カンムリワシ、ワシは名ばかり、言うばかり

20年前探せばカンムリワシがいて、10年前そこにはカラスがいて、いま両方ともいません。よって最近ではそれ以外の話題に。

文化大革命と天安門事件

2014年07月29日 05時31分45秒 | アジア

中国の文化大革命〔1966-1976年〕・(第二次)天安門事件〔1989年〕は

いずれも拙速すぎた中国改革から発生した、中国史上最悪ともされる弾圧

だったようです。

今(2014年)でも、中国共産党政権は、これらの事件に触れることを固く禁止し、違反者を容赦なく逮捕・拘束・粛正しているようですから、逆説的に言えば、文革と天安門事件が中国史上最悪の弾圧だったというのは正当な評価なのでしょう。  

とにかく 

文化大革命とは、文化大破壊革命だった 

とは金文学の名言です。 

金 文学(きん ぶんがく 男性、1962年 - )は中国朝鮮族三世、広島県在住の作家、比較文化学、比較文学、文化人類学者。中華人民共和国瀋陽出身。1985年東北師範大学日本文学科卒業、1994年同志社大学修士課程修了、2001年広島大学大学院博士課程修了。現在広島文化学園大学社会情報学部、福山大学人間文化学部人間文化学科講師、放送大学客員教授。中国出身の朝鮮民族であり、日本に帰化している。「日本人」かつ「韓国人」であり、「中国人」でもあるという、自身の立場から3国を比較した論考を多く著している。:Wikipedia 

現代中国の2大汚点〔文化大革命天安門事件〕を隠しながら、海外に向って美しくも不可解な論陣をはる中国には、そんな資格は、まったくないのでした。 

文化大革命とは、文化大破壊革命だった 

いまもさまよう毛沢東の「幽霊」 

毛沢東の思想に対する賛否両論は現在でも舌戦が繰り広げられているが、毛沢東が歴史の巨人であるという事実は何人も否定し難いことである。・・・・ 

ここでわたしが言いたいことは、すなわち毛沢東が起こした文化大革命の遺産、あるいは害毒がいかに根深いかということだ。中国の文化独裁史を語るとき、決して文化大革命を外すことはできない。・・・・ 

1966年に始まり、1976年に終結した文化大革命は、伝統文化と伝統理念を敵視し否定する立場からさまざまな破壊行動を繰り返した。「五・四運動」がそうであったように、文化大革命もその意味は社会変革に先立った人間精神体系の改造、すなわち人間の改造にある。 

前述したように「文化大革命」は毛沢東の革命意識構造の核心であり、とりわけ晩年の毛沢東思想の精髄となった。このような意味において安易に「政治権力闘争」だと規定するのほ正しくない。実際、毛沢東は1966年の文革勃発当時、党の権力者でライバルである劉少奇をほとんど打倒した状況であったから、敢えて大規模な文化運動を展開する必要はなかった。つまり文化大革命発生の根源は、政治権力闘争を超越した深層に求めねばならないのだ。
:金文学著 蜂須賀光彦訳「中国人民に告ぐ!」祥伝社黄金文庫 平成22年(2010年)11月30日第10刷発行

中国共産党は、その存続が危うくなる事件のすべてをなかったことと否定し、証拠を破壊し、人物を平気で虐殺します。 

「もし否定・破壊・虐殺をしなければ収拾できない混乱に陥る」というのが中国社会維持の原則であり、弾圧はやむを得ないとして言論を封殺し続けています。

よく、中国内での教育の問題ではないか、とも言います。

中国伝統の科挙制度があり、教育は熱心だったのではないか、という意味ですが、科挙制度はあくまでも出世の道具に過ぎません。

中国では、社会をどうするべきかとか、国とはどうあるべきか、真理とは何か、などとは無関係の個人主義が極度に発達しており、袖の下文化、談合癒着が基本でして、国の将来などという「まとも」なことを考えると忽ちにして粛正される恐ろしい弾圧の政治が、長年続いてきたのです。

国の方針に関しては中国共産党政府に任せなさい、余計なちょっかいを出すと拘束する、と脅かします。まともな選挙がないので政権交代の心配がなく、ひたすらヤクザの内部抗争のようなものだけが支配するという、共産党一党支配ならではの愚民政策と言えます。 

ぐみんせいさく【愚民政策】 為政者がその権力を保つため、人民を政治的に無知な状態にしておこうとする政策。:goo辞書 

日本に「歴史の直視」を求める中国と韓国ですが、なんとも落語的です(笑)。

中国自身が文化大革命や天安門事件に関して、詳しく報道したり、中国共産党の見解と異なる意見を表明した者を厳しく罰していることそのものが、「中国自身が歴史をゆがめている」典型例

そういう「歴史を直視しない」中国へどんどん傾倒し、日米から徐々に離れつつある韓国には、もはや民主主義風味の国家システムすら、消え去ったようです。

とにかく

相手には強烈に要求するけれども、自分に対する要求は絶対に認めない

なんてぇのは、落語以外ではあり得ない話

このことを、昔の人は、中華の独善と申しておりました。これに朝鮮の独善を追加しましょうか。

こうなったらもう、

ばかにされながらも永遠に独善を続ける中華に幸あれ!

と、祈らずにはまいりません(笑)。もしも、この祈りが通じなければ、つまり「幸」がなければ、自然崩壊するしかないのですが・・・・。 

毛沢東に対して、無数の人がいろいろ述べております。その尻馬に乗るとすれば、私の見解は、次のようになります。 

  • 毛沢東は、あまたある各国建国の父の一人で、「立派な」人だったのかも知れませんが、残念なことに建国後も長く居座ることで、果たせるかな、馬脚をあらわした
  • 農民出身の毛沢東が農民を大切にしたのはいいとして、自分に反対する全ての知識人を文化大革命で粛正・逮捕・処刑し、農民出身者だけで国作りをしようとしたのは正しい中国の伝統。これは、妙な論陣をはる現代の低レベル共産党政権に引き継がれていて、知識人による中国共産党批判を徹底的に排除しております。言い換えれば、言論の自由がないということで、わかりやすく言えば、政府の言う通りにしないとすぐに逮捕・処刑する、という恐怖政治に、引き継がれているのです。
  • 中国には、やがてこの中国共産党政権を全面否定する新しい組織が、これにとって代わることでしょう。そのとき前の政権である中国共産党の匂いがする物や者を全否定・破壊・虐殺しなければならず、きまりきった道筋として中国伝統のはげしい内戦に突入すること必定(ひつじょう)。これが中国4000年の歴史というものでした。つまり前政権を全否定して誕生した政権が登場しますが、やがてこれも全否定されて滅亡し、また新しい政権が前政権を全否定し人民を抑圧するという負の連鎖が4000年も続いたのです。敢えて言えば、左右上下に大きく振れ、人の話は決して受け付けず、独善を突っ走らねばならなかった、これは中国人の生み出した処世術だったとも言えます。そしてこの傾向は、永遠に変わらないのかも知れません。 

なぜ文化大革命が失敗したのか、についての金文学の主張から引用します。

文革は、なぜ失敗したのか 

文化と知識人に対する弾圧と抑圧もまた文化大革命の大きな目的であった。あらゆる知識人は反動的な「臭老九(チョウラオジュウ 九番目の鼻つまみ人間たち)」として蔑視され、知識青年と知識人、文人をすべて農村に下放して労働改造を強制した。 

そのとき『毛沢東語録』を除いた古今東西のありとあらゆる経典と著作は「毒草」や「黒いもの」であり、当然禁止であった。知識人に対する血なまぐさい弾圧と管理については、いくら挙げても切りがないのでここでは割愛する。 

文化大革命のもう一つの特色は、西欧文明の「命脈」を断ち切ったということだ。すなわち西欧文化は物質文明であれ、科学技術であれ、意識構造であれ、ありとあらゆるものすべてが悪いものだからと全面的に拒否をした。世界革命の中心が中国であるから、西洋がいくら優れたふりをしても、見るべきものもない「蟻」一匹のようなものでしかないというのだ。 

伝統文化を破壊し、西洋先進文化を追い返し、知識人と文化の精髄を粉々にしてしまったことで、中国史上前例のない災難がふりかかったのが結果的には文化大革命の姿であった。戦い破壊する闘争哲学、文化修養が欠落した不良たちの野蛮意識と、風にはためく無数のプラカードだけがこの地に呻吟(しんぎん)するばかりであった。 

毛沢東は終始一貫して「文化大革命」と国民性改造・人間性改造に重きをおいてきたが、結局は中国国民の世俗性、つまりレベルが低い国民の反応ゆえに失敗に帰してしまったのだ。まだ文明の程度が低かった中国人、そのうえインテリを余すところなく抑圧した国で「文化大革命」をしたところで、その革命も結局は世俗の波に飲まれてしまうだけではないだろうか? 

:P.130-132 金文学著/蜂須賀光彦訳「中国人民に告ぐ!」祥伝社黄金文庫 平成22年(2010年)11月30日第10刷発行 

現在の中国共産党は、毛沢東の「知識人弾圧・反論者処罰」を正当に引き継いでいます。

中国人が本当の実力を出すには、中国人に言論の自由を保証し、もちろん行き過ぎがあれば法によって処罰する、これしかないでしょう。

袖の下は腐敗した中国共産党一党支配から必然的に生まれたものであり、腐敗・汚職体質は共産党政権が続く限り、どうがんばってもなくならないでしょう。

あまりにもレベルが低すぎると受け取られている中国人ですが

もしも自由な発想で、社会の仕組み・文学芸術・科学技術に取り組ませれば、世界に貢献できる国になることは間違いなく、必然的に中国人のレベルが向上するのです。

わかりやすく言えば、政権を維持するために一党支配でふんぞり返っている共産党為政者があまりにもお粗末。自分より賢い人たちに取って代わられるのではないかと恐れて対策を練るのを、保身(ほしん)といいます(笑)。

中国人よ、袖の下や詐欺行為で出世を目論むのではなく、一生懸命に「まともに」働いて、自分たちの生活レベルを向上させようではありませんか。その第一歩が、中国共産党を解体することなのです(大笑)。

他国の政治体制を批判するなど、通常の政府レベルではなかなか言えないことですが、ブログでは堂々と発言できますね。

中国共産党にも人材はいるはずですから、そういう人たちが改心して、広く国民から人材を募集し、世界の中の中華を考えて国家の運営をする、これしかありません。

世界中の全ての国が中国共産党の指示に従わねばならない、というのはどう見ても時代錯誤の主張ですが、滅亡・崩壊の兆しとなる烽火(のろし)としてみるならば、なかなか有力な情報ですね。

もしも毛沢東が「にせ知識人」を排除しようとしたのなら、それは立派なことです。中国にはうじゃうじゃとそんな人物がいますから。

しかし、ついでに「まともな知識人」も一緒に排除してしまった。その伝統を受け継いだなれの果てが今の中国共産党。

尤も「何がまともか」を問うことは大切で、繰り返しにはなりますが、広く言論を盛んにして為政者に都合が悪くても主張を統制しない、政権を交代させる仕組みが必要、などを訴える人が「まとも」の一例です。 

自分を批判する「まともな知識人」を喜んで受け入れる度量の大きさが、なれの果ての今の為政者たちには、欠けているのでした。  

記憶でしか残っておりませんが、いつか大昔ですが、日本よりも自分の意見をはっきりと表明する人が多い中国のほうがはやく民主国家になるだろうと言った欧米人がいて、私には違和感がありました。

そう発言した人は、こういう事情をほとんど理解していない人だったのでしょう。

最後に 石敢當〔いしがんとう〕 について。

ここ沖縄には石敢當というものが、今でも町の至る所で見られます。

御存知の通り、三叉路のあらゆる所に立っており、魔物はまっすぐに進むので、そこに住んでいる人に迷惑がかからないよう家の前に立て魔物を吸収する、これが石敢當〔いしがんとう〕です。

私は、なぜ魔物は真っ直ぐしか進めないのか、と昔から疑問をもっておりました。 

あるとき地元の沖縄の人に、石敢當についての次のような私の解釈をぶつけててみました。

魔物は真っ直ぐにしか進めない、というのが私が理解できないところ。魔物でない、つまりまともな賢い人は、正しく曲がるということ。

世の中には、「人はこうあるべきだ」「国とはこうあるべきだ」という一見してしっかりした考え、絶対にブレずに、頑固に死守する意見がみられます。

そしてこの「死守するほど頑固な思考形態」そのものが魔物なのではないか。琉球の人たちは、これをなくそうとして昔からあった石敢當に意味づけを追加したのではないか。

三叉路にぶつかったら、現状をよく考えて正しく曲がりなさい、というのが琉球での昔からの教えだったのではないか。

それを聞いた沖縄の人は、特に反応を示しませんでしたが、筋道が通っていて、意味はよくわかる、というのに賛成しておりました。

そうすると、様々な複雑な事情を省略して言いますが・・・・

  • オスプレイ反対
  • 米軍反対
  • これを我々は死守する

というのが、絶対に意見を変えない、つまり曲がらないという沖縄の革新的な意志表明とされますが、実はこれは因循姑息な保守派の「魔物」ではなかったか。

琉球の昔からの教えは、石敢當にもみられるように、「こうあらねばならない」という頑なで絶対にぶれることがない姿勢ではだめだと否定してきたのに、これを活かしていないのではないか。これではまるで、儒教の全てを否定した中国共産党そっくり。

つまり信条はいいとしても、中国の脅威が目前に迫っていても、わけなく中国を好意的にとらえる親中というものが存在していて、いくら中国の影響が強い沖縄といえども、それは1000年以上前の良き時代の中国の影響にちがいなく、現代の中国共産党の言動を直視していない、と思われます。 

いろいろな意見があるもので、私としては反対意見にも耳を傾ける姿勢を貫いて来ましたが、どうやら「私は魔物ではなさそう」です(笑)。

そして自分が一番正しいと常に考え、真っ直ぐに進むことから「中国共産党は魔物」であり、石敢當に吸収される運命にあるでしょう。

中国から沖縄に伝来したはずなのに、もう中国からは石敢當が消え去っているのでしょう。ないからこそ吸収されずに世界中をさまよい歩いてバカにされているのでしょうか。

これはインドから中国経由で入ってきた仏教についても言えます。もちろん仏教の教えの中にも納得できないことがあるものの、仏教さえ否定し、自分のところで生まれた儒教や石敢當さえも否定して、いったいどこへ向おうとしているのか分らない中国。

世界に出る前に、まずは自分を磨きましょうね、中国のみなさま(笑)。