都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「杉本博司 時間の終わり」 森美術館 12/31

「杉本博司 時間の終わり」
9/17~1/9
ため息が出るほどの美しさ。撮る者の息遣いも被写体の存在感も忘れさせるような写真が、イデア的な美を思わせる世界を体現します。もはや写真展の次元を通り越した、極限の美のインスタレーションです。
彼の作品の最大の魅力は、何ら感傷的でない無機質な素材から、非常に純度の高い「美そのもの」を体現させることにあります。「虚像から実像へ。」彼は自作の写真をこのようにも表現していますが、私にはこの虚像と実像をあまり区別出来ません。ジオラマの虚像や蝋人形の不気味なリアリティーは、彼の写真を経由しても決して生きた実像にはならずに、むしろまるで死人の顔のような、半ば背筋の凍る冷たい感触の美しさへと変換されます。「シロクマ」にも「ヘンリー8世」にもドラマはない。あるのは、ただ、静謐な光の中に包まれて、穏やかに煌めく作品そのものの美だけです。それを、洗練された丹念な職人芸によって、しかも最高の会場構成を伴って見せつける。「音楽のレッスン」は、杉本がまさにフェルメールのごとく、至高の美の「時」を、その終焉を僅かに予感させながら、精巧にフレームへ収められることを示しています。
そうした意味で、彼の最も優れた作品群は、「海景」や数理モデルを写した「観念の形」だと思いました。太古の海をイメージさせたという「海景」シリーズ。ここでは「カリブ海」や「北大西洋」などのタイトルは、殆ど無意味になってかき消されます。上下二分割されたモノクロの画面。海のうねりと空のまどろみが、何ら意味を持つことなく、直線上でただ触れ合う。空からは光が眩く降りて来て、海はそれに反応するかのように輝いています。この海にはまだ生物が誕生していない。会場でのサウンド・アートは、これから生まれるであろう生命の息吹の予兆のようにも聴こえます。大地を押し付けようとする海の重みがジワリジワリと伝わってくる。思わず画面に引き込まれそうになりますが、最後は不思議と撥ね付けられます。それは、この海がまだ生命の誕生以前の、それこそ「海」と名付けられる前にあった場所だからなのかもしれません。見たこともないような、また見ることもできないような海。海であるはずの海。しかし美しい。これ以上の言葉は不要です。
「観念の形」シリーズは、「大ガラス」の花嫁に呼応するのでしょうか。女性を思わせるような、柔らかな曲線美を描いてポーズをとる、それこそ「モデル」たち。エロティックな部分は全くなく、こちらも素材感を美しく感じさせながら、実に静かに見せてきます。このモデルの形は、どれも数式によって生み出されたものです。感性に訴えないはずのものに宿った美的な要素。まさに数学的美がここに表現されていました。円錐形の回転面を表した「数学的形体 曲面0009」の天辺には、空間を切り裂く力すら与えられています。光のカーテンがモデルの表面のキズ跡を優しくなぞる。これほど控えめでありながらも、重要な意味を持ってくる光の表現もないでしょう。「劇場」シリーズにおける、スクリーン上の白い光とも重なって見えてきます。杉本の作品の主役は光です。
会場では殆ど唯一のカラー写真である「影の光」も、壁の白と影の黒というモノクロ的な対立項を基盤としながら、まさしく数学的美のような、空間における線や面の美しさで楽しませてくれる作品です。白は、まるでキャンバス上に置かれた油彩絵具のようにも見えてきますが、それはあくまでも無機質極まりない世界で、素直に形体の美を伝えてきます。また、水墨画的な味わいとも言える「松林図」も、松とその場の気配や質感は消失しています。ここでもやはり実像と虚像を乗り越えてしまった、もはや彼岸的とも言える場が、形体の美だけを伴って表現されています。「影の光」に、そのモデルとなった部屋の気配を、また「松林図」に、皇居前広場の雰囲気を求めることは出来ません。むしろ求められないからこそ美しいのです。
杉本の作品は、これまでも何度となく、特に「海景」シリーズを見てきましたが、作品を効果的に見せることに拘ったこの展覧会において、初めてその偉大さと美感を受け止めることが出来ました。昨年見た、いわゆる現代美術の展覧会ではベストに挙げたい内容ですが、これまでにこの美術館で開催された展覧会でも最上かと思います。会期末が迫っていますが、是非おすすめしたいです。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )