現代日本語百科   けふも  お元気ですか

gooブログはじめました!日本語百科です。
現代日本語百科 ⓒ2013gooksky

枕石漱石、流石

2015-11-04 | わくわく
石を枕にするか、石をもって漱ぐか、流れに枕するところではない、流れにさお、さしたは、流石である。この故事には漱石の言わんとするところがあって、文生於情,情生於文 とは如何。漱石枕流 枕石漱流 「流れに枕し、石に口 漱がん」  「流れに枕する所以は、その耳を洗わんと欲す。 初,楚與同郡王濟友善,濟為本州大中正,訪問銓邑人品狀,至楚,濟曰:「此人非卿所能目,吾自為之。」乃狀楚曰:「天才英博,亮拔不群。」楚少時欲隱居,謂濟曰:「當欲枕石漱流。」誤雲「漱石枕流」。濟曰:「流非可枕,石非可漱。」楚曰:「所以枕流,欲洗其耳;所以漱石,欲其齒。」楚少所推服,惟雅敬濟。初,楚除婦服,作詩以示濟,濟曰:「未知文生於情,情生於文,覽之淒然,伉儷之重。」   石に口 漱ぐ所以は、  其の歯を磨かんと欲す」と。 . . . 本文を読む

古典の日に 4

2015-11-04 | 斯く書く
古典作品が文学に限ったような謂いになるのは日本語のゆえであろう。古典音楽、古典芸術、古典学問といくつか、そこに共通するのが、古典に典籍があるかどうかだが、そうなると古典文学と古典学問となってしまって、音楽はその訳語の故か、芸術は西洋古典をみて語の概念化によるもので、いささか、異なることがあるようである。しかし現代からすれば、漢語の意味で、古代の典籍や経典、あるいは古い法式や典礼をさすとしてしまうのは議論となる。まして、classicusの語に、古い、の意味はないようであるから、時代を経てとらえられてきたもの、そこに重きがある。さてそこで、古典の日から、まだ、文化の日を経て、5日目を数えないところで、やはり古典と言えば文学の対になる哲学がある。文学、哲学と並べて、日本文学と西洋哲学である対比は、それがわたしたちにとって極をなすからである。 . . . 本文を読む

弁証法

2015-11-04 | 日本語百科
テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ、これを正反合とした。この統合をアウフヘーベン、止揚と訳した。古代哲学の論法では、弁証論として、これを問答形式として行っていた。真偽のとらえ方が前提によって始まり、論理展開をしていくと、反対概念を得ることになり、そこでもとの概念との融合を図る智慧が唱えられる。論理と事実を検証すべく形成された一連の疑問文と、何らかの主題についての信念を見出し、定義やロゴスを探求することになる。問答法と呼ばれて、辞書に解説するのは、対話を重ね、相手の答えに含まれる矛盾を指摘して相手に無知を自覚させることにより、真理の認識に導く方法。ソクラテスの問答法として知られる、産婆術、デジタル大辞泉による。これを弁証法として哲学の展開を遂げるには、ヘーゲルを待つことになる。 . . . 本文を読む

訓釈 16

2015-11-04 | 日本語表記
万葉集の訓に、定訓を得ないもの、難訓であるもの、そして解釈によって、その表記とともに揺れがあるものなど、その読みの作業に訓釈の用語をもってとらえる。訓釈は和歌の解釈にあるかと言えば、そうではなくて、その解釈は歌の読みに基づくので、本文の読み方である。解釈作業は文学の議論であり、近代文学の解釈作業と異なって、そこに厳密な訓詁を用いたのは、古典文学の表記に日本語を読み込む工夫があったのである。古事記の訓釈、日本書記における訓釈、万葉集の訓釈、日本霊異記の訓釈、今昔物語の訓釈、経典、典籍など、漢字がまた日本語になる経緯に、その作業が積み重ねられた。それぞれ文学ジャンルンを超えて日本語の現象に意味分析がくわえられたのである。万葉集の訓釈を説明する一文がある。>訓釈の微妙な違い 改めて言うまでもないことだが、万葉集の歌の読み方は注釈書・学書の類によって千差万別で、どれに従うべきかに迷うことがしばしばである。同じ研究者の書いたものでも、年月を隔てて著した場合、変ってくることが珍しくなく、時には初案のほうが良かったということさえある。この全集本の万葉集でも、新旧二本の間に完訳(完訳日本の古典)本を挟んで、転々と変化している。 . . . 本文を読む