男木島の集落は急斜面に設けられ小路があちらこちらに巡らされており、集落の最高所付近に豊玉姫神社が祀られている。神社境内には神仏習合時代の名残りであろうか鐘楼があり、江戸期に鋳造された梵鐘が架けられていた。小路を歩いていると荒れ地にアロエの花が沢山咲いていた。我が家では初めて一本に花が咲いたのであるが・・・
島北端のスイセン・灯台を探訪して集落の小路を歩いたが、待合所以外では猫数匹に出会っただけで島人には一人も出会わなかった。
男木島の集落は急斜面に設けられ小路があちらこちらに巡らされており、集落の最高所付近に豊玉姫神社が祀られている。神社境内には神仏習合時代の名残りであろうか鐘楼があり、江戸期に鋳造された梵鐘が架けられていた。小路を歩いていると荒れ地にアロエの花が沢山咲いていた。我が家では初めて一本に花が咲いたのであるが・・・
島北端のスイセン・灯台を探訪して集落の小路を歩いたが、待合所以外では猫数匹に出会っただけで島人には一人も出会わなかった。
スイセンが群生している男木島の北端には庵治石を使用した石造の男木島灯台があるということで、スイセン見物を兼ねて今回の探訪となった。備讃瀬戸の海上交通の大動脈にあるこの灯台は銘板によると明治28年(1895)12月10日初點と表示してあった。灯台敷地内には吏員退息所(現在灯台資料館)や倉庫棟などが残されているが、平日のため灯台資料館は閉館されていた。(阿多田島灯台資料館)
平良1・2丁目境の弘法川
平良1・2丁目境の弘法川(ゴミ除け格子から暗渠)
弘法踏切
柳庵川との合流ケ所
八ケ迫ため池からの弘法川は荒れ地となった八ケ迫の谷間を流れ、2号線バイパスで改変された側道脇を流れる。側道と市道弘法川1号線の三差路付近暗渠からから平良1丁目・2丁目境をしばらく流れると暗渠となりここからはどこを流れているのか分からなくなる。弘法川は市道の弘法川2号線・1号線から柳後線の下を暗渠でながれ、常念寺裏の三差路で柳庵川と合流している。広電宮島線の踏切に弘法川があった名残りの弘法踏切がみられる。
昨日紹介した廿日市市新機能都市開発事業用地予定内にある中電の管理道を歩いているとクヌギの枯れ木であろうかクソナバが沢山生えていた。食用になるのか毒キノコかは不明でありこのキノコにも名前があるのだろうが、当ブログ主は分からないものはクソナバと称している。
昨日紹介した極楽寺参道の極楽寺橋から少し下っていくと中電の高圧線鉄塔があり少し瀬戸内が展望出来る場所である。ここから画像のように見える範囲の山林は廿日市市新機能都市開発事業用地であり、数年後には山林は無くなりそうである。
原地区をウォーキングしていると古い時代に原野を開墾した当時を思わすようなゲシ(石積み)がみられる。中世頃の上平良から原地区について、江戸期の折敷畑山合戦の軍記物ではあるが「・・・平良と申して・・・此の辺はセントウ岩有りて、五間・十間も馬など乗られ候場なく、足懸り悪く候」とあり、大きな岩がごろごろしていた原野の様子が記されている。
先日訪れた防府天満宮の注連縄に付けられている飾り房の縄の結い方が見たことがないような結い方(上画像)であり、何結びというのであろうか。縄で挑戦してみた。(中画像)、我々が作る注連縄の飾り房には先人から習ったあげまき結びである。(下画像)
戸田の町並みから少し奥に進むと湯野温泉があり温泉で英気を養った。かつて温泉宿が沢山あったようであるが、現在は温泉病院や老人福祉施設の大きな建物が目立つようである。街並みに旧徳山市時代のマンホール蓋があり「ゆ」の字に温泉マークをデザインしたものであった。街並みの町屋土蔵の蔵飾りにエビスさんが漆喰細工で表され彩色されていた。
旧西国街道の戸田の街並みを歩いていると趣きのある町屋がみられ、それらの内で桝屋と表示された町屋は酒造業をされていたようであり大きな土蔵が並んでおり、吟醸酒の万両を醸造されていたようである。街並みの中に大きなピラカンサがあり実が鈴なりになっていた。少し進むと宮島様と表示のある小祠が小さな池の中に祀られていたが、なぜ宮島様といわれているのかは定かでないようである。
(Google Earth画像より)
防府天満宮から徳山西ICまでの帰路は久しぶりに国道2号線を通るとかつて椿峠にあったドライブイン天野屋利兵衛の地は更地になっていた。山陽自動車道や中国自動車道がない時代、盆・正月やゴールデンウイークなどに遠距離の連れ添いの親元への行き帰りには必ずこのドライブインに寄っていたことが思い出されるのである。
防府天満宮の近くにある周防国府跡と周防国分寺を探訪参詣した。国府跡は奈良時代から平安時代に周防国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた所であり、発掘調査の結果国庁の遺構がよく残されているようであり史跡公園化されている。国府跡付近にある国分寺は律令国家の護持を祈念するために国ごとに建立された地方官寺で国府とは密接な関係があったようである。国分寺は往時の遺構や多数の文化財が伝えられている古刹である。