平成28年もいよいよ今日かぎりとなりました。昨日、速谷神社へ訪れてみるとしめ縄交換やしめ飾り門松の組み立て幟立てもされており、境内には露店が数多く並んで初詣準備万端のようである。
※当ブログは老化防止のために記しているぶらり見たままのブログですが、今年も多くの方々にご来訪閲覧頂き大いに励みとなりました。来年も老体鞭打って頑張りたいと思いますのでお暇な時にご来訪ください。
今年も明日限りとなりましたので過ぎ去る申(猿)年に因んだ画像を・・・ 今年も猿と猪の出没が続き特に猪の被害で作農意欲が削がれたのである。猿は爆竹で脅しても遠くの高い木の上から高見の見物。猿が腰を掛けるのであろうか宮島大元公園で見かけた大きなサルノコシカケ。
サル錠は土蔵などに使用されているもので通常二重ロック方式となっており、鉄棒をL型に折り曲げたサル鉤の爪でサル錠の横木や縦木の凹み部分に引っ掛けて解錠するものであるがなぜサル鉤、サル錠なのだろうか。
宮島西蓮町の市営住宅西蓮コーポに向かう三叉路角に建立されている大束富くじ場跡碑で、江戸期の人々が夢を買う大束入札場所があった所である。
富くじは合鑑紙(下画像)と木駒を買い桶の中に木駒を入れて公開場で錐で突いて突き当たった木駒が当たりくじとなったようで、芸藩では富くじは禁制であったので大束(薪)の入札という名目としていたようである。現在の夢を買う年末ジャンボ宝くじの抽選日は明後日のようであるが・・・ (絵図:宮島歌舞伎年代記より)
正月が近くなったので昨日上平良地区にある河野原大歳神社に先日作っておいていたしめ縄を本殿と拝殿に架けた。
速谷神社のしめ縄づくりで余った稲藁を貰って作ったもので一人作業のためうまくは出来なかった。子供の頃は氏子がおらず神社が荒れており玉垣を倒したり格子戸を壊したりしていたので、罪滅ぼしになればと・・・
宮島フェリーターミナルからの海岸沿い商店街にあったかつての松大船待合所跡の建物は残っているが名残りのコーヒーショップ松大がなくなっている。
昭和49年(1974)発行の住宅個別地図には松大船待合所、松大観光専用桟橋がみられる。当ブログ主が小学校の遠足で行っていた頃は雁木に歩み板を掛け渡して松大船に乗り降りしていたのを記憶している。
宮島フェリーターミナルから海岸沿いの商店街が折れ曲がる海側にある広島経済大学成風館の地はかつての厳島港商船桟橋の跡で、大阪商船の大阪下関線、尾道別府線、馬関広島線などで宮島に寄港していたようである。
昭和49年(1974)発行の住宅個別地図には宇品汽船・宇和島運輸専用桟橋となっており呉広島別府線で宮島に寄港していたようである。
岡豊城跡裾の県立歴史民俗資料館で高知県の鏝絵調査について記載されている書籍を求めて帰宅後、他の部分を見ていると土佐神社に江戸中期佐方村住人の納札があったことが記されていた。
土佐神社は中世より四国八十八ケ所霊場の札所だったようで、昭和58年(1983)からの保存修理の際に幣殿天井から納札が発見されており、納札には「明和二年 芸州佐伯郡、奉納四国八十八ケ所為二世安楽、酉二月日 佐方村惣七」と記されているようである。今のところ佐方村住人惣七について明らかにする資料は見当たらないが、江戸中期ごろ当地から四国八十八ケ所霊場巡りをしていたことが分かる資料である。(下画像:高知県立歴史民俗資料館 研究紀要より)
戦国武将の長宗我部氏の居城であった南国市の岡豊城跡を探訪した。城跡は発掘調査が行われ詰・詰下段・二ノ段・三ノ段などの遺構が復元されていた。(中画像:三ノ段の礎石・石積・土塁)
岡豊城跡のある岡豊山には県立歴史民俗資料館があり、長宗我部展示室には長宗我部氏や岡豊城跡に関する資料が展示してあった。
昨日紹介した前浜掩体壕群の近くに南海トラフ巨大地震の津波被害に備えて大湊小南タワーと表示された津波避難タワーが設置されていた。
この地は高知平野の東半部で香長平野と言われている田園地帯で標高は5m前後のようである。タワーに⑬表示があったので13ケ所目のタワーであろうか。タワーの3層目に「ここは海抜12.46m」、4層目に「ここは海抜15.46m」と表示されていた。
高知龍馬空港近くに残されている掩体壕で、戦時中高知龍馬空港は高知海軍航空隊の飛行場だったようであり、掩体壕は米軍機からの攻撃で飛行機を守るための格納庫として築造されたようである。
現在7基の掩体壕が田んぼの中のあちらこちらに残されておりその中で一基が一回り大きく大型機を格納していたものであろうか。
現存天守閣が残る12城の一つである高知城には何十年ぶりに訪れたのであろうか。あまり記憶に残っていなかったが本丸内には多くの当時の建造物が残されておりゆっくりと探訪し堪能した。
追手門からの追手筋では日曜市が開催されて大勢の人々で賑わっており付き添いに引っ張られ端から端まで散策した。かつて廿日市の辻にあった胡堂の御開帳日であった廿日の市も近郷近在の人々でこのように賑わっていたものと思われるのである。
土佐神社の幣殿の両側に伸びた翼殿に見たことがない円形状の並んだ奉納額が掲額されていた。
神官にお聞きすると1月に射初祭(いそめさい)が斎行され両鬼門に向かい矢を射る神事を行い、競射で的に当てた人の的が奉納額として掲額されているようである。
土佐探訪のついでに折角だから道中にある厳島神社も訪れてみた。昨日紹介した土佐一宮の土佐神社境内に厳島神社が祀られているが由緒などについては定かでない。(上画像)
中画像は桂浜近くの浦戸湾御畳瀬港にある厳島神社でおそらく漁業関係者によって祀られているものとみられる。
下画像は吸江弘化台の山中にある厳島神社で、元高知城の守護神として城内三社の一つとして祀られていたようであるが明治4年(1871)にこの地に遷座されたようである。
昨日は何十年ぶりであろうか高知市方面を探訪し土佐国一宮で旧社格国幣中社であった土佐神社を訪れた。本殿、幣殿、拝殿、鼓楼、楼門(神光門)等国の重文のようであり、弊殿と拝殿の平面形状が十字形で初めて見たような社殿である。境内には末社の厳島神社が祀られていた。
本日は宿泊ホテルから送信。
大元神社近くの大元公園内に残されている大きな枯れ腐食木にサルノコシカケと寄生木がみられた。
何の木であろうか枯れ木となって相当年数が経っているものとみられ腐食が進んで樹木から水分と養分を吸収して上部の寄生木が育っているようである。上部の寄生木はヤドリギ類のヤドリギ(宿り木)とは違った木のようである。