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花、蝶、ペット、旅行など。
韓国文化の紹介。

韓国の散歩道 オッケチュム

2009-09-30 00:00:00 | 写真

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朝鮮民族は、古来から、喜怒哀楽を激しく表に現しやすい民族と言われてきました。

朝鮮民族に限らず、大陸系の民族はそうだったようです。

むしろ、大和民族の様に、島国に育った民族は、自分を抑え、喜怒哀楽を表に出さないの

が、美徳とする様な考え方は、特殊といえましょう。。

狭い国土と世間の中で、自分を殺して、相手をたてたり、主に仕えたりするのが、身を守る

為の、大切な処世術として学んできたのでしょう。

韓国人、朝鮮人たちは、古来より、歌や踊りを好み、嬉しさや、悲しさを表現してきました。

皆さんは、ドラマや観光で、人々、集って、両手を広げて、肩を上げながら、輪になって踊るシ

ーンをご覧になった事があると思います。

タイトルに挙げた、「オッケチュム」がそれです。

オッケ:肩、チュム:踊りです。

オッケチュム:興がわいたり、嬉しくて肩を振ること(オッケ ルル チュスルダ)、または、肩を

振りながら踊ることです。

また、逆に、叶えられない気持ちが心の中にたまった感情を、ハン(恨)と言いますが、この

感情を解きほぐす時も、歌と踊りに頼ります。

じっとしていられない程うきうきした感情を、シンミョンと言い、この時も、歌と踊りで解く事にな

ります。

この様に、ハン(恨)、シンミョン(興)は、朝鮮の人々には、切っても切れない感情なのです

が、両方とも、、歌と踊りに密接な関係を持ちながら、人々の生活の中に生きているのです。

オマケ。

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韓国の散歩道 雨森芳州

2009-09-29 00:00:00 | 学問

皆さんは、雨森芳州(あめのもり ほうしゅう)の名をご存じでしょうか。

おそらく、ご存じで無い方が、ほとんどでしょうね。

1990年に、韓国のノテウ大統領が訪日した際、雨森芳州の名前を取り上げて、朝日友好の

偉大な先人として紹介した時、彼の名前を知っている政治家は、ほとんどいませんでした。

江戸時代の偉大な国際人、芳州は、1668年、現在の、滋賀県高月町雨森に生まれ、儒学

の道を志し、木下順安に学びます。

新井白石などと、木下塾の秀才と称され、26才の時に、対馬藩に請われて渡ります。

以来、88歳で没するまで、高月に帰ることなく、対馬藩の、対朝外交に尽くします。

秀吉の朝鮮出兵以来、こじれていた、日朝関係の修復に、朝鮮王朝とともに、腐心し、

朝鮮通信使の往来にも、尽力しました。

彼の、功績を称え、高月町の人々は、今も、記念館を守って日朝友好に尽くしています。↓

http://kyouno.com/turezure/20071118_amenomorihousyuu.htm


韓国の散歩道 百済伝説の村、宮崎県南郷村(なんごうそん)

2009-09-28 00:00:00 | 写真

  九州にある山間の村、宮崎県南郷村には、1300年前、百済の王族が、この地に移り住んだ

と伝えられております。

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この村にある、百済館は、韓国扶餘国立博物館をモデルに最近造られたもので、百済王族

の遺品のレプリカが展示されています。

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660年、百済は、新羅・唐連合軍によって滅ぼされます。

その時、多くの百済人が、倭国に逃れて来ました。

その中の王族に、禎嘉王がいました。

王は、畿内に逃れますが、追われて南郷村にたどり着き、百済の優れた医学、農業を伝え、

尊敬されます。

南郷村には、今でも、33面の銅鏡が保存されており、正倉院にある、銅鑑にも匹敵する、

貴重な鏡ではないかと言われております。

山の上には、百済扶蘇山の、百花亭を模したたてものもあります。

禎嘉王は、戦で死にますが、村人は、その徳をしのんで、神門(南郷村)に、神門神社を建て

て、祀ったと言うことです。

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カマケ。


韓国の散歩道 扶餘(ブヨ)

2009-09-27 00:00:00 | 写真

百済は、538年に、それまで都を置いた、公州から、扶餘に都を移します。

その後、新羅・唐の連合軍に滅ぼされる、660年まで、120年あまり、百済の都として栄えまし

た。

朝鮮半島の中央部を、黄海に向かって流れる錦江(クムガン)の下流域に位置し、広い川幅

に、白砂が連なり、周辺の山々の緑が映る景色は非常に美しく、白馬の様だと誉めたたえ

られ、白馬江(ベンマガン)とも呼ばれています。

川岸にある、扶蘇山は、半月城と呼ばれ、扶餘の鎮山山城となっております。

大変に景色の良いところで、山城内には、数々の百済の遺跡が残されています。

見晴らしの良い所には、楼閣が設けられています。

先端は、断崖絶壁となっており、新羅・唐連合軍に追い詰められた、3000人の女官達が

身を投げた絶壁に建てられた、百花亭もあります。

美しく着飾った女官達が、あたかも、つつじの花びらの様に舞落ちて行くように見えたことか

ら、この絶壁を、落花岩と呼ぶようになりました。

百済は、日本とも関係の深い国でした。

扶蘇山の上から、ベンマガンを見降ろして、舞落ちて行った女官達の心情に、想いを寄せる

のもいいですね。

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百花亭。

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白馬江

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ここが落花岩です。