当ブログ主は訪れた地にある厳島神社参詣するようにしており、昨日紹介した宇佐八幡宮のある防府市鈴屋地区にある厳島社を参詣した。江戸期の寺社由来には鈴屋村の地蔵堂と炭頭に厳島社がみられ、いずれの社も祭日は6月17日とあり厳島神社の管弦祭と同じ日であるが由緒については不明である。画像の神社はどれに該当するのか不明であり神社地も祠も新しいようでどのような歴史があるのだろうか。
当ブログ主は訪れた地にある厳島神社参詣するようにしており、昨日紹介した宇佐八幡宮のある防府市鈴屋地区にある厳島社を参詣した。江戸期の寺社由来には鈴屋村の地蔵堂と炭頭に厳島社がみられ、いずれの社も祭日は6月17日とあり厳島神社の管弦祭と同じ日であるが由緒については不明である。画像の神社はどれに該当するのか不明であり神社地も祠も新しいようでどのような歴史があるのだろうか。
(人吉市-青井阿蘇神社)
(人吉市-岩屋熊野神社)
防府市鈴屋地区にある宇佐八幡宮で看板表示によると本殿は貞享5年(1688)に右田毛利就信による再建で、拝殿は文政2年(1819)に右田毛利房顕・氏子により再建されたようである。本殿・拝殿共に茅葺屋根の社殿は珍しくあまり見かけることはない。当ブログ主が今までに見た茅葺屋根社殿の神社は先日多大な水害被害を受けられた人吉市にある青井阿蘇神社と岩屋熊野神社が思い出されるのである。
山口市大内氷上にある大内氏の総氏寺であった氷上山興隆寺・北辰妙見社の現在で、妙見社と中興堂、鐘楼が残されている。大内氏全盛時代には古伽藍図をみると多くの塔頭が並んでいたようであるが、大内氏滅亡後に衰退し江戸期には脇坊が5坊あったが明治期の神仏分離令で寺社領がなくなり昔の面影は無くなったようである。鐘楼の梵鐘は享禄5年(1532)に大内義隆が寄進したもので国重文に指定されている。先日紹介した桜尾山の妙見社は大内氏の氏神である北辰妙見社を勧請して祀られたものと思われるのである。
(山口古図-山口県文書館蔵複製より)
(多宝塔画像-山口市指定文化財HPより)
山口市宮島町に移築された小さな厳島神社がある。厳島神社は応永14年(1407)に大内盛見が芸州厳島神社を勧請して宇野令村に祀った。現在の県庁の地であり山口古図の赤丸部分に厳島社がみられ赤四角部分が先日紹介した瑠璃光寺である。江戸期厳島神社は山口10社の内の一社で宮司は10社に限り大宮司と呼ばれていたようである。幕末期に萩城から現在の県庁の地に山口政庁が置かれて厳島神社は現在地に移転したようである。かつて厳島神社の宝殿内に安置祀られていたものとみられる多宝塔が残されており山口市指定文化財に指定されている。
山口市古熊にある古熊神社で本殿・拝殿共に国の重文に指定されており、本殿は室町時代で拝殿は室町時代末の建築とみられている。昨日紹介した今八幡宮と同じような楼拝殿造りで入母屋造の楼門正面に片流れの向拝が設けられ左右に切妻造の翼廊が設けられている。当社の両翼廊の妻側には昇階段が設けられている。
山口市上宇野令にある今八幡宮で看板表示によると文亀3年(1503)に大内義興が下宇野令の朝倉八幡宮を今八幡宮の地に移し二社を合併して造営したもののようである。入母屋造の楼門正面に片流れの向拝が設けられ、左右に切妻造の翼廊が設けられており、楼拝殿造りの最古で代表的な遺構のようである。楼門部分と翼廊(蝶ノ屋)は共に板床であり、楼門部分は一段と上がっており、祭儀の際の着座などが関係していたようである。向拝の両側に石造の桶状のものが設置されており沢山の榊が生けてあった。
中世、当市の洞雲寺と深い関りのあった山口市の瑠璃光寺を参詣した。前回訪れた時には外国人が多くごった返していたが、今回コロナの影響で3~4人の参詣者しかみられなかった。洞雲寺の開山である金岡用兼は周南市長穂にある龍文寺(陶氏の菩提寺)の大庵須益・為宗仲心に師事していた。長享元年(一四八七)に厳島神主藤原教親は龍文寺の金岡用兼を招いて洞雲寺を開いている。
瑠璃光寺にある正法眼蔵は龍文寺で金岡用兼の侍者(金岡用兼に仕えた僧)が書写したものが洞雲寺に伝えられていたもので、洞雲寺住持の遷化にあたり瑠璃光寺の悟宗圭頓が秉炬師を勤めた謝礼として享禄2年(1529)に洞雲寺から瑠璃光寺に寄贈されたようである。(正法眼蔵画像-山口県文化財総覧より)
山口市下郷に祀られている厳島神社で、江戸期の寺社由来によると大内氏時代に芸州より勧請して祀られたようである。楼拝殿は瓦葺き入母屋造の楼門正面に唐破風の向拝が設けられ、左右に切妻造の翼廊が設けられているもので、建立は18世紀中期頃とみられている。嘉慶2年(1388)に起筆し、応永33年(1426)に終筆した大般若経(現在山口市小郡文化資料館)が伝えられていたようであり、鐘楼もあり神仏習合時代の名残りであろうか。
今回訪れた山口市の神社では向拝の両側に石造の桶状のものが設置されており榊が生けてあった。広島地方では余り見かけないようであるが・・・
山口市秋穂にある正八幡宮の本殿、拝殿、楼門、庁屋は国の重文のようである。入母屋造の楼門正面に唐破風の向拝が設けられ、左右に切妻造の翼廊が設けられている。翼廊はL型となって拝殿方向に伸びており、当神社では庁屋と称されているようである。楼門の床は現在石敷きの通路となっているが痕跡から当初は板張りであったようである。
楼拝殿の礎石は、円形、四角形の礎石に溝が彫ってあり見たことが無いような形状で、この溝に塩水を入れて白蟻防止をしていたようである。境内には神仏習合時代の名残りであろうか大師堂や鐘楼がある。
以前に御神籤の女子道社がある二所山田神社を参詣して山口地方に多い楼拝殿造りを知ったので、山口市内にある楼拝殿造りの神社を探訪してみた。
山口市上小鯖にある鰐鳴八幡宮(通称小鯖八幡宮)の楼拝殿は看板表示によると寛政3年(1791)の棟札があるようで当時のものとみられている。楼拝殿は入母屋造の楼門正面に唐破風の向拝が設けられ、左右に切妻造の翼廊が設けられている。楼門は通常通路であるが楼拝殿造りでは翼廊と共に板床とされており、翼廊部分は一段下がっていた。画像を撮るのを怠ったが長い参道脇には鬼ユリが満開でありカメラマンが数名おられた。
廿日市市中央市民センターの2階ホールにはかつての佐伯郡役所の看板とアクリルケースの中に模型が置かれている。佐伯郡役所は現在の中央市民センターの地にあったもので、西洋建築を模した擬洋風建築であったが、多くの識者に惜しまれながら昭和46年に解体された。 事務所棟では正面のベランダ部分、円形の柱列、柱頭柱脚の繰型、軒下蛇腹など、また、事務所・議事堂棟の軒裏の曲線仕上げ、円形換気孔、出入り口のファン・ライト式欄間など従来の日本建築には見られない手法の建築であった。
廿日市市中央市民センターの2階ホールにあるショウケースの中に江戸期から制作されている廿日市張り子の主だったものが展示されている。廿日市張り子は元禄8年(1695)に近江国から移住してきた大津屋の先祖が人形作りをしたと伝承されている。大津屋の何代かがこの地方で豊富に生産されていた手漉き和紙を利用して張り子の製作を始めたものとみられ、現存する張り子型の墨書銘文からみると天保6年(1835)頃に製作していたことは間違いない。
近郊から廿日市のまちにやってきた人達は子供の玩具や魔除け、宴会用、祭礼用などに張り子を求め、また、寺社の縁日などでも子供達に人気があり、「大島の張り子」「大島の面」と有名であった。ひとつひとつの手作りでありその日の気分により一品ごとに表情が違っており、全く同じものがない泥臭い素朴さが特徴である。廿日市張り子については張子調査報告書、広島県の諸職などに詳述されている。
ニブヒ(ギリヤ-ク)の墓
隠岐(郡)のスヤ
隠岐(飯美)のスヤ
隠岐(大城)のスヤ
隠岐(卯敷)のスヤ
対馬(青海)のスヤ
数十年前に北海道旅行をしてどこかで購入していた「消えた北方民族」という特別展図録は書棚に積読していた。久しぶりにページを捲っていると以前に紹介した隠岐と対馬でみた墓上施設でスヤと呼ばれているものによく似た画像が掲載されていた。上画像で北海道の北方にある樺太のニブヒ(ギリヤ-ク)の墓のようである。遠く離れた北方民族の地樺太と隠岐、対馬などにみられる葬送習俗が類似しているようにみられるのであるが・・・
桜尾城址は削平されて遺構は残されていないが、桜尾山の北麓には桜尾城時代に山口の大内氏氏神である氷上山興隆寺妙見社を分祀し、桜尾城の守護神(軍神)として勧請された妙見社が祀られている。お世話をされておられた方々が高齢となられたのであろうか境内や社殿が荒れ気味のようである。妙見社の本尊妙見菩薩像は右手に宝剣を持って亀甲の上に立っており、足元には白蛇がどくろを巻いている軍神の容姿像である。大内氏の妙見尊崇については長享元年(1487)の大内家壁書に、鼈(すっぽん)、亀及び蛇は氷上山の御仕えのものという堅い信仰に基づき、鷹の餌として鼈、亀、蛇を用いてはならず事の次第によっては死罪にするとの極めて厳しい厳命が下されていた。桜尾城と妙見社
桂公園の片隅に昭和48年(1973)4月老人福祉法制定10周年記念に廿日市長生会が植樹した樹木が、隣接して建立されている石碑を喰い始めていた。喰いついたものの石碑は大きくどのようになっていくのであろうか。