津田地区の町並み中央付近にかかし工房の看板が掲げられている建物はかつて広島法務局津田出張所があった建物で昭和50年代前半に廃止となった。この建物の玄関ポーチなどは昔の官庁建物の片鱗が伺われる。
その後昭和55年から佐伯森林組合の事務所として使用されていたが、新事務所の新築に伴ってその後かかし工房として使用されているようである。
弥山への登山道で大元コースの12丁碑の近く(第66号)と紅葉谷コースの8丁碑の上(第68号)に呉要塞地帯区域標石がみられる。
これらの標石は岩船岳に向う尾根筋にも5ケ所みられ、これら呉要塞地帯の区域内では様々な禁止事項が制定されて制限が行なわれていた。
※ 呉要塞地帯区域標石
一昨日紹介した弥山の御播種松跡のすぐ脇にはかつての鐘楼跡があり礎盤と礎石などが残されている。
ここに吊り下げられていた梵鐘は弥山本堂に安置されており、治承元年(1177)2月平宗盛が奉納したとの刻銘がある。梵鐘の作風は平安時代の特徴を良く表しているようであるが、しかし治承元年は8月4日からであり治承元年2月はあり得ないので銘文の真偽が論じられていたようである。
弥山本堂から山頂に向って登っていると登山道脇に4本の石柱に鎖を巡らせ区画した所があり、その片隅に「皇太子殿下大正十五年五月御播種松」と刻された石柱が転がっていた。
皇太子殿下裕仁親王(後の昭和天皇)は、大正15年(1926)5月岡山・広島・山口県内を行啓され、25日午前11時55分に広島県会議事堂の玄関前に上画像のように設けられた御播種場所で、黒松の種1升4合を播かれた。
これを育成した苗木が県下各市町村や学校、社寺その他公共団体などに配布されており、この松が植えられていたもののようだが何時頃まで存続していたのかは不明である。
弥山に向っての登山道で紅葉谷コース・ロープウエー方面からの登山道と山門方面からの登山道の途中に登山者数の計測装置が設置してあった。
この装置は環境省が設置しているようで設置したカウンターは、赤外線反射を利用してセンサーにより通過人数をカウントする仕組みのようである。日時、方向(上り下りを識別)が記録され日ごとの登山者数等を把握することができるようである。
新聞報道によると弥山展望台は建替えのために7日から解体されるとあったが、現在解体準備中のようで昨日は展望台に昇ることができた。
我が家から望遠ズームで弥山を遠望すると展望台の一部(赤〇内)を見ることが出来るので、展望台上から山陽自動車道速谷高架橋方面を遠望すると当ブログ主のあばら家がかすかに見られた。
昨年綿を栽培していたことは何度か紹介してきたが実がはじけて綿が下画像のように採取出来た。
綿毛の中には種があり種を取り出す綿繰り機がないので一つひとつ種を取り除いた綿毛が上画像であるが、これから先はどうすればよいのだろうかゴミとならなければよいのだが・・・
東広島市河内町小田で深山峡上流部の椋梨ダム堰堤近くにある深山速谷神社で、なぜこのようなところに速谷神社の分祀があるのかと思った。
詳しいことは不明であるが表示によると昭和52年(1977)に当市速谷神社を分祀して祀られた新しい神社のようである。
上平良バス停から平良体育館(旧平良小体育館)方面に向かう途中の可愛川に架かる中央橋で、かつては平良小学生達の多くが通っていた道である。
中央橋の橋名はかつて平良体育館の地にあった平良村役場に向う橋であったので名付けられたのではなかろうか。現在の橋は架設の橋のように見えて橋名に似合わないような橋である。
以前に廿日市街中の小路に面した銭湯「藤の湯」が唯一営業されていることを紹介したが現在は営業を止められているようである。
大正3年(1914)の廿日市絵地図に廿日市町役場の裏手に「ふろや」と記されているので、100年近くもこの地で営業をされてきたのであるが時代の波には勝てなかったようである。
平良体育館(旧平良小学校体育館)の西側敷地脇に長短の石柱が2本放置されている。
長い石柱には「大正十年一月吉日」と刻されているのみで他の刻銘はみられないが、これらはこの地にあった平良村役場か平良尋常高等小学校の門柱などであったものとみられるが定かなことは不明である。
昨日のいも畑の頂上部から宮島サービスエリア方面を遠望するとSA手前上り線側のアクセス道路の一部が完成している。
これから自動車が走っている側道の拡幅がされ、拡幅に伴って撮影しているいも畑の部分が掘削されて法面となるようである。
上平良さくらの里遊歩道からの遠望で山陽自動車道の速谷高架橋の向う側の山が掘削されており、宮島SAスマートICへのアクセス道路拡幅関連の工事である。
樹木を伐採したところを見ると段々になっているのが見られるがこれは戦時中さつまいも畑にしていた名残りである。当ブログ主はこの場所が畑であったことを記憶しておらず、すでに山林化しつつあったのかもしれない。
上平良さくらの里遊歩道からの遠望で山陽自動車道の速谷高架橋の中央付近のすぐ上には原地区の小学校と保育所の建物がみられ、その斜め上には一景苑団地とその左側は国実、下川末の集落が見られる。
山陽自動車道の下側部分は上平良地区の一区と二区の部分で、赤い車の右側が国道433号線の陽光台北交差点(堂垣内)である。