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韓国文化の紹介。

戦後70年の記憶 ⑰ 威嚇飛行

2015-04-30 05:55:28 | 日記

日本の敗戦から、1週間も経たない頃であった。
米軍の飛行機が、盛んにやってきて、威嚇飛行が始まった。
地上軍を進行させるには、勝った米軍としても、時期尚早と考えたのであろう。
不測の事態を避けたのであろうか。
圧倒的な戦力の違いを国民に見せつけて、戦意を消失させようとの、戦略であったろう。

実際威嚇飛行が始まって見ると、彼我の戦力の違いは、一目瞭然で有った。
ジェット機は来なかったが、同じプロペラ機でも、ゼロ戦とグラマンの違いは、圧倒的であった。
これでは、いくらゼロ戦のパイロットが優秀であっても、勝てるはずが無いことは、誰の目にもわかった。
日本人の戦闘意欲、反米意識は、急速に失われて行ったようである。
しばらくは、教室での授業の声が聞こえなくなるほど、頭上を、米軍機が超低空で飛び回っていた。
戦闘機ばかりでなく、中には、爆撃機も参加していた。
見たこともない、その機体の大きさには、度肝を抜かれた。

やがて、どのくらい経ったのかは、覚えていないが、松本にも進駐軍が進駐してきた。
米兵の図体の大きさには、また、たまげたものであった。


戦後70年の記憶 ⑯ 玉音放送

2015-04-28 05:51:56 | 日記

昭和20年8月15日、日本は負けた。
もう、戦争は終わった。
そんな意味のことを、兄たちから聞いた。
mcnjが小2の時である。
午前中だったと思うが、学校は無かったのだろう。
一番上の兄が、父親の自転車を引っ張り出して来て、後へ乗れと言った。
なんのことか、理解できないまま、自転車でどこかへ連れていかれた。
大勢の大人たちが集まって来ていた。
兄は、その中に混じって、じっとラジオを聞いている様だった。
ひどい雑音で、耳を澄まして聞き入っても、よく聞き取れなかった。
仮に、聞き取れたとしても、mcnjには、その意味する所は理解できなかったであろう。
やがて、また、自転車に乗せられて、家へ戻った。

父は、仕事に行っていたのだろうか、夕方帰って来て、3人の兄達と、ボソボソ語り合っていた。
これからどうなるのか、予測は着かなかったが、4人の、深刻そうな顔から、何か、大変な事態が起こりそうだと言うことは分かった。

それからあとのことは、良く覚えていない。
翌日、学校で、どんな話があったのか、不思議なことに、あまり記憶が無い。
実際、何も無かったのだろうか。
敗戦と言うものに対する、小学2年生の記憶と言うものは、その程度のものだったのかもしれない。

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本シリーズの戦中に関する記憶も、本稿が最後となった。

信州の山の中の田舎の出来事を、小学一年生が見聞した、幼い記憶である。

本来なら、降りかかる焼夷弾の中を逃げ惑う母子の記憶、火を引いて飛んで行く艦砲射撃の記憶、焼け跡に呆然と

佇んで、周りを見渡している記憶などを書ければよかったのだが。

願わくば、mcnjより年長な方、都会で経験された方々の、語り部としての記憶を書き残していただきたいものである。

次稿より、もうしばらく、戦後の記憶を書き残しておきたい。


戦後70年の記憶 ⑮ 供出

2015-04-26 05:42:51 | 日記

昭和20年4月、mcnjは、2年生になった。
戦況はますます厳しくなって来ていた。
教室で話す教師たちの会話からも、その容易ならざる戦況の様子が伝わって来た。
国民は、食うものにも事欠く様になっていたし、軍部には、制空権を奪われて、燃料や物資の補給もままならず、戦争を遂行する手だてにさえ事欠いている始末であった。
飛行機や、戦艦を建造する材料が無いと言って、国民に、鉄、銅、他、貴金属などの供出を迫った。
生産や、生活に直接関係の無い、ふすまの取っ手、柱の釘、余分な鍋、フライパンなど、手あたり次第供出させられた。
供出は、1回だけで無く、戦況がひっ迫するたびに、たびたび行われたのであった。
我家は、貧乏だったので、そう、金目のものは無かったが、有る所では、結婚指輪なども供出させられたとのことであった。
日本が勝つためには、あらゆることをしようと言う、国民の気概もあったのだろうが、内心は、隣近所のタレ込みを恐れたのであろう。
戦時中には、向こう三軒両隣と言う、自助組織がもうけられて、お互いに協力し合ったのであるが、一方で、互いに、監視させる機能も果たしていたのである。