ウォーキング途中のふれあいライフ原(元国立療養所原病院)の老桜樹とボンボリが吊り下げられた伊勢神社の老桜樹は満開で見頃であった。下画像は長野川沿いにみられる二種類の桜の花が満開と手前の新葉のグラデーションが見所であるが曇天のため・・・
ウォーキング途中のふれあいライフ原(元国立療養所原病院)の老桜樹とボンボリが吊り下げられた伊勢神社の老桜樹は満開で見頃であった。下画像は長野川沿いにみられる二種類の桜の花が満開と手前の新葉のグラデーションが見所であるが曇天のため・・・
世界遺産に登録されている石見銀山でかつて栄えた大森の町並みを50年ぶりくらいに訪れ散策した。江戸期の武家屋敷や代官所跡、石見銀山で栄えた豪商・熊谷家住宅、商家、町家などの歴史的な建造物が当時の面影を残しており、町並みの多くは石州瓦が葺かれており平入りの建造物が多くみられた。
ウォーキング途中の河野原大歳神社境内の老樹桜の開花はしているが満開はもう少し先のようである。道すがらのハランキョウの白い花が満開であり、しだれ桜はほぼ満開の様であったが生憎の曇天で画像は・・・
川本町の町並み裏の高台には斬新な悠邑ふるさと会館とかわもと音戯館があり、以前訪れた時には駐車場脇にアポロ宇宙船スカイラブ3号とあるものが展示されていたが無くなっていた。(撮影:2017年3月撮影)ここにあったものは宇宙科学博覧会で展示されていたもののようで、実際に使用された司令船は米国オハイオ州クリブランドにあるグレートレークス科学センターに展示されているようである。
JR三江線は平成30年(2018)4月1日に廃止されたが旧石見川本駅舎は元のまま残されており、切符売り場、改札口や待合室、ホーム上屋、線路などもほぼ元のままであった。駅の事務室跡は島根中央信用金庫の川本支店として使用されていた。下画像は平成29年(2017)3月10日撮影
久しぶりに石州路をぶらりと訪れて、押し寿司の上にふっくらと焼き上げた穴子の身に甘辛たれがかけられた、料理皿をはみ出すようなボリュウムのある穴子寿司を美味しく頂いた。穴子といえば瀬戸内と思っていたが、島根県はアナゴ漁獲高が日本一のようで半数位は大田市で水揚げされたもののようである。ちなみに広島県の漁獲高は島根県の十分の一ぐらいのようである。
ウォーキング途中の伊勢神社境内にはボンボリが吊り下げられており、昨年までは色褪せたボンボリであったが新調されたようである。老樹桜の開花はもう少し先のようである。立善寺の山門脇にある樹種不明の桜は満開のようであった。
中平良地区で平良丘陵開発土地区画整理事業に伴った市道の堂垣内広池山線の工事が行われているものとみられるが、看板表示には宅地造成協議標識-市道堂垣内広池山線造成工事とあり通常の道路築造の看板表示と異なっている。立ち退き宅地の代替え宅地が道路と共に築造されているのであろうか。
NASAから月の周回軌道チケットを入手した。
今年の夏までにフロリダのケネディ宇宙センターから打ち上げられる「アルテミス1号」に搭載されるフラッシュドライブに記録され、共に宇宙空間に旅立ちそのうち月の周回軌道は6日間で打ち上げから地球に帰還するまで26日ほどの旅路のようである。
橋本の辻地蔵を過ぎてから原地区内では石州往還道の面影はみられない。川末地区の出合は泉水峠越道と大沢峠越道の分岐点であり、原村国郡志御用ニ付下しらべ書出帳の小名及び絵図に茶屋とみられるので旅人に供する茶屋があったようである。泉水峠越道は県道294号(虫道廿日市線)であるが現在林道玖島川末線の工事のために通行止めとなっている。
交通が発達する以前に廿日市から平良、原、玖島、多田、吉和を経由して匹見に通じていた旧石州往還道沿いの所々を紹介していこう。
先日紹介した菊ケ迫山の尾根筋東側から御棒杖山の尾根越をしてからは名残りはみられない。原橋本の地はかって村役場、郵便局、農協、商店、駐在所、医院、醤油醸造場、などがならび旧原村の中心地で、「原で橋本田舎の名所出馬入馬馬の市」といわれ古くから賑わっていたようである。辻地蔵の基礎石には「宝暦十三年未四月吉日、是ヨリ 右山縣道 左石州道 願主當村」と刻されており、旅人の安穏を祈念して祀られていたものとみられる。
桜島大根
切葉松本地大根
時折り紹介している廿日市17代目桜島大根(左側)と廿日市7代目切葉松本地大根(右側)で、葉が枯れ始めもうすぐ花が咲いていくものとみられる。隣接して植えているので切葉松本地大根の尻詰まり型の特徴は無くなり桜島大根と同じような形状の大根となった。
七尾中学校の体育館に掲げてある校歌で、当校では三代に亘り学び歌っており三代目の次孫も先日卒業した。当ブログ主が在校の頃は校歌と恩師が作曲した謳歌があったが、子も孫も歌ったことが無いと言っており何時ごろまで歌われていたのであろうか。
昨日紹介した吉野山の東側に中平良地区から伸びている菊ケ迫山・御棒杖山で、尾根筋の東側には江戸期から昭和初期頃まで使用されていた石州往還道の跡が残されている。菊ケ迫山の尾根筋に茶屋があったことを複数の先人から聞いているので茶屋があったことは間違いないであろう。
現在計画されている「平良丘陵開発土地区画整理事業」に伴った堂垣内広池山線のルート状況によっては部分的に山容が変わっていくものと思われる。
上平良地区の東側に伸びる小高い山で現在多くが竹藪化しつつある。江戸期の地誌によると吉野廃祠「・・・吉野の森と称す、舊は小祠ありしよし、今はいしのみ有りてこれを祭る、その地中に小瓶あり・・・」などと上古は葬所だったのかと記されている。また明治期の地図に寺山とあるので速谷神社供僧十二坊の二郎寺山宝泉寺があったのではないかと思われるのである。