ハワイ島のキラウエア・カルデラに向うトレッキングコースの両脇に生姜によく似た葉のカヒリ・ジンジャーがずらりと群生しており、大きな穂状の黄色い花が沢山咲いていた。
カヒリ・ジンジャーは外来侵入種で原生種の植物を絶滅の危機に追いやっているということで駆逐するためであろうか茎が切り取られて地下茎が残されているのが多く見られた。
今日も元気で徘徊。。。。~~~
ホノルル市アラモアナ・センターでショッピングの間に暇を持て余し周辺を徘徊していると日本寺院風の真言宗布哇別院があり、本堂前にはKOBO DAISH-KUKAI像と風神・雷神像があった。
真言宗は1914年に布教が開始され1917年から1918年に布哇別院が建築されたようで、刻銘によると1978年に現在の本堂が落成しているようである。
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オアフ島東海岸にあるマカプウ・ビーチ駐車場近くに石積みで囲まれた先住ハワイアンの聖域であるヘイアウがある。
男性神と女性神の聖域を囲むようサークル状に石が積み上げられている。農耕地の豊潤や豊漁、戦勝祈願などを祈る古代の祭祀場であったようである。
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コナ町並みにあるモクアイカウア教会で、銘文によると1920年にボストンの宣教師が布教に訪れ創立したハワイで最も古い草葺屋根のキリスト教教会であったようである。
1835年から1837年の間に、溶岩の岩石を珊瑚漆喰目地で積み上げた壁体の現在の建物に改築されたようで、内装の羽目板などハワイ産木材であるコア材が使用されているようである。
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ハワイ島のコナにあるコナ・イン・レストランの天井に吊り下げられている天井扇風機はベルトを使ったレトロなものであった。
一台のモーターから次々と天井扇風機にベルトが架けられ画像にはないけれど向う側直角方向の天井扇風機にも架けられていた。
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孫が急遽ホノルル市のヒルトン・ハワイアン・ビレッジ内の医院に行くことになり、待合時間にビレッジ内の商店街を散策すると日本風や中国風の店舗がみられた。
三重塔の1階部分は貴金属店の店舗のようであり、鳥居の先にはビルに入る階段があって鳥居脇には中国風の店舗がみられたハワイの不思議な空間である。
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ハレイワのリリウオカラニ教会付近の道路向い側には日系人経営のM.MATSUMOTOと1923-M.YOSHIDAの店舗がみられた。
M.MATSUMOT(マツモトシェイブアイス)は日系3世が経営されており行列ができるほどの人気の店のようである。松本家は大竹市からハワイ島のサトウキビ畑労働者として移民したようで、紆余曲折を経て2世がハレイワに生活基盤を設けたようである。
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昨日紹介したハレイワのリリウオカラニ教会に隣接する墓地の一角に日本式の墓碑があった。墓碑を見るといずれも熊本県出身者のもので明治36年(1903)、明治38年(1905)と刻されていた。
当地はかつて製糖業が盛んでこれらの人々はサトウキビ畑で働く労働者として移民していたものと思われる。
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当ブログ休止中に子供・孫達に付いて難行苦行の旅中、徘徊癖がうずき出し巡ったマニアックな探訪地を紹介します。
ハワイオアフ島のハレイワの町並みにあるリリウオカラニ教会で銘文によると1832年に設立されたようで、1867・1888年の年号もみられるが何を表しているのか解読できなかった。歴史を思わす門でありハワイ王朝最後の君主リリウオカラニ女王の名を冠した教会のようである。
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トンネルを流れる川は可愛川の支流である河ノ原川で、流れ落ちている井手は畠田井手、樋門から下流の井手(井手名不明)は末森地区、郡塚地区を流れる。
渇水期には河ノ原川の水量が少なくなるので、可愛川から分水して畠田井手を経て河ノ原川に合流して樋門から下流域の末森地区、郡塚地区に流れている川のバイパス合流点である。
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近寄りがたい廿日市警察署の駐車場脇には迪宮裕仁親王(昭和天皇)立太子礼記念樹と記念樹碑がある。
大正5年(1916)11月3日立太子の礼を行って迪宮裕仁親王が皇太子になったことを記念して廿日市警察署員が記念植樹したようであるが何の樹木であろうか。
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山陽自動車道速谷高架橋のコンクリート橋脚に多数のひび割れがみられ、特に橋梁ジョイント部に多くみられるようである。
山陽自動車道のこの区間は昭和62年(1987)に開通しているようであるが、コンクリート橋脚は昭和59年(1984)に築造されている。築造されてから30年経過し海砂の影響だろうか?凍結防止剤によるものだろうか?
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先日の串戸港であるがなぜか沢山のゴミが浮かんで汚い港であった。この港には漁船とレジャー船が係留されているようである。
昨日紹介した昭和40年(1965)頃の画像では港に沢山の木材が浮かんでおり貯木場とされていたようである。昭和49年(1974)頃には港周辺に木材関係業者が10数社みられ輸入外材が貯木されていたものであろう。
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下画像は昭和40年(1965)ごろ串戸港からみた中世の藤掛城跡で、かつて尾根続きであった山が上画像マンション横に残されている。
中世の藤掛城跡は海に突出た岬のような絶壁をもった要害であったが、文政2年(1819)ごろには串戸通りの海岸小道があったようで西国街道の近道(凡そ二町程)として利用されていたようである。
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