都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「AKARI The Sculpture of Light 展」OZONE 1/15

「AKARI The Sculpture of Light 展」
2005/12/1~2006/1/17
新宿パークタワーのOZONEにて開催中の、イサム・ノグチの「あかり」シリーズ約100点を展示する展覧会です。OZONEの3階から4階へ至る広い吹き抜けの空間に、ノグチの「あかり」が美しく照っています。ちなみに、全ての展示品は商品としても扱われています。お手頃な5000円前後から約9万円近くまで、思わず欲しくなってしまうものばかりです。
会場は「展覧会」と言うよりもむしろ「見本市」のような雰囲気でしたが、「あかりヒストリー」と題する、その制作の変遷を説明する展示もあります。1950年代に「あかり」を手がけ始めたノグチ。当時から今のスタイルに通じる、伝統的な日本提灯をイメージさせた作品を生み出しましたが、一般的に白提灯は葬儀用という使われ方であったため、手描きの抽象模様や「書」を入れて完成させたこともあったそうです。その後は徐々に白提灯が受け入れられ、60年代以降には白い立方体状の形の作品を多く制作します。また1970年代には多様な素材を取り込むことにも挑戦し、今はもう見られないと言う大理石やステンレスを使った作品も作ります。そして80年代が、いわゆる「あかり」シリーズの完成期です。スタンド部分がまるで蜘蛛の足のように細く、暗がりに浮いているような「あかり」。一口に「あかり」と言っても、ここに至るまでに多くのバリエーションがあったことが分かります。
連動企画の「クリエイターによるあかり」も面白い展示です。こちらはデザイナーから画家、それにヴァイオリニストなどの23名の芸術家が、ノグチの「あかり」にペインティングを施すという大胆な内容です。しかも、それらの作品は全て「チャリティーオークション」形式で販売されています。最低入札価格は1万円から。もちろん入札ということなので、落札した場合は購入することとなりますが、これはなかなか思い切った試みです。作品の前を行ったり来たりしながら、どのあかりが良いかと見比べる。私は三点、エマニュエル・ムホー(建築家)と大樋年雄(陶芸家)、それにグエナエル・ニコラ(デザイナー)の作品が気に入りました。さていかがなものでしょうか。
和紙と竹ひごというシンプルな素材を用いながらも、実に様々な表情を見せる「あかり」の世界。和紙から仄かに透き通ってくるかのような温かみのある光は、蛍の明かりのような儚さすら感じさせます。たくさんの「あかり」に囲まれて、ほっと安らぐ気持ちにさせてくれる、そんな小さな小さな展覧会です。明日17日までの開催です。(無料です。)
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「堂本尚郎展」 世田谷美術館 1/8

「堂本尚郎展 -絵画探求60年の足跡とその未来1945~2005- 」
2005/12/17~2006/2/12
世田谷美術館で開催中の、「戦後日本美術をつねに最先端にあって牽引してきた」(パンフレットより。)画家、堂本尚郎(1928-)の回顧展です。初期に手がけた日本画から昨年の最新作まで、その画業の全てを見せてくれる大規模な展覧会です。
堂本は、長いキャリアの中で何度となく作風を変化させていますが、その起点は、伯父の堂本印象の流れを汲んだ日本画にあるようです。和紙に顔料を配した「街」(1953)は、ビルや家々の連なる都市の様子が、どこかシュルレアリスム的で、また東郷青児を思わせる画風を見せながら、幾何学的な面の構成によって描かれています。結局、彼は1955年の(24歳時)パリ留学以降、この日本画の創作に別れを告げることとなりますが、「家」(1954)にも見られる、面をいくつもパズルのように組み合わせた作品群は、この後の創作とつながっているようにも感じました。
パリ時代はひたすらアンフォルメルです。それこそ、先の日本画でも見せた線と面の組み合わせが、まるでエネルギーを持つかのように揺らいで、またぶつかり合います。これらは一見、ザオの作品をもイメージさせますが、そこまでの洗練された表現と高い完成度はなく、むしろ無骨に絵具をそのまま画面へぶつけたような、「非」美的な印象を与えます。私にはこれらの作品が、アンフォルメルに挑みながら敗れた堂本の創作の残照のようにも見えました。あまり魅力的には映りません。
アンフォルメルから抜け出して、一気に美しく、また魅力的になってくるのが、「二元的なアンサンブル」から「連続の溶解」に至る過程の作品群です。全体を通して見ても、この時期の創作が、最も力の漲った、非常に優れたものかと感じました。どれも見応え満点です。
まずは、このコーナーの一番始めに展示されていた「二元的なアンサンブル」(作品番号2-15、1961年)です。アンフォルメル期の作品では、どうしても鈍く、また煩雑に見えてしまった面の表現が、ここでは動から静へと趣を変えて、静謐で美しい場を創出します。屏風画にも見える連なった二枚のキャンバスに、書のように配された、強い意思のこもったような太い線。それがアンフォルメル期にはなかった余白を巻き込んで、画面全体へと広がります。初期の日本画でも見せた面的な表現は、ここに来て俄然巧みに、効果的になって使われていました。
そして素晴らしい「連続の溶解」です。赤をベースにしたキャンバスに、絵具をたっぷりと配した黒い剛胆な面が、一枚一枚、まるで木の塀のように、格子状になって横向きに繰り返されて、画面全体を支配しています。この中では作品番号3-11の「連続の溶解」(1964)が特に魅力的です。画面中央には赤の下地が見え、その左右から黒い絵具の帯が迫り来る。重みのある面がここではさらにゆっくりとした動きをもって、キャンバスに力を与えます。中央に覗く赤は、まるで大地の奥底から噴き出して来たマグマで、それを黒い絵具の大地が被さるようにして閉じているようにも見えます。まさに大地のうごめき、または地殻の変動すら思わせる作品です。さらに、作品番号3-13の「連続の溶解」は、黒の面が赤の下地を介して、今度は閉じるのではなく、逆に太い縄がブチッブチッと切れるかようにして裂けていきます。この動きも圧巻です。
1970年代に入ると、これまでに見られなかった円をモチーフとした作品が多数登場します。70年代の「惑星」から、80年代の「連鎖反応」のシリーズです。「連続の溶解」にあったような、有無を言わさぬ作品の重みや緊張感は徐々に姿を消し、変わって線のシャープな切れ味と、円が折り重なることによって生まれる奥行き感が出現してきます。また色彩も豊富になって、どこかデザイン的な味わいが生まれるのも興味深い点です。
淡い緑を基調とした色彩の中に、S字状の線が多数交錯した「連鎖反応-緑・赤」(1983)は、アクリルを使った透明感のある色と、水面が揺らいでいる様を捉えたような模様がともに美しい作品です。おそらくコンパスによって生み出された円による無数のS字曲線。それが、水の中を漂っているかのようにゆらゆらと描かれて、上へ斜めに横へと動きます。そしてそこへ差し込むのが、まるで水にあたった光の乱反射のような、淡い緑色と朱色の組み合わせです。線と面と色のそれぞれが、多面的に調和して、堅牢な一つの画面を作り上げる。これは今までにはなかった世界です。
あくなき挑戦を続ける堂本尚郎の創作には終わりがありません。2004年以降は、新たに「無意識と意識の間」と呼ばれるシリーズが始まります。白いキャンバスに垂らされた黒い絵具。絵具の染みと飛沫、それに滲みが画面をシンプルに構成して、モノクロの、まるで水墨画か枯山水の庭のような味わいをもたらします。「連続の溶解」の重みを一押しする私にとっては、この画面はあまりにも幽玄過ぎ、また魅力であった堅牢な面の表現がとても脆く見えてしまうのですが、これも堂本の創作世界の最新の在り方として受け止めるほかありません。これらの作品群を、美術館の言うように「深い精神性」の現れと評するべきなのか。とても私には判断がつきませんでした。
一人の芸術家から生まれた、実に幅広い空間表現の面白さ。個展の域を超えたような芸術世界が世田谷美術館に展開されています。「どの時期の、この作品群が良い。」というような、いわゆる「レッテル張り」的な見方は問題があるかもしれませんが、見ているうちに惹かれていたり、またそうでなかったりする自分に気がつきます。来月12日までの開催です。
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ダフィット・テニールス 「聖アントニウスの誘惑」 国立西洋美術館より

常設展示 本館2階
「ダフィット・テニールス(子) -聖アントニウスの誘惑- 」
西洋美術館の常設展示室に飾られている、ダフィット・テニールス(1610-1690)の「聖アントニウスの誘惑」です。これまではあまり興味深く見たことがない作品だったのですが、先日常設展へ出向いた際、いつの間にかそのコミカルな画面に引かれている自分に気がつきました。どうやら、何度となく出会ううちに、気付かぬまま好きになる作品があるようです。
砂漠で隠修士として苦行生活を送る聖人アントニウスが、悪魔の様々な誘惑を受けていく。「修道士の父」としても有名なアントニウスのこの主題は、テニールス以外にも、ボシュやダリなどの多くの画家によって取り上げられています。また、音楽でも、ヒンデミットの「画家マチス」から第三楽章、「聖アントニウスの誘惑」が有名なところです。
この作品が魅力的なのは、お馴染みの「誘惑」の主題を、実にコミカルに、アニメーション的とも言える描写で可愛らしく見せてくれることです。画面左上にて浮いている二匹の悪魔。質感にも優れて、まるでそこから飛び出してきそうなほどの立体感をもっています。また、白いドレスに身を纏って、まさにアントニウスを「誘惑」しようとする美しい女性も必見です。黒い杯を持って、アントニウスに一歩一歩近づいていく。しかし彼女の足を見れば一目瞭然、実は悪魔であることが分かります。その他奇怪な動物に乗る悪魔や、一騒動を起こさんと企んでいるような、大勢のまるで小人のような悪魔まで、どれもが生き生きと描かれています。邪険さが全くありません。この、あまりにも愉し気な雰囲気は、まるでアントニウスがこれらを悪魔を飼っていて、実は一緒に仲良く生活しているとさえ思わせるほどです。
17世紀のフランドル派を代表するテニールス。多様な主題を手広く描いたということで、他にもこの時代に特徴的な「画廊画」なども残しているそうです。
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「後藤純男展」 三越日本橋本店ギャラリー 1/8

「後藤純男展」
2005/12/27~2006/1/15
日本橋三越にて開催中の、「今日の日本画壇を代表する画家」(三越より。)という後藤純男氏の個展です。展示作品は約50点。どれも日本や中国の名勝が雄大に描かれた、まさに日本画の王道と言えるような作品ばかりでした。
私が一番感銘したのは、「百済観音」(1990)です。悠久の時の重みを伝える観音様が一体、ただあるがままに、静かに立っている姿が描かれています。その顔の表情は実に穏やかで、一抹の憂いもなく、見る者を優しく包み込むかのようです。また、観音様の背景も、おそらく寺院の暗がりを表現しているのかと思われますが、金箔が観音様の後光のように美しく照っていて、あたかも今、観音様が彼岸の場から出現して来たような気配すら漂わします。これは見事です。
さて、展示作品の殆どは、この「百済観音」を除けば、大自然の景色などが半ば写実的に描写されているものが多いのですが、氏の作品において特徴的なのは、奥村土牛を思わせるようなたっぷりとした瑞々しい顔料の質感と、全体の青みがかった配色が、場の空気感を巧みに伝えてくれることです。特に寒々とした光景から、冷気を引き出すことには長けていて、冬景色を描いた作品は大変に魅力的に映ります。横3メートル、縦1メートルはあろうかと思われる長大な画面の「知床早春」(1996)は、凍り付いた険しい知床の山々と、そこに打ち寄せる流氷の姿が、まもなく訪れるであろう春を予感させながら見せてくれる作品です。全く生気のない凍った木々を前景にして、光を表現する金地に映えた氷の海や山々を、奥行き感を持って表現する。この奥行き感と景色の広がりは、例えば「天山南路キジル塩水渓谷」(2005)などでも同様に見られて、それがまた氏の魅力の一つとなっていますが、それらはどれも、まるで景色に取り込まれてしまうような臨場感すら持ち合わせています。
会場の初めの方に展示されていた、冬山を描いた「寒冷譜」(1971)も興味深い作品です。半ば抽象的な雪山の岩肌と木々が交錯する、どこかキュビズムを思わせるような画面構成と、白や青などの絵具の味わいによる寒々しい雰囲気。これに限っては、他の作品に見られたような奥行き感はなく、むしろ山がこちら側に迫出してくるような圧迫感すら感じさせますが、岩肌や木々と象る線が、これまた他では見られないような躍動感を持っていて、まるで画面全体をシャープに切り刻んで解体するかのように描かれています。
国内では久々の本格的な展覧会とのことです。15日までの開催です。
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「ルオーと音楽」 松下電工汐留ミュージアム 1/8

「ルオーと音楽 -悪の華/回想録- 」
2005/12/17~2006/1/29
汐留の松下電工ミュージアムにて開催中の、「ルオーと音楽」展です。展示作品は、同ミュージアムのルオーコレクションから出された約数十点の油彩や版画などですが、その内容は、タイトルの「ルオーと音楽」よりも、むしろ副題の「悪の華/回想録」の方が適切に表します。やや誤解を与えそうなタイトルです。
ルオーと音楽の直接的な関係については、キャプション等で簡単に説明されていました。ルオーに芸術一般を教授したというルオーの祖父アレクサンドル、そしてピアノのニス塗り職人であったという父、さらにはピアノ教師としてルオーにもピアノを教えたというその妻マルト、そして楽器の嗜みこそなけれども、創作の際にはいつもバッハやモーツァルトを聞いていたというルオー自身。また会場では、ルオーの版画が表紙等に印刷された、当時の世俗歌の楽譜が数点展示されています。(その楽譜から起こしたという歌も、スピーカーより流されていました。)ただ、この他には、ルオーと音楽の関係を示すものはあまりありません。強いて言えば、ルオーが挿絵集を手がけたボードレールの「悪の華」が、「詩の音楽的特質を捉えたもの」という説明がなされている程度です。ルオーと音楽との繋がりについての展示には、やや物足りなさを感じます。
展示の後半にあたる「回想録」シリーズと、ボードレールの「悪の華」の挿絵集が、この展覧会のハイライトでした。「回想録」では、ルオーが手がけたボードレールの肖像画、その名もズバリ「ボードレール」(1926)が一番見応えがあります。少し前屈みとなって、やや憂鬱そうに見つめるボードレール。彼の写真と並べて展示されていますが、版画においてもその雰囲気が巧みに伝わっていることが分かります。顔の部分の、立体的に陰影の付けられた表現も見事でした。
「悪の華」では、パンフレット表紙でも紹介されている「骸骨」(1926)が特に魅力的に見えます。ルオーの版画はどちらかと言うと、生き生きとした表現で人物を捉えた作品よりも、その人となりを静かに、重々しく、しかし優しく伝えてくるものの方が、私にとってはより感動的(まさに「ボードレール」のように。)なのですが、この作品の滑稽さは、それに負けないほどの魅力がありました。骸骨がそれはもう嬉しそうに、ピョンピョンと飛び跳ねているかのような様子。もちろん表情も生き生きとして、人間をあざ笑うかのようにこちらを見ています。版画では一押しの作品です。
版画集では、「ユビュ爺の再生」シリーズも興味深い作品です。アレフレッド・ジャリ(1873-1907)原作の「ユビュ」は、植民地支配下の苦しい黒人生活と「搾取」に励む白人の対比という、社会的テーマを含んだ作品とのことですが、ルオーの描く黒人たちの姿は、それこそ「骸骨」に繋がるかように、どれも生気に満ちあふれて描かれています。アニメーション的な動きを思わせるほど躍動感に満ちた、「バンブーラの踊り」(1928)や「解放された黒人」(1928)などに惹かれました。
油彩画では、お馴染みのサーカスのシリーズなど、前回見た「ルオーと白樺派」の展示と重なる作品も多く並んでいましたが、一目見ただけではルオーとは分からないような、初期の作品の「ゲッセマニ」(1892年)には驚かされました。これは、国立美術学校時代の作品とのことですが、ルネサンスを思わせるような画風や、師のモローを連想させるタッチが面白く、また独特な油彩の厚塗りも見られません。主題こそ、後のルオーの関心の所在を示すようですが、この味わいは新鮮でした。
15日にはレクチャーコンサート等も予定されているそうです。今月29日までの開催です。
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モーツァルトの頭蓋骨は偽物?!

18世紀の天才音楽家モーツァルト(1756-91年)のものとされる頭蓋(ずがい)骨が本物かどうか調べていたオーストリアの法医学者は、親族のものとされる遺骨と遺伝子情報に関連性はなく、頭蓋骨がモーツァルトのものであると証明できなかったと説明した。国営オーストリア放送が8日放映したドキュメンタリー番組で語った。
メモリアルイヤーならではの話題でしょうか。以前から報道されていたモーツァルトの「頭蓋骨論争」(リンク先の記事に引用されているモーツァルトの肖像画も、これまた真贋論争のある作品です。)に、一応の決着がなされたようです。そもそも共同墓地に葬られたモーツァルトの頭蓋骨を「これだ!」(後に墓を掘り返した際、モーツァルトと特定されたということですが。)として鑑定すること自体、何かあまり学術的でない、何やら賭けのような気もしますが、この度、ザルツブルクの法医学者によって「正しく」鑑定されたとのことです。ちなみにこの学者は、「ますます謎が深まった。」と述べていますが、元々にわかに信じ難い話でもあるので、夢を楽しませてくれたというぐらいに思っておきましょう。詳細は不明なので何とも言いようがありませんが、今後の展開に、過度な期待は禁物かもしれません。
*ウィキペディアのモーツァルトの項には、この頭蓋骨の真贋論争の経緯が、比較的詳細に説明されています。
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「永遠なる薔薇」 ハウスオブシセイドウ 1/8

「永遠なる薔薇 石内都の写真と共に」展
2005/12/7-2006/1/29
「ハウスオブシセイドウ」にて開催中の、バラをテーマとした、石内都氏の写真展です。「ローズルージュ パルファム」という香水が馨しく漂う会場にて、バラを接写した作品がいくつも並びます。
私としては、バラ(特に赤)は魔性的であまり好きになれないのですが、石内氏の手にかかったバラは、さらに艶やかに、そして脆さを少し感じさせながら、あまりにも妖しく光ります。彼女の捉えたバラは、おおたさんのブログによれば「劣化していく段階を撮影している」とのことですが、確かにどのバラにも瑞々しさがなく、幾分グロテスクにも見えてくる花びらの厚みと、ドギツく映える紅色が、退廃的に、そして爛れるように写っています。また、本来ならエネルギーとなるはずの、バラに降り掛かった水滴も、この作品では、まるで油虫がバラにたかって、その養分を吸い取ってしまっているかのように見えてきます。空恐ろしく感じられるような、また女性の老いすら思わせるバラの終焉が示されている。まさに、私が苦手とするバラの、最も見たくない、醜悪とも言える部分が表現されていました。
バラの花言葉は愛とも恋とも美とも称されますが、一見華やかに見えるそれらの裏に潜むドロドロとした官能性を、写真にて表現した石内氏の才能は、見事としか言い様がありません。血みどろの「薔薇戦争」を思い起こさせるようなバラたちが、銀座の真ん中にある美の殿堂「シセイドウ」にて並ぶこと。何やら意味深な展覧会でもありました。
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「life/art'05 part2 田中信行」 資生堂ギャラリー 1/8
資生堂ギャラリー(中央区銀座8-8-3)
「life/art'05 part2 田中信行」
1/5~22
資生堂ギャラリーの「life/art'05」シリーズ第2弾は、漆をプレート状にした作品が興味深い、田中信行氏の展覧会です。
まず目につく作品は、漆のプレートが、床にペタッとくっ付いているかのように置かれた「the primal scene」(2005)です。厚さ5ミリほどの漆が、いくつかの凹みを見せながら、数メートルに渡ってうねうねと靡いている。表面はあまり丹念に処理されておらず、むしろ細かいキズをそのままさらけ出しています。それがどこか不気味な味わいをもたらすのでしょうか、まるで食虫植物の花がいくつも口を開けているように見えてきます。漆の美感の排除した、まるでゴムのような質感も興味深いところです。
もう一点、その横に配されているのは、真っ赤な花型の作品「触生の記憶 No.7」(2004-2005)でした。こちらはもっと艶やかに、大輪の花が生き生きと咲いているような雰囲気で、漆の質感も美しく伝わってきます。表面のキズもなく、漆を丁寧に磨いた際に生まれる、眩い輝きも持ち合わせていました。
奥の展示室にあった「Inter side-Outer side」(2005)が、この展覧会では最も美しい作品です。薄く延ばされた漆が、まるでカーテンのように、高さ約2メートルほどにまで立っている。それがちょうど半円を描いて、中にスッポリ人がおさまる仕掛けとなっています。中へ入ると、漆がミラーの役割を果たして、写り込む奇妙な紋様をいくつも見せてくれますが、外から人が入っている様子を眺るのも一興です。まるで人が漆のコートに包まれているようにも見えてきます。緩やかな曲線を描いた漆のコート。プレートと言うよりも、シートと言うべき柔らかさを感じさせながら佇んでいました。
少し物足りなさも感じましたが、漆の彫刻が空間を幾分変化させます。また、会場にはpart1にもあった白い造花の作品が残っています。これは心憎い演出です。(公式HPによれば、part5を手がける須田氏のものだそうです。)
*「part1 今村源」の感想はこちらへ。
「life/art'05 part2 田中信行」
1/5~22
資生堂ギャラリーの「life/art'05」シリーズ第2弾は、漆をプレート状にした作品が興味深い、田中信行氏の展覧会です。
まず目につく作品は、漆のプレートが、床にペタッとくっ付いているかのように置かれた「the primal scene」(2005)です。厚さ5ミリほどの漆が、いくつかの凹みを見せながら、数メートルに渡ってうねうねと靡いている。表面はあまり丹念に処理されておらず、むしろ細かいキズをそのままさらけ出しています。それがどこか不気味な味わいをもたらすのでしょうか、まるで食虫植物の花がいくつも口を開けているように見えてきます。漆の美感の排除した、まるでゴムのような質感も興味深いところです。
もう一点、その横に配されているのは、真っ赤な花型の作品「触生の記憶 No.7」(2004-2005)でした。こちらはもっと艶やかに、大輪の花が生き生きと咲いているような雰囲気で、漆の質感も美しく伝わってきます。表面のキズもなく、漆を丁寧に磨いた際に生まれる、眩い輝きも持ち合わせていました。
奥の展示室にあった「Inter side-Outer side」(2005)が、この展覧会では最も美しい作品です。薄く延ばされた漆が、まるでカーテンのように、高さ約2メートルほどにまで立っている。それがちょうど半円を描いて、中にスッポリ人がおさまる仕掛けとなっています。中へ入ると、漆がミラーの役割を果たして、写り込む奇妙な紋様をいくつも見せてくれますが、外から人が入っている様子を眺るのも一興です。まるで人が漆のコートに包まれているようにも見えてきます。緩やかな曲線を描いた漆のコート。プレートと言うよりも、シートと言うべき柔らかさを感じさせながら佇んでいました。
少し物足りなさも感じましたが、漆の彫刻が空間を幾分変化させます。また、会場にはpart1にもあった白い造花の作品が残っています。これは心憎い演出です。(公式HPによれば、part5を手がける須田氏のものだそうです。)
*「part1 今村源」の感想はこちらへ。
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「風と共に去りぬ」 ル テアトル銀座 1/7
2006-01-08 / 映画

「風と共に去りぬ」
(1939年/アメリカ/ヴィクター・フレミング監督)
映画史上不朽の名作とも呼ばれる「風と共に去りぬ」。そのデジタル・ニューマスター版が今、「ル テアトル銀座」にて公開されています。休憩を挟んで全4時間弱。重厚長大な大河、あるいはメロドラマにどっぷり浸かってきました。
あまりにも有名でかつ、語り尽くされた作品でもあるので、今更私がどうこう言うまでもありませんが、「タラのテーマ」を初めとしたプッチーニ風の甘美でゴージャスな調べにのる、愛に支配されたスカーレットの生き様。時にディケンズ風の冒険劇を交えた、アメリカ南北戦争を舞台とする大河ドラマの壮大さと、まるで「アンナ・カレーニナ」のようなあまりにも哀れな女性の悲劇。メロドラマが限りなく大きく脚色され、ニューマスターによって驚くほど鮮明となった南部の美しい映像と合わさります。これほどにダイナミックなメロドラマもありません。
スカーレットはあまりにも愛に生き過ぎ、また愛にすがり過ぎました。だからこそわがままで、まるでじゃじゃ馬のように振る舞って、ともかく愛を求めるのでしょう。アシュリーに抱いていた愛は、メラニーの死によって初めて幻想だと分かった。この映画で最も美しいシーンは、まるでマグダラのマリアのように描かれたメラニーの死です。スカーレットのアンチテーゼとしても描かれた彼女は、死ぬことによって、ようやくスカーレットに真の愛の姿を示します。しかしそれに気付いたスカーレットはもう遅かった。バトラーは最後までスカーレットを愛していたからこそ、彼女に試練を与えるかのように、自立を促します。スカーレットは、全ての源であるタラへ舞い戻って、本当の愛を獲得するための生活を始める。彼女の強い生への執念は、ようやくここで真の愛と交わるのかもしれません。
劇中でのスカーレットのわがままぶりには半ば呆れ果ててしまいますが、見終わってしばらく経ち、彼女の心の弱い部分に気がつくと、バトラーの彼女への想いが、メラニーの天使的な愛を上回るほどの、大きな慈愛に繋がっていたように見えてきます。アシュレーこそ全く軽薄です。(個人的にはかなり好きなキャラですが…。)彼女はスカーレットに何も示せなかった。しかしバトラーは違う。いくら成金的で、娼婦を囲った生活を送っていたとしても(むしろだからこそ。)愛の意味を知っていた。常にアイロニー的な人物描写が鼻につきますが、それは彼の人物の大きさを示さないための隠れ蓑だったのかもしれません。激しい情熱を見せながら、愛を妄信し過ぎたためにあまりにも哀れだったスカーレットと、軽佻浮薄で哀れなはずでありながらも、実は激しく真に人を愛すことを知っていたバトラー。最後になってようやく惨めさに気付いたスカーレットが、バトラーへの愛に目覚めたのも当然です。
南部の生活や、黒人奴隷の描かれ方などは、やや時代を感じさせるものもありましたが、4時間という上映時間の長さを感じさせない、濃密な愛の物語を楽しませてくれました。テアトル銀座では今月31日までの上映です。
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「杉本博司 時間の終わり」 森美術館 12/31

「杉本博司 時間の終わり」
9/17~1/9
ため息が出るほどの美しさ。撮る者の息遣いも被写体の存在感も忘れさせるような写真が、イデア的な美を思わせる世界を体現します。もはや写真展の次元を通り越した、極限の美のインスタレーションです。
彼の作品の最大の魅力は、何ら感傷的でない無機質な素材から、非常に純度の高い「美そのもの」を体現させることにあります。「虚像から実像へ。」彼は自作の写真をこのようにも表現していますが、私にはこの虚像と実像をあまり区別出来ません。ジオラマの虚像や蝋人形の不気味なリアリティーは、彼の写真を経由しても決して生きた実像にはならずに、むしろまるで死人の顔のような、半ば背筋の凍る冷たい感触の美しさへと変換されます。「シロクマ」にも「ヘンリー8世」にもドラマはない。あるのは、ただ、静謐な光の中に包まれて、穏やかに煌めく作品そのものの美だけです。それを、洗練された丹念な職人芸によって、しかも最高の会場構成を伴って見せつける。「音楽のレッスン」は、杉本がまさにフェルメールのごとく、至高の美の「時」を、その終焉を僅かに予感させながら、精巧にフレームへ収められることを示しています。
そうした意味で、彼の最も優れた作品群は、「海景」や数理モデルを写した「観念の形」だと思いました。太古の海をイメージさせたという「海景」シリーズ。ここでは「カリブ海」や「北大西洋」などのタイトルは、殆ど無意味になってかき消されます。上下二分割されたモノクロの画面。海のうねりと空のまどろみが、何ら意味を持つことなく、直線上でただ触れ合う。空からは光が眩く降りて来て、海はそれに反応するかのように輝いています。この海にはまだ生物が誕生していない。会場でのサウンド・アートは、これから生まれるであろう生命の息吹の予兆のようにも聴こえます。大地を押し付けようとする海の重みがジワリジワリと伝わってくる。思わず画面に引き込まれそうになりますが、最後は不思議と撥ね付けられます。それは、この海がまだ生命の誕生以前の、それこそ「海」と名付けられる前にあった場所だからなのかもしれません。見たこともないような、また見ることもできないような海。海であるはずの海。しかし美しい。これ以上の言葉は不要です。
「観念の形」シリーズは、「大ガラス」の花嫁に呼応するのでしょうか。女性を思わせるような、柔らかな曲線美を描いてポーズをとる、それこそ「モデル」たち。エロティックな部分は全くなく、こちらも素材感を美しく感じさせながら、実に静かに見せてきます。このモデルの形は、どれも数式によって生み出されたものです。感性に訴えないはずのものに宿った美的な要素。まさに数学的美がここに表現されていました。円錐形の回転面を表した「数学的形体 曲面0009」の天辺には、空間を切り裂く力すら与えられています。光のカーテンがモデルの表面のキズ跡を優しくなぞる。これほど控えめでありながらも、重要な意味を持ってくる光の表現もないでしょう。「劇場」シリーズにおける、スクリーン上の白い光とも重なって見えてきます。杉本の作品の主役は光です。
会場では殆ど唯一のカラー写真である「影の光」も、壁の白と影の黒というモノクロ的な対立項を基盤としながら、まさしく数学的美のような、空間における線や面の美しさで楽しませてくれる作品です。白は、まるでキャンバス上に置かれた油彩絵具のようにも見えてきますが、それはあくまでも無機質極まりない世界で、素直に形体の美を伝えてきます。また、水墨画的な味わいとも言える「松林図」も、松とその場の気配や質感は消失しています。ここでもやはり実像と虚像を乗り越えてしまった、もはや彼岸的とも言える場が、形体の美だけを伴って表現されています。「影の光」に、そのモデルとなった部屋の気配を、また「松林図」に、皇居前広場の雰囲気を求めることは出来ません。むしろ求められないからこそ美しいのです。
杉本の作品は、これまでも何度となく、特に「海景」シリーズを見てきましたが、作品を効果的に見せることに拘ったこの展覧会において、初めてその偉大さと美感を受け止めることが出来ました。昨年見た、いわゆる現代美術の展覧会ではベストに挙げたい内容ですが、これまでにこの美術館で開催された展覧会でも最上かと思います。会期末が迫っていますが、是非おすすめしたいです。
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1月の予定と12月の記録 2006
1月の予定
展覧会
「ゲルハルト・リヒター展」 川村記念美術館(1/22まで)
「日本の四季 -雪月花- 」 山種美術館(1/22まで)
「ルオーと音楽」 松下電工汐留ミュージアム(1/29まで)
「初もうで展 犬と吉祥の美術」 東京国立博物館(1/29まで)
「堂本尚郎展」 世田谷美術館(2/12まで)
「スイス現代美術展」 千葉市美術館(2/26まで)
「須田国太郎展」 東京国立近代美術館(1/13~3/5まで)
コンサート
「新国立劇場2005/2006シーズン」 モーツァルト「魔笛」(1/21~29)
映画
「風と共に去りぬ」 テアトル銀座(1/31まで)
12月の記録 (リンクは私の感想です。)
展覧会
3日 「三井家伝世の名宝 後期展示」 三井記念美術館
4日 「ミラノ展/江戸絵画の楽しみ」 千葉市美術館
10日 「キアロスクーロ展」 国立西洋美術館
10日 「元木孝美展」 トーキョーワンダーサイト
10日 「吉村順三建築展」 東京藝術大学美術館
17日 「スコットランド国立美術館展」 Bunkamuraザ・ミュージアム
17日 「ドイツ写真の現在展/サンダー展/横山大観『生々流転』後半部分」 東京国立近代美術館
25日 「バルケンホール展/相笠昌義展」 東京オペラシティアートギャラリー
25日 「アート&テクノロジーの過去と未来」 ICC
31日 「杉本博司展 時間の終わり」 森美術館
ギャラリー
8日 「野村和弘 ライオン」 タグチファインアート
8日 「フィリップ・ペロ展」 小山登美夫ギャラリー
8日 「Tim Lokiec・仙谷朋子・多田友充」 ZENSHI
8日 「丸山直文 『朝と夜の間』」 シュウゴアーツ
10日 「アニッシュ・カプーア展」 SCAI
22日 「life/art'05 part1 今村源」 資生堂ギャラリー
22日 「牛島達治展」 APS
コンサート
3日 「新国立劇場2005/2006シーズン」 オッフェンバック「ホフマン物語」/阪哲朗
15日 「読売日本交響楽団第444回定期演奏会」 ブルックナー「交響曲第6番」他/スクロヴァチェフスキ
既に見終わった展覧会もありますが、今月私が行く予定の展覧会、またはコンサートを挙げてみました。今月の目玉は、もちろん川村記念美術館でのリヒター展です。かなり前から気になっていた展覧会でしたが、千葉市美術館の現代美術展との連動企画(相互の美術館へのシャトルバス)を待って、ようやく行くことが叶います。また、先日、偶然に南天子画廊で作品を拝見した、堂本尚郎の個展も期待したいです。
映画は鑑賞会参加での「風と共に去りぬ」を予定しています。私は、この名画のあらすじすら知らない不届きものではありますが、これを機会に触れてみるつもりです。コンサートはとりあえず新国の魔笛を予定しました。本当は「セルセ」の方が気になりますが、チケットが少し無理のようなので、モーツァルトイヤーにちなんで(?)聴いてきます。他にも、在京オーケストラ定期にいくつか気になる公演がありますが、都合がつけばと言うことで予定には入れませんでした。
12月はもう「杉本博司展」がベストです。私の拙い「ベスト10」でも、2位に取り上げました。これは、出来ればもう一度見て来たいとも思います。ギャラリーでは、SCAIのカプーア展が印象的でした。美術館規模クラスの回顧展を見たいと思わせるほどです。ミラーの美しさが忘れられません。(ギャラリーはもちろん今月もいくつか廻る予定です。)
それでは今月もどうぞよろしくお願い致します。
展覧会
「ゲルハルト・リヒター展」 川村記念美術館(1/22まで)
「日本の四季 -雪月花- 」 山種美術館(1/22まで)
「ルオーと音楽」 松下電工汐留ミュージアム(1/29まで)
「初もうで展 犬と吉祥の美術」 東京国立博物館(1/29まで)
「堂本尚郎展」 世田谷美術館(2/12まで)
「スイス現代美術展」 千葉市美術館(2/26まで)
「須田国太郎展」 東京国立近代美術館(1/13~3/5まで)
コンサート
「新国立劇場2005/2006シーズン」 モーツァルト「魔笛」(1/21~29)
映画
「風と共に去りぬ」 テアトル銀座(1/31まで)
12月の記録 (リンクは私の感想です。)
展覧会
3日 「三井家伝世の名宝 後期展示」 三井記念美術館
4日 「ミラノ展/江戸絵画の楽しみ」 千葉市美術館
10日 「キアロスクーロ展」 国立西洋美術館
10日 「元木孝美展」 トーキョーワンダーサイト
10日 「吉村順三建築展」 東京藝術大学美術館
17日 「スコットランド国立美術館展」 Bunkamuraザ・ミュージアム
17日 「ドイツ写真の現在展/サンダー展/横山大観『生々流転』後半部分」 東京国立近代美術館
25日 「バルケンホール展/相笠昌義展」 東京オペラシティアートギャラリー
25日 「アート&テクノロジーの過去と未来」 ICC
31日 「杉本博司展 時間の終わり」 森美術館
ギャラリー
8日 「野村和弘 ライオン」 タグチファインアート
8日 「フィリップ・ペロ展」 小山登美夫ギャラリー
8日 「Tim Lokiec・仙谷朋子・多田友充」 ZENSHI
8日 「丸山直文 『朝と夜の間』」 シュウゴアーツ
10日 「アニッシュ・カプーア展」 SCAI
22日 「life/art'05 part1 今村源」 資生堂ギャラリー
22日 「牛島達治展」 APS
コンサート
3日 「新国立劇場2005/2006シーズン」 オッフェンバック「ホフマン物語」/阪哲朗
15日 「読売日本交響楽団第444回定期演奏会」 ブルックナー「交響曲第6番」他/スクロヴァチェフスキ
既に見終わった展覧会もありますが、今月私が行く予定の展覧会、またはコンサートを挙げてみました。今月の目玉は、もちろん川村記念美術館でのリヒター展です。かなり前から気になっていた展覧会でしたが、千葉市美術館の現代美術展との連動企画(相互の美術館へのシャトルバス)を待って、ようやく行くことが叶います。また、先日、偶然に南天子画廊で作品を拝見した、堂本尚郎の個展も期待したいです。
映画は鑑賞会参加での「風と共に去りぬ」を予定しています。私は、この名画のあらすじすら知らない不届きものではありますが、これを機会に触れてみるつもりです。コンサートはとりあえず新国の魔笛を予定しました。本当は「セルセ」の方が気になりますが、チケットが少し無理のようなので、モーツァルトイヤーにちなんで(?)聴いてきます。他にも、在京オーケストラ定期にいくつか気になる公演がありますが、都合がつけばと言うことで予定には入れませんでした。
12月はもう「杉本博司展」がベストです。私の拙い「ベスト10」でも、2位に取り上げました。これは、出来ればもう一度見て来たいとも思います。ギャラリーでは、SCAIのカプーア展が印象的でした。美術館規模クラスの回顧展を見たいと思わせるほどです。ミラーの美しさが忘れられません。(ギャラリーはもちろん今月もいくつか廻る予定です。)
それでは今月もどうぞよろしくお願い致します。
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「博物館に初もうで」 東京国立博物館 1/2

「博物館に初もうで 新春特別展示『犬と吉祥の美術』」
1/2~1/29
東京国立博物館の通称(?)「初もうで展」では今、新春特別展示の「犬と吉祥の美術」が開催されています。出品作品は、戌年やお正月にちなんだ埴輪や絵画、工芸など、計51点(作品リストはこちらへ。)です。またこの日(1/2)は、「美術館・博物館へ行こう」という企画により、何と観覧無料でした。あいにくの天候ながらも、会場では美しい生け花が並んだり、獅子舞の演舞があったりと、お正月ムード満点です。なかなか賑わっていました。
私が最も期待して行った作品は、もちろんお馴染みの伊藤若冲から、「松樹・梅花・孤鶴図」です。ピンと伸びた細い足に、一筆で処理したような丸い胴体、そして横を向く嘴の尖った小さな頭。アニメーション的とも言える表現の鶴が、一羽、松や梅に囲まれて立っています。鶴は、ちょうど作品の奥に向かって屈み込んで、ヒョイと頭を横へ上げたのでしょうか。体つきは半ばデフォルメされたかの如く滑稽に見え、リアリティーはありません。また、「ゲジゲジのよう。」と、キャプションではかなり失礼な(?)言葉で説明されていた松葉は、一つ一つがまるで鳥のように羽ばたいて、(特に上の方の葉は、今にも飛び上がりそうなほどです。こうもりにも見えます。)ササッと、筆の跡を残しながら、動きを見せて描かれています。そして、そのような鶴や松の伸びやかな表情と対照的なのは梅の花です。こちらは比較的丹念に、カクカクとした輪郭線にて、画面にへばりつくかのように描かれます。決して目立った表現ではないものの、全体としてはどことなく荒々しい印象の作品に、良いアクセントをもたらしているようにも思いました。(ちなみに、常設展示での若冲の「鶴図」は絶品です。また後日記事にしたいと思います。)
会場にて最も人だかりが出来ていたのは、ムクムクとした可愛い子犬が戯れている、円山応挙の「朝顔狗子図杉戸」です。まさしく杉戸に直接描かれた朝顔と子犬たち。白い子犬と茶色の子犬は皆じゃれって、すっかり寛いだ様子を見せています。また、朝顔の青みが、思いの外美しく発色していました。犬の可愛らしさに負けない存在感です。
入口すぐ横に展示されていた、後漢の時代の「緑釉犬」にも目が引かれました。すぐに犬かどうか判別が付かないほどに、大きな四角い頭を持つ犬の置物(?)。犬はおそらく番犬とのことでしたが、表情は確かに獰猛で、開けた口からは、牙のような鋭い歯も見えます。短く丸まった尾と、クルッと下を向いた耳が可愛いのはご愛嬌ですが、その形の異様さに惹かれる作品でした。
今年初めてこの「初もうで展」へ行きました。特別展示のボリュームこそ決して大きくはないものの、圧倒的な常設展示も同時に(しかも無料で!)見られるとのことで、正月早々から、美術三昧の充実した一時を過ごすことが出来ます。既に新春イベント(獅子舞など。)の殆どは終了していますが、特別展示は29日までの開催とのことです。
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2006年の七福神巡りは今年も深川へ
2日に行ってくるつもりだったのですが、あまりにも天気が悪かったものでパスしてしまい(その代り東博の初詣展へ行ってきました。)、今日(3日)、昨年と同様に深川の七福神を巡ってきました。今年は谷中の方へとも思っていましたが、結局、全く芸もなく、いつもと同じ場所です。
昨年と殆ど同じの拙い記事と写真で恐縮ですが、深川七福神は、ゆっくりと歩いて全部で約一時間半から二時間程度と、長過ぎず短すぎずの程よい散歩コースで楽しめます。今日は関東の冬らしい、冷たい北風の吹く底抜けの晴天と言うことで、最高の七福神日和(?)となりました。

*冬木弁財天堂。深川七福神ではここの雰囲気が一番好きです。
人出は、例年とほぼ同じか、やや多めと言ったところでしょうか。元日と昨日があいにくの天候だったので、正月休みの最終日となる今日、人が一気に繰り出したのかもしれません。
富岡八幡宮の中の恵比寿様を起点に、冬木、三好(現美のある所です。)、清澄(ギャラリービルもすぐ近くです。)を経由して、森下方面と抜けていきます。途中には、間宮林蔵の墓や阿茶の局の墓も点在し、また、深川江戸資料館通りではみやげ物を売っていたりして、江戸情緒なども少し味わえます。そう言えば清澄庭園もオープンしていました。二、三度園内へと入ったことがありますが、借景はともかくも美しく、なかなかのんびりと出来る場所です。(今日は時間の都合で素通りです。)

*心行寺にて。冬の晴天。この青に吸い込まれそうになります。
最近は三が日もデパートやスーパーなどが営業しています。そのせいか、この時期最も人気のない東京も、あまり正月らしい雰囲気となってくれないのですが、それでもやはりのんびりとしています。この正月の東京の静けさは、未だ魅力的です。
それでは、明日からは、東博初詣展や昨年の杉本展の感想、さらには「予定と振り返り」をアップしていきたいと思います。
昨年と殆ど同じの拙い記事と写真で恐縮ですが、深川七福神は、ゆっくりと歩いて全部で約一時間半から二時間程度と、長過ぎず短すぎずの程よい散歩コースで楽しめます。今日は関東の冬らしい、冷たい北風の吹く底抜けの晴天と言うことで、最高の七福神日和(?)となりました。

*冬木弁財天堂。深川七福神ではここの雰囲気が一番好きです。
人出は、例年とほぼ同じか、やや多めと言ったところでしょうか。元日と昨日があいにくの天候だったので、正月休みの最終日となる今日、人が一気に繰り出したのかもしれません。
富岡八幡宮の中の恵比寿様を起点に、冬木、三好(現美のある所です。)、清澄(ギャラリービルもすぐ近くです。)を経由して、森下方面と抜けていきます。途中には、間宮林蔵の墓や阿茶の局の墓も点在し、また、深川江戸資料館通りではみやげ物を売っていたりして、江戸情緒なども少し味わえます。そう言えば清澄庭園もオープンしていました。二、三度園内へと入ったことがありますが、借景はともかくも美しく、なかなかのんびりと出来る場所です。(今日は時間の都合で素通りです。)

*心行寺にて。冬の晴天。この青に吸い込まれそうになります。
最近は三が日もデパートやスーパーなどが営業しています。そのせいか、この時期最も人気のない東京も、あまり正月らしい雰囲気となってくれないのですが、それでもやはりのんびりとしています。この正月の東京の静けさは、未だ魅力的です。
それでは、明日からは、東博初詣展や昨年の杉本展の感想、さらには「予定と振り返り」をアップしていきたいと思います。
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疾風怒濤のニューイヤー・コンサート2006

曲 ヨハン・シュトラウスのワルツやポルカなど
指揮 マリス・ヤンソンス
演奏 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
このようなイベントは、タイムリーに記事にした方が良いかと思いますが、思いの外楽しめたので、今更で拙いながらも少し取り上げてみました。毎度お馴染み、元日恒例のお約束企画「ウィーンフィル・ニューイヤー・コンサート2006」です。指揮はヤンソンスでした。
それにしてもニューイヤーを地上波の生中継で聴くのはとても久しぶりです。と言っても、前々から期待を膨らませ、冒頭からチャンネルを合わせて待ち構えていたのではなく、日本酒を飲みながら少し気分良くなって来た所で、TVを付けたら偶然NHK、しかもニューイヤー、さらには丁度後半の開始部分だったというわけでした。
今年はモーツァルトイヤーと言うことで、選曲にかなり工夫が凝らされていました。ニューイヤーで聴くフィガロ序曲も実に新鮮ですが、それに続くランナーのワルツ「モーツァルト党」は、最高の通俗性で楽しませてくれる名曲です。魔笛序曲の三つの和音が鳴り響いたと思ったら、僧侶の行進曲、さらにはザラストロのアリア等へと進み、いきなりドン・ジョバンニへ。宴のシーンや、他に幾つかのアリアを鳴らした途端、また魔笛の序曲へ舞い戻る。もう滅茶苦茶。もちろん、だからこそ面白いわけですが、こんなパロディーをここで楽しめるとは思いませんでした。
パロディーと言えば、シュトラウスの「芸術家のカドリール 」も、有名曲のメドレーで楽しませます。メンデルスゾーンの結婚行進曲から、モーツァルトの交響曲第40番、その後もシューベルトなどを経由し、魔笛のフレーズから華やかなマーチへ。直線的に飛ばしまくるヤンソンスの指揮は、ウィーンフィルを煽るかのようにまくしたて、このような通俗曲にも緊張感をもたらします。もう文句の付けようもありません。
そのヤンソンスですが、愚直に、また少し聴衆を挑発するかように、自らのスタイルを貫いていました。ナーバスなウィーンフィルを、重心低く、豪胆で迫力のマッチョな音へと変える一方、ワルツとポルカの愉悦感は殆ど排除され、まるで乗り切れない、鋭角的なリズムで音楽を刻んで行きます。また、お馴染みの(?)強いアタックも健在です。ガンガンと金槌を打っているかのように、アタックに反応して、半ば金属的な音を鳴らすウィーンフィル。時折TVに映る、メンバーのしかめっ面の表情が何やら意味深です。刺激的とも言えるニューイヤーを演出して、ともかく楽しませてくれました。
最後の二曲(美しく青きドナウとラデツキー)こそ、やや重過ぎるように思いましたが、ニューイヤーを良い意味でリフレッシュさせたヤンソンスの力量には脱帽です。「もう全く受け付けない!」という方もおられそうなワルツに、私はとても惹かれます。途中挿入のバレエも非常に美しく、後半部分だけではありましたが、まさに酔いも醒めるほど面白く聴けたニューイヤーでした。
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メモリアルイヤー 2006

作曲家
生誕100年(没後30年) ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(1906-1975)
生誕250年 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)
没後10年 武満徹(1930-1996)
没後100年 アントン・ステパノビッチ・アレンスキー(1861-1906)
没後150年 ロベルト・シューマン(1810-1856)
没後200年 ヨハン・ミヒャエル・ハイドン(1737-1806)
没後300年 ヨハン・パッヘルベル(1653-1706)
画家
生誕400年 レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン(1606-1669)
没後100年 ポール・セザンヌ(1839-1906)
没後500年 雪舟(1420-1506)
前例を鑑みて、やはり盛り上がりそうな気配のモーツァルトは当然のこと、来年、在京オーケストラ定期でも取り上げられることの多いショスタコーヴィチや、そろそろ大きな回顧展を見たいとも思うセザンヌあたりも気になります。(ちなみに雪舟については没年が諸説あるようなので、確定は出来ないとのことです。)
このようなメモリアルイヤーは、没後20年やら生誕30年などを含めれば、毎年何かしら当たることとなりますが、武満さんの没後10年も、何やらどこか意外な感を受けました。もっとコンサートなどで取り上げることに繋がればとも思います。
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