『はつかいち』 ぶらり

安芸の宮島の地・・・廿日市を見たまま紹介―独自の好奇心アンテナを張り巡らせて、ビビッと反応したものを紹介します。

菊花紋の墓碑 ②

2024年11月30日 | 木地屋・轆轤師






島根県吉賀町金山谷集落の通称観音山に建立されている小椋余右衛門妻の墓碑で、弘化2年(1845)の刻銘があり墓碑上部に16弁菊花紋が陰刻されている。
木地屋の人達は惟喬親王を業祖と仰いでおり親王に随伴した人達の末裔として菊の御紋を使用するようになったものとみられ墓碑に刻されている。
                                         (廿日市の文化第24集所収・西中国山地の木地屋参照)
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菊花紋の墓碑

2024年11月28日 | 木地屋・轆轤師






遥か昔、昨日紹介した折居の厳島神社前を通って、室谷地区の山中にある菊花紋のある墓碑を発見した人に案内してもらったことがある。墓碑の主は元治元年(1864)に葬られたようであるが俗名は刻されていなかった。
山中であり菊花紋がみられるので山中で稼業していた木地屋の墓碑と思われるが、この地での木地屋の挽造活動についての資料は見当たらないのである。(西中国山地の木地屋参照)
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菊紋木皿

2022年05月18日 | 木地屋・轆轤師

 

木地屋の人達は惟喬親王を業祖と仰いでおり親王に随伴した人達の末裔として菊の御紋を使用するようになったものとみられ墓碑に刻されている。画像の木皿は西中国山地で作られたもので、直径9cmの木皿で菊弁は上から16弁、15弁、14弁、13弁と様々あり、木地屋自ら使用していたものか製品として作られたものかは定かでない。

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西中国山地の木地屋

2022年05月17日 | 木地屋・轆轤師

 

 

 

先日来紹介している廿日市の挽物細工の源流の一部は西中国山地で稼業していた木地屋が移住して町木地屋になったことが史料などから伺うことができるのである。画像は西中国山地の木地屋が使用していた轆轤(上:匹見、中:吉和、下:戸河内で使用)と山県地方で制作したものとみられる木盆である。  (廿日市の文化第24集 西中国山地の木地屋-木地屋の足跡探訪を中心にして- 参照)

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講中椀セット

2022年05月16日 | 木地屋・轆轤師

 

 

かつて上平良の大原講中で昭和の後期頃まで使用されていた講中椀セットで明治37年(1904)3月に40セット位調製されている。昨日紹介したように廿日市・下平良で挽物細工が盛んに行われていたので地元で製造されたのは間違いなかろう。講中椀の使われ方は先に紹介しているので参照してください。

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轆轤細工の碁器が !

2022年05月15日 | 木地屋・轆轤師

 

 

物入れの片隅から轆轤細工の碁器が出てきた。昭和の中頃まで須賀町で轆轤細工の碁器を作っておられたのを記憶している。(下画像:図説廿日市の歴史より)江戸期から廿日市では挽物細工が行われており、椀や盆、木鉢、木皿などが作られたものとみられるが定かなことは不明である。大正期頃はけん玉などの玩具や宮島土産の挽物細工が製造されていたようである。

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