当ブログ休止中に所用があって小松市に行った途中に曹洞宗大本山永平寺に参詣した。
中世兵火にかかり伽藍が焼失していた永平寺を廿日市洞雲寺開山の金岡用兼らが師の為宗仲心などと共に諸堂、寮舎、叢林の諸施設を復興しているのである。金岡用兼は永平寺復興の功労者で永平寺では毎朝開山以下の歴住と共に回向されているようである。
宮園小学校の校舎壁面に平成5年(1993)卒業記念の「ゴシゴシワニ丸」レリーフが制作設置されている。
当小学校が平成3、4年に文部省虫歯予防推進校に指定されたようで、卒業記念に虫歯予防をテーマにした「ゴシゴシワニ丸」壁画となったものとみられる。
平良小学校の通称平良っ子通りの高い上屋の木造部分の塗装工事のために高い足場が組まれている。
「木のまち廿日市」にふさわしい学校として木材を多用した奇抜なデザインの建物であるが木材が風雨にさらされている部分が多く定期的なメンテナンスは欠かせず維持管理上の課題大のようである。
串戸港で漁業船であろうか沢山の小船が係留されている。かつて干潮時には港が干上がっていたが現在はどうなっているのだろうか。
江戸期の地誌に遠浅で小船が出入りして係留されており、薪や材木類の交易の小船も時々出入りしてようである。
御手洗川に架かる観光道路(国道2号線)の藤掛橋親柱で上流側のものは花崗岩を加工し築造されており時代を感じさせる。
藤掛橋は昭和7年に架橋されておりこの親柱は当時のものとみられ、下流側のものはブロック積みであり最近に築造され直したようで重厚さがみられない。
広電廿日市駅にある旧改札口で、かつて電車が到着する時間に改札口を開いて駅員が切符の検札・回収をしていた。
この改札口は鋼管製のものであるが当ブログ主が子供の頃は開設当時の設計図(下画像)のように木製の改札口であった。
数日前木材港南地区にある広島ガス廿日市工場の桟橋に大きなLNG運搬船が停泊していた。
船名はSURYA SATSUMAとありネットによると船主は商船三井で総トン数20,017t、全長151m、幅28mで、インドネシアからLNGを運搬しているようである。
大ノ木跨線水路橋から大ノ木水路を経て流れる新宮川から用水を取っていた平良地区で最下流域の田んぼであったが今年は作付けされていないようである。
山陽本線より海側で広電廿日市市役所前駅すぐ近くの唯一の田んぼで2~3年前までは稲作をされていたのであったが・・・
昨日紹介した大ノ木跨線水路橋から流れた水は三面石張りの大ノ木水路を経て新宮川に流れている。
山陽本線の電化によって大ノ木跨線水路橋や上流の河川、大ノ木水路が嵩上げされている。鉄道建設に伴って整備された大ノ木跨線水路橋、大ノ木水路などを地域の人は変更川ともいっていたようである。
JR山陽本線の上に架かる歩道陸橋のようであるが歩道の下は河川となっている。
明治時代に山陽鉄道建設のためこの部分が掘割となって、従来の新宮川が遮断されるために水路跨線橋を設けて下流域の水田を潤していた。
JA広島総合病院前にあった隣接したライバル洋服店同士の大看板の片方がなくなっていた。
「最大級の売り場」とすれば片や「業界№1」と闘志むき出しの看板であったが、店舗新築中のようであり今度はどのような看板になるのだろうか。
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廿日市駅北土地区画整理事業は進みつつあるが、これらの道路に接続しているJR山陽本線の大割川橋梁は現状のままのようである。
洞雲寺方面から流れていた大割川は現在暗渠となっており、橋梁下を車で通る時には思わず頭を下げそうになるような低さである。上り線側の橋脚の石積みは明治30年(1897)に山陽鉄道が開通した時に築造されたものである。
陽射しを避けるために植えた朝顔のカーテンが育って多くの花を咲かせている。ゴーヤも間に植えているが朝顔の勢いが強くてゴーヤは小さくなっている。
子供の頃朝顔観察をして花の数など調べたような気がするが、こんなに花があると大変だ。
廿日市市域内の大竹市飛地である後原集落から広島西カントリー倶楽部方面へ向う途中に玖島川からの三の瀬井手の取水口がある。
取水口脇には水不足に陥らないようにと集落内に疫病や病虫害が入ってこないようにと祈祷関札が立てられている。