先日訪れた吉田町の旧道沿いは現在シャッター通り化しており、かつての賑わいを彷彿とさせる胡子神社が先日紹介した高林坊近くの四辻に祀られている。また、胡子神社近くの町並みには本うだつが設けられている町屋がみられた。下画像は古い町屋の造りではないが見たことが無いような造りなので紹介する。
(2010年7月撮影)
(2010年7月撮影)
大町市から長野市に向かうバス車中からみられた民家を撮影したがうまく写すことができなかった。上画像は旧中村家住宅で主屋は元禄11年(1698)に建立されたようであり、主屋と土蔵の二棟は国の重要文化財に指定されているようである。2010年7月に長野市に居た娘と立山観光の途中にこの民家を撮影していたのである。
この地域の民家を4棟しか撮影出来なかったが、これらの民家は屋根の中央にいろりの煙り出しの越屋根が設けられているのが特徴的である。
宮内地区でみかけた民家の棟が見たことが無いような納め方がしてあった。通常の棟は熨斗瓦を何段も積み重ねて雁振瓦を被せたものである。この民家では熨斗瓦の部分には荒波紋と武田菱の家紋がある特注の瓦が嵌め込まれているものである。
ウォーキング途中でみかけた民家の棟が見たことが無いような納め方がしてあった。通常棟は熨斗瓦を何段も積み重ねて雁振瓦を被せたものである。この民家では丸瓦を並べずらした二段重ねとして小口は漆喰仕上げとし、上部に二段の熨斗瓦で雁振瓦が被せてある。
上下の町は銀山街道の中継地点で代官所が置かれた天領の地で栄えていたようであり、町並みでは袖ウダツを設けた町屋がみられた。上下町並みの袖ウダツは脇町でみられたような重厚なものでなく形状もほぼ同じようなものが設けられていた。
大野地区内にある大竹市飛地の後原地区に残された土蔵の蔵飾りが消滅寸前である。数年前にも紹介したが唐獅子と牡丹が漆喰細工で表されたものであるが土蔵の蔵飾り側の一部が残されているのみで反対側は下画像のような状態である。このような漆喰細工は通常鏝絵と称されているが当ブログ主は蔵飾りと称している。
先日、NHKのブラタモリで江戸期に始まったという燕三条の金属加工の原点である和釘が紹介されていた。物入れの片隅に和釘3本と和鎹があった。和釘の長さは約25cmで和釘・和鎹は金槌で一本一本叩いて作ったものであり洋釘のように均一ではないのである。
以前に紹介した浅原地区にある廿日市市重文指定の安井家住宅の棟飾りを画像から見て行こう。棟の藁上には竹板状のものが並べられて3本の横竹で押さえられており、その上に藁束を小竹で束ねたものを馬乗り型に九ケ所置いている。(使用材は定かでない)馬乗り型の頂部には太めの横竹が置かれている。馬乗り型は奇数並べるようであり、カラスオドリ、ホテ、オドリ、サンバワラ等々呼ばれていたようで、横竹はコウラギ、カラスドマリ、カラスオドシ等と呼ばれていたようである。(中国地方の民家参照)
浅原地区にある廿日市市重文指定の安井家住宅で、文化年間(1804~1817)に建てられたといわれる江戸時代の豪農の威容を伝えている農家住宅である。当家の土蔵には波文に飛び兎を表した蔵飾りが設けられている。
昨日紹介した浅原地区の旧家の蔵飾りで当家の家紋であろうか左三階松が漆喰細工で表されている。通常鏝絵と云われていますが当ブログ主は蔵に設けられているものは蔵飾りと称しています。昨日も触れたが当家は無住のようであり敷地内は荒れ気味であり先行きが・・・
浅原地区の旧家で見たことがないような珍しい画像のような床下透かし彫り欄間があったので平成26年(2014)4月に撮影していた。ところが現在当家は無住のようであり下画像のようになっているので先行きが・・・
昨日の中国新聞一面に広島市南区皆実町に残されている旧陸軍被服支廠の建物が、文化財指定への方向性が示されたと報道されており本日も関連報道されていた。ネタ切れ気味なので過去に旧陸軍被服支廠を訪れたときの画像を紹介いたします。内部画像は建築士会が催した見学会の際に撮影したものである。(1989.10.13撮影)(1998.7.30撮影)