宮内馬ケ原地区の県道30号線脇に安置祀られている一面二臂の馬頭観音で、以前は旧津和野街道の脇にあったもので天保10年(1839)11月に建立祀られたものである。ここ旧津和野街道は佐伯郡奥筋や石州、山代方面からの多くの小荷駄馬が行き来していたものとみられ、この地で行き倒れた馬を供養するために馬頭観音が安置祀られたものとみられる。
宮内馬ケ原地区の県道30号線脇に安置祀られている一面二臂の馬頭観音で、以前は旧津和野街道の脇にあったもので天保10年(1839)11月に建立祀られたものである。ここ旧津和野街道は佐伯郡奥筋や石州、山代方面からの多くの小荷駄馬が行き来していたものとみられ、この地で行き倒れた馬を供養するために馬頭観音が安置祀られたものとみられる。
夏休みに孫と鉱石ラジオを作ろうと二種類の鉱石(ゲルマ)ラジオ組み立てキットを購入していた。楽しみにしていた低学年の孫も部品やら熱い半田ゴテなどをみると尻込みしてしまい、なんと爺の懐かしい鉱石ラジオづくりとなってRCCのみ受信できるものが出来た。ラジオ少年であったころに使用した半田ゴテであり、当時作った石鹸ケース(当時はプラスチックケースの入手が難しかった)とフイルムケースに組み込んだゲルマニュームラジオの2台は、もう劣化しているのではないかと思っていたが現在でもRCCのみ聞くことが出来た。
県道30号線河津バス停付近の山添にある馬頭観音で刻銘によると嘉永4年(1851)10月に建立されたようである。三面六臂の像で彩色されたような跡がみられる。この地は旧津和野街道から外れた通りであるが、この地で行き倒れた馬を供養するために馬頭観音が祀られたものであろうか。
旧山代街道分岐点付近
旧山代街道
亀尾川垰(県境)
亀尾川の街道名残り
山代街道亀尾川御番所跡・池の垰一里塚跡
昨日紹介した江戸期十王堂があったと思われる地付近の津和野街道から山代街道が分岐しておりその名残りの小路が残されている。上画像の町並みを通る県道30号(旧津和野街道)から左手に入る道が旧山代街道である。旧佐伯町内の旧山代街道についての調べは進んでいないようであるが山口県旧美和町方面の旧山代街道については調査がされ所々に説明表示がされている。
佐伯町中組の県道30号線津田口バス停前の三差路脇に建立されている旧津田村の境碑で、大正6年(1917)4月に建立されており、「従是西 津田村 廿日市町へ約四里余 十王堂へ約十八丁」と刻されている。この碑は以前数十メートル津田寄りの県道脇に建立されていたが、道路拡幅(?)によってか移設されたようである。
市佐伯支所の入口脇に建立されている花崗岩製のレトロな門柱(?)は表示によると旧津田町役場の玄関礎石であったようである。津田町役場は昭和7年(1932)に建築されたようであるが、当時の画像は見当たらない。この玄関礎石をみると津田町並みで威厳のある官庁建物であったものとみられるのである。
津田の町並みに煙り出しの越屋根がみられる民家があった。いつも車で通っているので気が付かなかったが、徒歩で街並みを歩いていて初めて気が付いた。今春訪れた飛鳥の町並みには越屋根の付いた町家が多く見られたが(下画像)、当地域での街並みで越屋根のついた町家はほとんど見かけることはない。
昨日紹介した広電バスの旧佐伯営業所(現津田車庫)に、かつて廿日市の銘酒であった家納喜の広告の入った待合ベンチが外部に3脚と待合室内部に1脚残されていた。待合室内部には無広告のベンチもあり、バス全盛期にはバスの待合に多くの乗客者がこれらのベンチを利用されていたのであろうが今は人影もみられず寂しい限りである。
広電バスは昨日紹介したさいき文化センターバス停留所を経て津田車庫まで運行されている。佐伯営業所は昭和54年(1979)に開設されており、当時は吉和・中道・所山・秋掛・本郷方面と運行されていた時代である。モータリゼーション到来でバス路線も少なくなって平成6年(1994)には佐伯出張所と格下げされており、その後出張所がいつ廃止とされたのかは定かでない。
さいき文化センターの駐車場に待合室付のバス停留所が設けられている。市役所方面からの広電バスから、この停留所で佐伯さくらバスの玖島線(川上・平谷・大沢)、浅原線と吉和さくらバスの吉和線に乗り換え所として設けられたようである。待合室内は椅子、机、時計、照明、冷房付きでバスの待ち時間が表示されている快適そうな空間であるが利用者の姿はみかけなかった。雨のため国道186号は通行止めで吉和線は不通であった。
江戸期廿日市湊には各地から多くの交易船が出入りしていたとみられるが、資料が残されておらず明治期の資料から伺うことしか出来ない。唯一、天満神社の随身門脇の玉垣に入津廻船屋が江戸後期に寄進したものがみられる。刻銘によると「長州宇部岬、床浪浦、富田、〇曲浦、往生浦、豫洲」などと刻されているものがあるが、明治期の資料にみられる交易地のほんの一部でしかない。
陸稲の苗を貰って先月に田植えならぬ畑植えをしたことを以前に紹介した。水稲は株も張って青々として育っているが陸稲の一昨日はこのような状態である。少し密植し過ぎたか。陸稲の栽培方法は全く分からないのであるが野菜と同じように時々水やりをしており、水あてっ放しの水稲より手間が掛りそうだ。
上平良地区の河野原集落最奥部にある河野原溜池で農業用のため池として昭和16年(1941)に築造されている。灌漑面積は5町(5ha)だったようで、灌漑田地に応じて出資し築造されたようである。当ブログ主が子供の頃は手入れも行き届いた山水の綺麗なため池であり、丸太を浮かべて浮きの代わりにして泳ぎが出来るようになったところである。(いまはダメです)