





 

原地区を流れる川末川で白鷺が餌を食んでいた。ネットによると口ばしが黒色で目元が黄色なのでコサギであろうか。白鷺は田んぼによく飛んで来ていたのでこんなに寒い時期にはいないものと思っていたが・・・

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懐かしいコタツ・湯タンポ

2018年01月25日 | その他






大寒波の来襲、寒い、昔の暖は・・・      
原地区川末をウオーキングしていると以前にも紹介した瓦器製の家型のコタツと下部分が失われている土製の桶型コタツがまだ休耕田脇に置かれていた。瓦器製の家型コタツの中に瓦器製の灰箱がありその中に炭を入れており、下部分が失われている土製の桶型コタツは下部分に灰を入れその中に炭を入れていた。下画像は当ブログ主が子供の頃に使用していた湯タンポ・小火鉢で何れも懐かしい暖の取り方であった。

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極楽寺山登山-変形木

2018年01月24日 | 登山





 


昨日紹介した佐方川支流の流の滝手前にある杉の倒木から本来は枝であろうが何と5本も大きな幹に育っている。倒木からは別に幼幹が5本伸びているが画像向う側斜面の通常ではない根元から養分がよくも供給できるものだ。下画像は側道沿いにあるH型枝の変形木がみられた。

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極楽寺山登山-流の滝、清水滝

2018年01月23日 | 登山





 

佐方地区奥部、山陽自動車道の下を通る側道を進むとすぐに佐方川支流があり川沿いに進むと通称流の滝がある。昔は憩いの場所として整備されていたようであるが今は荒れており訪れる人もいない。さらに側道を西行すると荒蒔川の上流で側道はなくなり川沿いの山道を下って行くと清水滝があり滝の上流は滑滝になっている。昭和初期の山関連文献の極楽寺登山路図によると清水滝と記されているが、滝名が忘れられ現在では地名により荒蒔の滝と称されているようである。

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極楽寺山登山-タマミズキ

2018年01月22日 | 登山







極楽寺山から佐方参道を下山中遠くに見える鮮やかな色は紅葉?花?新芽?と思われるような周りに比べ際立ったもので、今時期何だろうかと望遠で撮影すると赤い果実の鈴なりであった。帰宅してネットで調べるとタマミズキの実のようであり当ブログ主は初めてみるものであった。

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廿日の市

2018年01月21日 | 「廿日市地区」ぶらり



 

昨日は20日であり市役所前の市民プラザでは毎月開催される恒例の定期市が催されており、多くの買い物客で賑わっていた。中世の廿日市の街並み(この頃は廿日市地名はなかった)では度々市が開かれており、街並みの四辻に祀られていた市神の胡さんの御開帳が20日に行われ、信仰心の厚かった人々が近郊近在から集まり廿日の市が有名となって「廿日市地名」となったものと思われるのである。

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極楽寺山登山

2018年01月20日 | 登山








昨日、宮島SA横から廿日市参道を登り極楽寺に参詣をして、帰路は仁王門前から屋代・佐方参道を下って佐方地区奥部に下山した。ここから山陽道の側道を通り中電の鉄塔管理道を経て廿日市参道の極楽寺橋から宮島SA横に帰る少しハードなコースであった。下山途中の屋代・佐方参道脇に極楽寺山無給電中継所があり、これは2号線や山陽自動車道などから山頂近くにみられるものである。旧屋代参道と佐方参道の分岐点に昭和10年(1935)に建立された石碑があるが、現在の屋代参道は離れたところを通っている。

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旧川末消防団車庫・詰所

2018年01月19日 | 「廿日市地区」ぶらり



 

昨日紹介した川末大歳神社跡に消防団車庫・集会所が建てられており、それ以前に使用されていた消防団車庫・詰所が近くの県道沿いに残されているが屋根が朽ちかけている。朽ちかけた軒裏には今どき見られない電気配線で碍子や碍子管がみられ、子供の頃の家にみられた懐かしいものである。

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元川末大歳神社の鳥居

2018年01月18日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

原地区川末にあった大歳神社の旧参道を登って行くと石鳥居がありその先には社殿ではなく集会所・消防団車庫がある。この石鳥居の刻銘によると明治32年(1899)3月15日に建立されているようであるが、明治42年(1909)12月11日には川末大歳神社を村社の伊勢神社に合併しており神社跡には鳥居のみが残されている。

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下ケ原橋越しに折敷畑山を遠望

2018年01月17日 | 「廿日市地区」ぶらり



 

原地区を流れる川末川に架かる下ケ原橋で遠くに古戦場の折敷畑山(矢印ケ所)を遠望する。戦記物語「吉田物語」によると平良辺は「セウトウ岩有りて、五間・十間も馬など乗られ候場なく、足懸り悪く候」とあり、陶勢は「平良の郷を志し、下の原と申す所迄押し下る」とあるので、折敷畑山~下ケ原~上平良では厳島合戦の前哨戦の戦いが行われていたようである。(折敷畑山合戦絵図部分-市教委蔵)

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