文字は、もんじ と読んだ。文字と、もじ もんじ とを、検索すると、歴史用語としての、文字がある。もんじ‐の‐ごく は、筆禍事件である。そこで、見ると、そう古い時代のことではない。これは、文字の国、もんじのくに という、中国の異称とあるのでそれなりに背景のあることである。漢民族の語がかかわる。また、文字の法師 もんじのほうし とあって、これは日本でのことであろう。暗唱の語で、その法師を指すと見える。もんじ と、あんしょう と、文字が持つ、いわば、威力であるとみるか。文字論は、もんじのろん ではないが、近代日本での実証学問にむかえられた概念である。しかるに、もんじ を取り出すのはなぜか。文字を漢字とみる中国文化の文字論を視野にまず入れるべきかと思うからである。それは、漢字文化の源流へといざなう。 . . . 本文を読む
これを戦争と呼ぶ。新大戦に入った。戦争を停める、やめるためにはどうすればいいのか。真剣に取り組まなければ、テロという戦争手段はなくならないし、報復は繰り返される。対立の構図を解かなければ、この実態を目の前に眺めるだけに過ぎない。この愚行は人間の根源にある自己愛である。遠くから事件を分析するのはたやすいことだ。痛みを思うならば解決策を見るべきであるが、どうすればよいのか。宗教の教えがあって、それに原理を求めて行為を正当化する。領地があってそれを奪われる、それはさかのぼれば聖地を争うというなら、宗教と暴力は、いや、信仰という暴力になりうる人間活動はそれをやめさせる手立てはない。信仰を持つことは心の自由による。自己の解放にあるから、それをある方向に向かわせてしまうと信仰とともに人間生命の終わり、つまり死を遂げる。かつて死を賭した軍人は宗教を掲げた。十字軍、皇軍、そしてイデオロギーによる宗教の否定という信仰である。 . . . 本文を読む
イメージとは何か。語のイメージをとらえるには、どういうことがあるか。語感というアプローチもあり、それは語の形態にイメージとなる事柄をとらえようとする方法になる。イメージをそのままに想像、連想などを見るか、イメージは画像であり形象であるとするか、もう少し考えると、語を印象で見る、その使用法をイメージ化してしまうということのようである。語がもともとイメージを持つとしたら、それはあくまでも言語記号にとらえられた学説などで示された理論からである。それはまた、イメージとは何かをイメージすることであるから、そこにあるのはそれまでの言語論における観念を見直そうとするものであろう。言語におけるイメージはわたしたちの心的作用というべく、心理として与えられたものとしてその時代に応じた議論がなされてきたようであるから、近代科学の言語学においては、どう説明できるか。その方法が明らかにされる。 . . . 本文を読む