時折宮島SAスマートICへのアクセス道路工事について紹介しているが、国道433号線交差点から宮島SA方面に向かうと見通しの悪い峠になっているところがある。
見通しの悪い峠部分は山斜面を大きく掘削して新設道路面を低くする工事が行なわれており、画像右側に歩道が出来て上下一車線ずつの車道が出来るようである。
夏の日除けとするために昨年は朝顔の間にゴーヤを植えたけれど朝顔が茂りすぎてゴーヤが絶えてしまったので、今年はゴーヤと朝顔を分けて植えてみた。
ゴーヤの成長をみていると主蔓の葉腋部から細い巻き蔓が伸びてネットに接触すると巻き付いて固定し、その間にスプリング状の巻きが左巻きに巻いて途中から右巻きになっている(一部には逆巻きのものもみられる)。左右巻きスプリング状は風などの衝撃を受けた時に葉腋部の巻き蔓根に捩れを起こさないよう相殺しているものとみられる。
旧大野町役場庁舎で平成17年(2005)の廿日市市編入合併後は大野支所庁舎として使用されている。
この庁舎は中央階段室を挟んで左側が4階建て、右側は3階建てのスキップフロアで庁舎建築では珍しいものではなかろうか。商業建築ではひとつの床面を揃えずに区画ごとに床面を変えて徐々に上層階に向っていくスキップフロアが用いられる場合がある。
廿日市消防署の車庫は緊急出動に備えて常時開放されているのかと思っていたが夜間はシャッターが下ろされていた。
車庫内は点灯されているので緊急出動の際は出動準備の間にシャッターが開放され出動するものとみられる。
地御前小学校の校庭隅に小林千古生誕之地とある石碑があり、同小学校拡張のため拾番屋敷の旧居土蔵が取壊されてゆかりの地近くに建立されたようである。
明治期の先覚的洋画家といわれる小林千古は明治3年(1870)に生まれており、ミルクメイド、パッション、誘惑など多くの作品が残されて黎明期を飾った郷土の先駆者である。
河津原地区の県道30号線を廿日市方面に向っていると最初に画像左側の道路標示で広島岩国道路の廿日市IC案内表示があり山陽自動車道接続とある。10数メートル進むと右画像のような山陽道の案内表示がある。
正式名称は広島岩国道路であろうが初めて見る人は一寸戸惑うのではなかろうか。
はつかいち美術ギャラリーで七尾中学校アートの同窓会と題して昭和28年卒から平成18年卒の同窓生出品で開催されていた第2回七美会展が昨日終了した。
開催期間中に雨天の日もあったのにもかかわらず1000人を超える多くの方々のご来訪者があり盛会裏に終了した。
新宮神社参道に建立されている狛犬一対で刻銘によると文久4年(1864)春に寄進されている。
文久4年は2月20日に元治と改元されており、早春ともないのですでに春と刻されていたものが改元になったのであろうか。
先日畑の草取りをしていたら見たことのない文様のあるきれいな色をした蝶か蛾であろうか地面に降りていた。
蝶より蛾に近いようであるがなんという名前であろうか。羽の色はWeb色見本をみると千草色であろうかきれいな色である。
呉市倉橋町は古くから造船の盛んな地であり、旧暦6月17日に厳島神社で催される管弦祭の御座船が厳島管弦船倉橋御用講によって建造され奉納されているようである。
昨日、倉橋町桂浜を訪れ倉橋建造の御座船展示場と厳島神社管弦船格納庫が桂浜海岸にあった。御座船展示場のものは昭和37年(1962)と昭和61年(1986)に建造され管弦祭に使用後倉橋町に寄贈されたもののようである。
先日紹介した七尾中学校アートの同窓会と題した第2回「七美会展」が本日より23日(日)まで、はつかいち美術ギャラリー第3展示室で開催展示されます。
昨日は展示作品の搬入をして実行委員が中心になって展示作業を行った。油絵、日本画、水墨画、版画、書、写真、染色、パッチワーク、アルミアート、仏像、人形、能面、宮島彫等々多彩で楽しい作品展なので是非足をお運びご覧になってください。
原地区の国道433号線改良工事について時々紹介しているが、原市民センター前から伊勢神社参道入口までの工事がほぼ終わっているようである。
近いうちに元JA原支店前交差点から半明原橋までの間が通行できるようになるのだろうか。山陽自動車道下から平良・原境間は工事着工されていないので開通まで数年先になるのだろう。
七尾中学校アートの同窓会と題して第2回「七美会展」が6月19日(水)から23日(日)まで、はつかいち美術ギャラリー第3展示室で開催展示されます。
恩師の先生方をはじめプロで活躍されている方からど素人(当ブログ主)まで48名が出品、油絵、日本画、版画、書、絵手紙、写真、染色、アルミアート、人形、能面、仏像、宮島彫、パッチワーク等々多彩で楽しい作品展になりそうなので是非足をお運びご覧になってください。
地御前神社での舞楽が奏された後に型どおりの流鏑馬神事が行われた。かつて地御前神社前から観音堂下までの間を、馬を飛ばして矢を方式通りに射ていたようで、その後に一般の馬がその間を囃し立てられながら飛ばしていたので「馬とばし」と呼ばれたようである。
江戸期の地誌には「但往昔者流鏑馬御馬三疋之処、中古安永年中之頃ヨリ弐疋ニ相成リ、当時者壱疋ニ成ル」とあり、かつては流鏑馬が盛んであったようである。