blog.mcnj

花、蝶、ペット、旅行など。
韓国文化の紹介。

最後のムー 2015.2. 下旬

2015-02-26 06:02:20 | 日記
暖かくなって来て、ムーも、花芽を持ち始めて、トウが立ち始めました。
もう遅いくらいですが、種を採る分を残して、片づけました。



プランターの方は、種用として、皆さんにお送りした残りです。



早いのは、こんなに、花芽が大きくなっております。
もうすぐ、花が咲きそうです。


このプランターは、カイワレを植えておいたものです。
ずいぶん、大きくなりましたが、大根までには、育ちませんでした。
もう、花芽が出来始めております。
どんな花が咲くか、見てから、処分します。

オマケ。




眼科のこと

2015-02-25 05:34:28 | 日記
先日、眼科へかかったと、コメントしました。
ご心配くださった方おいらっしゃいましたので、経緯と、その後について、お知らせいたします。

先週の金曜日の午前中でした。
PCに向かっていたら、左目の奥に違和感を感じたのです。
チクチクではありませんが、鈍痛のようなものを感じました。
気にしなかったのですが、家族から、左目が赤く充血していると言われました。
眼の中全体が赤いので、医者へ行ったほうがいいと言うのです。
しばらく様子を見ようと思ったのですが、明日は土曜日だし、行くなら今日と思って、出かけました。
受付が遅かったので、先客が大勢いました。
2時間半くらい待たされて、ようやく名前を呼ばれました。

目薬でも呉れて帰してくれるのかとおもったら、延々と目の検査をされました。
そのあとで、診察室へ呼ばれたのですが、医師の言うことには、左目は、毛管出血しているだけだ。
それよりも、検査結果によれば、右目の眼底に、異常が見られるので、手術したほうが良い。
当医院は、全国一の、腕のよい眼底手術の名医師と契約しているので、3月5日が、その医師の来院日だから、
良ければ、予約を取ってやるがどうか。
以上のような言い分で、意外な展開になって来ました。
家内とも相談した結果、一応、その医師の診断を受けて見ることにして、予約してもらいました。

この医院は、悪い眼科では無いらしいですが、町医者です。
検査の結果を聞いて、市民病院を紹介してもらって、セカンドオピニオンを求めようかと思っているのですが、この医院の医者も、
契約医も、手術はしたくてならない方だと思われます。
うまく、紹介状を書いてくれるかどうか、心配な点もあります。

結局、出血している方の目は、治療も、投薬もせず、何もしないまま返されました。

キャンセルして、まずは、市民病院で受診する手もありますが、家内は、断るのは、後でもいいから、とにかく、診断だけは受けろと言います。

まあ、仕方ないと思いながら、毎日を過ごしているような状態です。

松本旧開智学校

2015-02-24 06:02:22 | 日記
旧開智小学校は、松本城のすぐ隣にある。

手前は、新しい開智小学校。
奥が、旧開智小学校校舎である。




最近塗り替えられたのか、新しくなっていた。










開智学校は、明治5年(1972年)に、南信飯田、飛騨高山を含む筑摩県学として開校したが、翌6年に、開智学校とされた。








1868年、明治維新によって出来た明治政府は、欧米列強の、アジア進出、植民地政策に後れをとることを恐れ、
朝鮮半島、中国大陸、東南アジアへの進出を図るため、文明開化、殖産興業、富国強兵政策を摂り始めた。
政府は、国民の教育、指導に資するべく、6年9月に、新しい学制を発布した。
開智学校も、この学制の一環として組み込まれた。

教育の近代化の名目で、欧米の先進的な教育制度が定められたが、日本の軍国主義、植民地政策の進行とともに、
教育の目的は、国民を、国家の為に資させるべく、指導、自覚さえる内容に変わっていった。

特に、太平洋戦争開戦後の軍部の方針は、国民を、戦争遂行の目的で、滅私奉公させる色彩が、著しくなっていった。
国民に、節約と、勤労の大切さを教え、欧米列国の、非道、残虐ぶりを訴えるスロ-ガンが、大々的に掲げられた。

戦争末期に至っては、教育どころではなく、高学年は、学徒動員の名のもとに、労働に供され、低学年は、校庭の開墾、
道路端の農作業などに駆り出されていった。

やがて敗戦になる。
進駐軍は、日本の教育内容を改めさせるべく、教科書の不都合な箇所を削除させた。
昨日まで、先生が、ここは大切だから、よく、覚えておけと教えていた箇所に、ここは、間違いだからと言って、同じ先生が、墨を塗らせた。
mcnjが、小2の時であった。



今回、mcnjが、本稿を取り上げたのは、戦後70年にあたり、日本の教育の歴史を振り返って見ようと、思い立ったからである。
開智小学校は、そのためには、格好の場所であった。

所が、今回初めて知ったのであるが、ここには、戦後の資料室は、現在は置かれていなかった。
もちろん、昔は置かれていた、黒く塗り替えられた教科書も撤去されていた。
10万点にもおよぶ資料の大半も置いては無かった。
この理由について、事務関係者に質したが、置いてないと言うだけで、明確な返答はなかった。

四日市に帰ってから、松本市の教育委員会の担当者に聞いたところ、戦後の部門は、別の資料館に保管しており、希望者には、
閲覧の許可を与えるとのことであった。

開智小学校の展示室は、一般公開であり、フラッシュをたかなければ、撮影もOKである。

いささか、理解できない点もあるので、mcnjが入会している後援会の政党に、情報提供しておいたら、各国会議員に文書を回しておいたとのことで、
関心のある議員は、行動に移すだろうとのことであった。

mcnjの幼少の頃の記憶であるが、語り部としての責任から、本稿を後世に残しておくつもりで書いて見た。。