牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

衆議院議員選挙はじまる

2005-08-31 08:45:26 | Weblog
 衆議院選挙が始まり、生駒市も自民・民主・共産・新党日本の4名が立候補しています。前回は民主党が当選。自民党は比例で当選でした。今回は自民党議員が郵政法案に反対、自民党はマドンナ候補を投入、前議員は新党日本で立候補、代表の田中知事も長野から駆けつけ応援演説。自民党は安部幹事長。今日は奈良市に小泉首相が来県。
 新聞もテレビも大騒ぎの選挙です。ほんとうに日本を思い国を愛する候補者を選びたいものです。
 日本国憲法を厳守する議員が増えるよう祈ります。主権在民の国です。投票することでその権利を行使したいものです。

内村鑑三は、I love two J's と宣言しました。一つのJはJEesusのJ。もう一つはJapanのJです。
真のクリスチャンはイエス・キリストを主とし、全ての愛をささげ従います。聖書の教えに100パーセント従う決心をして、天国への道をまっすぐ進みます。 
 と同時に、自分が住んでいる国を愛します。グローバル的な視野に立ちつつも、自分の祖国を心から愛して忠誠をささげます。

テモテへの第一の手紙
2:1 さて、次のことを勧めます。 すべての人のために、神様のあわれみが注がれるよう熱心に祈り、とりなしなさい。 そして、やがて彼らにも恵みが与えられると信じて、感謝しなさい。
2:2 王のため、また権威と重い責任を負っているすべての人のために祈りなさい。 それは、主を敬い、主を深く思いながら、平安のうちに落ち着いた一生を過ごすためです。
2:3 そうすることはたいへん良いことで、救い主である神様に喜んでいただけることです。
2:4 神様はすべての人が救われて、真理を理解するに至ることを、切に望んでおられるからです。
2:5 -6その真理とは、こうです。 神と人間とは、それぞれ別の岸に立っています。 そして、人となられたキリスト・イエスがその間に立ち、ご自分のいのちを、全人類のために差し出すことによって、両者の橋渡しをされたのです。
これこそ、神様が時にかなって私たちに示された教えにほかなりません。
2:7 この真理を外国人に教え、救いは信仰によって与えられるという、神様の計画を伝えるために、私は宣教者また使徒として選ばれました。 これは、うそ偽りのない真実です。

ラジオ放送を聞いて

2005-08-30 10:30:22 | Weblog
2005年08月30日
ラジオ放送を聞いて

 8月は朝日放送のアンテナ移転工事のため、早朝の番組が休みになり、ラジオ放送希望の声も1ヶ月休みました。32年間ではじめてのこと。聴取者の皆さまに迷惑をかけましたが、9月7日(水)朝4時35分よりお届けできます。
 昨日もらった手紙で、自殺寸前にラジオ放送希望の声を聞いた救われたとの体験が寄せられました。

 高校2年生のとき学校でのいじめと、家ではお兄さんの暴力とで、総合失調症を発病。
 病気と世親安定剤の抑圧で、人とのコミュニケーションがとれなくなり、友人も一人もいなくなり、家では家族にも迷惑がられ、兄からの暴力は依然として続いていた。
 曲がりなりにも高校は5年かけて20歳のとき卒業。

 発病以来、自殺願望が強くなり、死ぬことだけを考えていた。22歳当時、新聞配達をはじめたが、「確実に死のう。絶対に死ぬ」との決意がかたまりました。
 そのころからラジオ放送希望の声を聞き始めていた。
 本当に死のうと決意した朝、死ぬ前に一度大きな賭けをして見ようと思った。そのときの信教を彼は次のように書いている。

 イエスとかいう人を信じます。と言うことに、自分の全部を架けてみよう。自殺だって、死と言うものに、自分の全部を賭けることなのだから・・・。自殺はいつでも近いうちにできる。
 でも、イエスという人に、自分全部を賭けるのは、生きているうちにしかできない。
 死ぬ前の最後の大一番の賭けをしてみよう。イエスとかいう人に、自分全部をあずけて信じるという賭けを・・・。
 榮牧師のあとにつづいて祈ってみました。
 「イエス様。私の心にお入りください。信じます。アーメン」
 短かったけれど、本当に心をすべて賭けて祈りました。いろいろあったけれど、私は救われていました。
 私は明るく活発になり、コミュニケーションがうまくとれるようになりました。ユーモアを交えて話せるようにもなり、友達も新しくどんどん増えていきました。新しく生まれ変わり、人間が180度変わったようになっていました。

 8月13日にこの青年と出会いました。現在28歳、ラジオ放送を聞いてクリスチャンになっていると嬉しそうに話してくれました。そして昨日その間の事情を詳しく書いた手紙をもらいました。
 今でも朝早い番組を録音して聞き、彼のところには6年分のラジオ録音のMDがあると嬉しそうに報告してくれました。
 新しい人生を生きることができる!何とすばらしいことでしょうか。ここrから祝福をお祈りします。

ローマ人への手紙(リビングバイブル)
10:8 というのは、キリスト様を信じることによって与えられる救い〔私たちが宣べ伝えているのは、まさしくこの救いです〕は、すでに、私たちのすぐ手の届く所にあるからです。 実際それは、自分の心や口のように、すぐ近くにあるのです。
10:9 なぜなら、もし自分の口で「イエス・キリストは私の主です」と告白し、自分の心で、神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は、心で信じることによって、神様から正しい者とされ、その信仰を自分の口で告白することによって、救いを確実なものとするからです。
10:11 聖書は私たちに、「キリスト様を信じる者は、決して失望させられることがない」と教えています。
10:12 この点では、ユダヤ人もそれ以外の外国人も同じです。 同じ主がユダヤ人にとっても外国人にとっても主であり、求める者にはだれにでも、ご自分の宝を惜しみなく与えてくださるのです。
10:13 主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです。

 今日、「イエス様。信じます。私の心にお入りください。アーメン」と、あなたも口に出して言ってみませんか。アーメンと言えば救われます。

充実の日曜日

2005-08-29 06:20:07 | Weblog
日曜日は牧師の喜びの日、充実のときです。祈りとみことばとともに1時間の散歩。テレフォン・メッセージ。ブログに書き込み、奈良市富雄キリスト教会の礼拝へ。
 昨年、53歳で召された兄弟の記念礼拝。東京、沖縄、三重県より家族が駆けつけ、息子さんが父親の作詞作曲の歌を力いっぱい手拍子に合せて歌う。奥様が主人の思い出を語り、天国を一言で言えば楽しい所、最高の幸せと喜びのパラダイスとのメッセージに、大勢の兄弟姉妹の顔が輝き、聖霊の慰めと愛が降り注ぐ。
 昼から娘の運転で大阪エリムへ。一人の兄弟が末期ガンで入院したが、本人が教えた病院にいないので、心当たりの5つに病院へ電話で問い合わせるがどこにもいない。
 自宅を訪ねてもマンションの管理人も知らないとの答え。そこへひょっこり本人が現れ病院が分かる。今日もまた見舞いに訪れようと思う。
 大阪の礼拝が終わると大阪労災病院へもう一人の方を見舞い、堺エリムへ。
 30日で72歳になる兄弟の誕生日の祝福を!もうひとりは31日で63歳。私は9月2日なので大きなケーキが要されており、ハッピー・バースディの歌とともに祝ってもらい、みんなで楽しい歓談。
 近くのコンビにでお握り1個の夕食を車中で・・・。帰宅すると24時間テレビのフィナーレ。59歳の丸山弁護士が100キロマラソンで、娘さんの伴走ともに武道館に感涙の到着。世界で一番の花の大合唱でフィナーレ!
 
 全てに感謝しつつの日曜日が感謝と喜びの中で終わり熟睡の中へ・・・。

 今日は朝から大阪拘置所へ・・・。新しい一日が恵みの中でスタート。

詩篇(リビングバイブル)

118:5 苦しみの中から祈り求めると、神様は答えて、救い出してくださいました。
118:6 神様は私の味方です。 ですから、こわいものなどないのです。 ただの人間に何の手出しができましょう。
118:7 神様がそばにいて助けてくださるから、私を憎む者どもよ、用心するがいい。
118:8 人をあてにするより、神様を信頼したほうがよいのです。
118:9 力ある王にかくまわれるより、神様の保護を受けるほうがよいのです。
118:10 たとい、世界中の国が攻めて来ても、私は神様のあとについて進軍し、敵を全滅させてやります。
118:11 敵に包囲され、攻撃をしかけられても、私は高々と翻る神様の旗のもとで、勇気百倍し、相手方を皆殺しにしてやります。
118:12 蜂のように群がって来る敵は、ごうごうと燃え上がる炎さながら襲いかかります。 しかし、私は神様の旗のもとで彼らを滅ぼします。
118:13 私を亡き者にしようと図る彼らは、あらゆる手を打ってきましたが、神様はいつも助けてくださいました。
118:14 激戦のさなかに、神様は私の力となり、歌となってくださいます。こうして、私は勝利を手にしました。
118:15 -16私たちの勝利の知らせを聞いて、神様を信じお従いする人々の家には、喜びの歌がわき起こります。 神様はめざましい働きをしてくださいました。
118:17 死なずにすんだ私は、生き長らえて、神様のなさったことを人々に語り伝えましょう。
118:18 神様は私を懲らしめられたものの、死には渡されませんでした。
118:19 神殿の門よ、開きなさい。 私は中に入って、神様に感謝します。
118:20 神様を信じお従いする人が、この門から入って神様の前に出るのです。
118:21 ああ神様。 祈りに答えて私を救ってくださったことを、心の底から感謝します。
118:22 大工の捨てた石が、今では一番たいせつな土台石になっています。
118:23 これこそ神様のなさることで、人の思いをはるかに越えています。
118:24 きょうこそ、主がお造りになった日です。 さあ、この日をぞんぶんに楽しみましょう。
118:25 ああ神様、どうかお助けください。 お救いください。 することをすべて成功させてください。
118:26 神様の代理として間もなくおいでになる方に、祝福がありますように。 私たちは神殿であなたがたを祝福します。
118:27 -28神様は私たちの光です。 私はいけにえを祭壇にささげます。私は神様に感謝し、賛美の声をあげます。
118:29 感謝の祈りをささげましょう。 神様はあわれみ深く、その恵みはいつまでも尽きないのです。




気配を感じながら

2005-08-28 07:47:16 | Weblog
朝の早い時間、秋の気配を感じるこのころの生駒です。日中は残暑が厳しく、奈良は35度にもなりました。
 26日は母の54年記念日、昨日は102歳の兄弟の記念日、今日は昨年53歳で召された三重県の兄弟の記念礼拝、東京や三重県からも家族の方が来られます。
 牧師としての働きの中で葬式もその一つです。葬式は悲しくつらいときです。何歳で召されても愛する者を失う悲しみはつきません。
 クリスチャンは、イエス・キリストにより永遠のいのちを与えられ、天国に行くことができます。死は終わりではなく新しい始まりです。永遠の天国の約束を信じる人の死は安らかです。臨終の床で何度もそのような場に立会いました。 その労苦を解かれて休みに入る幸いです。
 しかし、残された者には悲しみです。その悲しみがいやさず、涙に暮れながら生きている方もたくさんあります。
 あるとき、70台のご婦人二人が礼拝に来られました。ラジオ放送希望の声を聞いているとのこと。悲しみに沈んでいたのはクリスチャンのほうでした。ご主人が召されて教会で立派な式もでき、牧師も良く訪ねて来て慰めや励ましのことばを語ってくれました。
 彼女の心には慰めも平安もなく涙の日々、主人が病床で聞いていたラジオ牧師を訪ねてみたいと思いました。一人で奈良まで出かける元気もなく、クリスチャンでない友人に頼んで連れて来てもらいました。
 礼拝が終わり挨拶もそこそこに、その寂しさ悲しみを話されました。手元の聖書を開き、「恐れることはない。わたしはあなたとともにいる。たじろいではならない。わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強め、あなたを守り、わたしの勝利の右の手であなたを支える」(イザヤ41:10)と示しました。
 その瞬間、彼女の顔から悲しみの色がなくなり、そうでした!イエス様がいっしょにいてくださるのですね。私に必要だったのはこのことばでした」と喜びで輝きました。
 その彼女の変わりようを見ていた同年齢の友人も、その日以来礼拝に出席し、洗礼を受けてクリスチャンになりました。90歳の高齢を迎えれいますが、今でも礼拝に出席し天国に望みを置きつつ励んでいます。
 神のことば生きていて力があります。みことばには人を救う力があります。
 清書のことばの慰めは、人の慰めを越えるものです。死を越えて永遠に続く命、天国に生き得る幸いを感謝します。

黙示録より
7:9 その後、私の目には、おびただしい群衆が映りました。 あらゆる国民、民族、言語の人々で、とても数えきれたものではありません。 彼らは白い衣をまとい、しゅろの枝を手にして、王座と小羊との前に立っていました。
7:10 そして、声を張り上げ、「救いは、王座にざしておられる神様と、小羊とから来ます」と叫んでいました。
7:11 御使いはみな、王座と長老、それに四つの生き物の回りに集まり、ひれ伏して神様を礼拝してから、
7:12 こう言いました。「アーメン。 祝福と、栄光と、知恵と、感謝と、誉れと、力と、勢いとが、永遠に神様にありますように。 アーメン。」
7:13 その時、二十四人の長老の一人が、私に尋ねました。 「この白い衣の人たちがだれだか、わかりますか。 どこから来たか知っていますか。」
7:14 「わかりません。 どうか教えてください」と答えると、こんな答えが返ってきました。 「あの人たちは、激しい迫害をくぐり抜け、小羊の血でその衣を洗って、白くした人たちです。
7:15 だから、こうして神様の王座の前にいて、昼も夜も、神殿で奉仕しているのです。 そして、王座にざしておられる方によって、安全にかくまわれています。
7:16 もう二度と飢えることがなく、また渇くこともありません。 彼らは灼熱の太陽からも、完全に守られているのです。
7:17 それは、王座の正面に立たれる小羊が、羊飼いとして彼らを養い、いのちの水の泉に導いてくださるからです。 また神様は、彼らの目から、あふれる涙を、すっかり、ぬぐい取ってくださるのです。」

ずぶぬれの朝

2005-08-27 08:19:35 | Weblog
昨日も一昨日も雨が降りそうだったが、散歩の間は大丈夫だった。今朝はさわやかな秋を感じる朝、歩き始めて10分程でパラパラと降ってきた。そんまま気にしないで歩き続けた。しばらくたつとザアーと大降りになり、あわててハンカチを頭にかぶり、ずぶぬれになって山道を歩いた。
 雨がやみハンカチを絞ると水が滴り落ち、自分で水もしたたる好い男だと笑いながら歩いた朝だった。

 昨日は母の46年目の命日、一人でささやかに母のことを思いながら、神のなさることはみなそのときにかなって美しい!(伝道3:11)とのみことばを深く味わった。その後、母と同年齢の方とお茶をともにし、母が生きていればこんなだろうかなどと思いつつ、健康と長寿が与えられるように祈った。

 今日は、教会員で3年前102歳の高齢で召された兄弟の記念礼拝を自宅に招かれて行う。22歳のとき淡路島で結核になり死を宣告された。看護師の方がクリスチャンで聖書をプレゼントされ、イエス・キリストを信じ心にお迎えしてクリスチャンとなった。戦争中も自宅を開放して日曜学校を開き、戦後は大阪市内の自宅の庭にメソジスト教会を設立。現在も同地で教会は幼稚園とともに活動を続けている。
 奈良に移転したので教会を変わり、3年前102歳で召されるまで信仰生活を守られた。「神、もし我らの味方なれば、誰か我らに敵せんや」の聖書のことばを座右の銘としてしっかりと握り、召される1週間前に祈りをともにしたときも、そのことばをもって力強い祈りをささげてくれた。
 生卵健康法を編み出し、1日6個の卵の黄味(白味は捨てる)を健康に秘訣として長生きされた。私にも牧師は健康が大切だから、少なくても4個の黄味は飲まなければとよく勧めてくれた。家に帰って卵を割り、白味を捨てていたら家内に叱られ、実行しないままできている。生卵健康法という小冊子もあるが、生卵は少々苦手でもある。家内がテレビを見ていて卵は午前中に半熟を食べるのが健康に良いなどと話していた。食物は余りくよくよと気にせず、バランスよく食べるのが良いと思っている。
 102歳まで生きて5人の子どもに恵まれ、孫、曾孫合計で50名を越える家族で、先に召された良心と娘婿の3人以外は、皆さま健康でクリスチャンとして幸せに暮らしておられる。
 主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われる。使徒16:31の約束の真実を照明する家族でもある。

 明日は昨年召された53歳の兄弟の記念礼拝を富雄キリスト教会で行う。家族は三重県と東京からの参加だ。
 人生、どんなことが起ころうとも、愛なる神の御手が支え慰め励ましてくれる。天国に行くまで其の愛の御手に導かれて進める幸いを感謝している。

黙示録の天国
7:9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
7:10 彼らは、大声で叫んで言った。
  「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
7:11 御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、
7:12 言った。
  「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」
7:13 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と言った。
7:14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
7:15 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
7:16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
7:17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」




母の命日

2005-08-26 06:50:42 | Weblog
1951年8月26日は忘れることのできない日。小学4年生の夏休みのときだった。暑い日差しの中で遊んでいた。近所の方が大声で呼んでいる。
 「お母さんが・・・」その呼び声ですっ飛んで母の枕元に駆けつけた。母は病んでいた。若いときの火傷の傷が治りきっていなくて再発し、そこから病状が進み、医者も病院のない田舎のこと、適当な薬もなく日々衰弱していた。
 母と別れて暮らすようになっていたがいつも母のところに帰っていた。母はやせ細った手でしっかりと私の腕をつかんだ。「義之。ごめんな」とか細い声でささやくように言った。何でこんなときにと思った。そしてそれが地上での母の最期のことばとなった。母の手から力が抜けて腕からはなれ、母は息を引き取った。
 種子島の夏は暑い。ドライアイスがある時代でもない。その翌日はもう葬式。まだ土葬の時代。村はずれの墓地に向かって葬列は進む。先頭に旗を持って歩かされた。
 墓地に着くと、棺が墓に下ろされ最初に私が一掴みの土をかけ、隣の大人が最後の別れをと言う。と同時にどさっと周りの土でたちまちのうちに棺が覆われ、土まんじゅうができ白木の墓標が立てられた。
 母が死んだ!もうあの美しい顔も、優しいことばも聞こえてこない。人は死んだらお終い。愛も喜びも楽しさも消えていく。歯を食いしばった。泣くものか。我慢した。もう何もかも終わりだ。自分は生きているが母は死んだ。
 物も言わないで生きよう。歌も歌うまい。心の寂しさをそのような形でしか表現できなかった。

 16歳のとき、キリスト教会へ初めて出かけた。神は愛ですと聞いた。目にも見えない姿形もない、刻んだ像もない。生きている得る唯一の神。全知全能、遍在、永遠不変の神。聖く義なる神、公平で完全で愛なる神の存在を知った。
 その愛は、ひとり子イエス・キリストを十字架に釘付け死なせるほどに大きな愛。
 母は自分の病に勝てず37歳で死んだ。死にたくなかったはずだ。
愛する子どもを残して死ぬことはできないと思っても、「ごめんね」としか言えなかった。
 イエス・キリストは、私を愛して十字架に死なれた。全ての罪と病、のろいも貧乏も引き受けて、死と滅びも自分が背負って死なれた。そして3日目に復活した。
 その日にクリスチャンになった。以来48年、聖霊によって注がれる神の愛に守られ支えられて生きている。
 もう黙り込まない。心からハレルヤと叫び、声の限り歌うこともできる。喜びと平安、感謝と永遠の希望に輝く人生。
 神のなさることはすべてときにかなって美しい(伝道3:12)と、すべてのことに感謝しつつ、天国に向かって日々喜びつつ前進できる幸い!

 先日は自殺寸前の青年が、自殺から救われた。「イエス様。信じます。私の心にお迎えします。アーメン」 今朝、私とともに祈りませんか。そのように語る私の声を聞き、その声に合せて祈ったとき救われました。
 人生にどのような悲劇があり、悲惨な出来事や試練があろうとも、イエス・キリストを心にお迎えすれば新しい展開が始まる。今日を其のスタートの日にして欲しい。祝福を祈ります。

ところが、あなたがたは言います。 「神様は私たちを見捨て、私たちをお忘れになった。」
 「そんなはずはない。 母親がわが子を忘れ、愛さなくなることがあるだろうか。 だが、たといそんなことがあっても、わたしはおまえを忘れない。
 わたしはおまえの名をてのひらに入れ墨した。 イザヤ49:14-16



サファリで強盗に襲われた!

2005-08-25 08:53:53 | Weblog
 外務省海外邦人安全課によると、ケニア西部のマサイマラ国立保護区で22日午後6時半(日本時間23日午前0時半)ごろ、観光客グループが武装集団に襲われ、日本人の男女2人が親指を切られるなどのけがを負った。
 2人は堂保護区から宿泊先に戻る際、6,7人の武装集団に襲われ、男性は左手親指を刃物で切られてナイロビ市内の病院に運ばれた。
 命に別状はないと言う。
 女性も膝に擦り傷を負った。また、所持していたカメラや時計を盗まれた。(読売新聞24日朝刊より)

 ジンバブエではライオン襲われて女性が今週亡くなられました。悲しいことです。
 アフリカは怖いという印象を与えているようです。家内ももう行かないように!と娘に話していた。
 数年前、ナイロビの路上で二人組みの強盗にナイフを胸に突きつけられ、身体全体を手探りされた。お金を少し持っていたので千円(現地通貨で)くらいを取られ、やっと解放されホテルに戻り、警備員が飛び出して行ったが、もうどこにもいなかった。
 同じ年の夏には、日本人学校の校長先生が殺され足り、大学教授が半殺しの目にあったり、そのほかにも被害にあった方がいて難しい年でした。
 だからアフリカは怖い!と逃げるのではなく、その国の平和と安全を祈りつつ16年間も行き続けている。
 サファリでの強盗の話は始めて聞いた。詳しい事情は分からないが、マサイマラはマサイ族の保護地で、サファリは一番安全な所。今年は部屋に鍵もかけないで2日間を過ごした。サファリの外へ2人で出たのかな?と思った。
 いずれにしる安全に気をつけるのこしたことはない。現在の日本でも同じだ。家を出るとき、外に車を止めるときは鍵をしっかりかける。特に自動車は座席にカバンや荷物を放置したままで離れないように自戒している。


テサロニケ人への手紙第一より

5:3人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
5:5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
5:6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
5:7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。
5:8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。
5:9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。

ケニアからスタッフと孤児が来日

2005-08-24 07:29:16 | Weblog
土曜日にパラダイスのスタッフ、ラファエル・オウマと孤児で大学生になったオモンディが来日しました。
 大阪の会社で11月(ビザが切れる)まで仕事の研修です。オウマは20年前にも会社研修で日本にいたので、日本語も上手です。毎年のケニア宣教では通訳をしてくれています。日本語で説教するときは英語へ。英語で説教するときはスワヒリ語に通訳。長いこと日本語を使わないと忘れてしまうので、今回の3ヶ月滞在は大きな祝福になると思います。
 いずれにしろパラダイスが自立するよう祈りつつです。
 学校建設は始まりましたが、これから机やイス、教材やさまざまに準備する必要があります。それらのものは学校を始める教師たちの尽力により、ケニアで準備するようにと言ってはおりますが・・・・。
 
 台風の影響で少しだけ雨の生駒でした。今朝の散歩は傘を持って出ましたが、少しずつ晴れてきて手に持って歩きました。
 散歩道には何箇所か朝市があり、ポケットに100円玉があったので、大きなかぼちゃと大きな冬瓜を200円で買いました。
 傘をそこに置き忘れたので戻り、たまねぎ5個もなすび10本も100円だったので、重かったけれども下げて帰りました。
 昨日は朝の農作業をしている方が、ものすごい量の唐辛子とオクラを届けてくれ、毎朝新鮮な野菜に恵まれています。
 朝市で100円で買えるものは、苦瓜(ゴーヤ)3本、たまねぎ3-5個、ナスは最近良く取れるとのことで5-10本、かぼちゃ1個(ところにより200円)、オクラ20本ほど、明日葉やうまいや(ふだん草)、ほうれん草、ジャガイモやその他いろいろ季節の採り立ての野菜があります。
 5時頃から並べますので、6時過ぎにはほとんどなくなるほど人気があり、ときどき話を聞きながらポケットに100円玉があれば買うようにしています。
 
 朝の1時間は、祈りつつ聖書のCDを聞き、出会う方々におはようございますと挨拶し、ときには朝市で野菜を買いながら歩いています。
 誰とも出会わずひたすらに歩くときは1時間で7000歩余。立ち話をすると歩数が落ちもう少し余分に歩きます。
 ラジオ放送が朝5時5分のときは、聞いている方にであったりしました。現在は4時35分なので、そんなに早く歩くこともなく出会えなくて残念です。
 今朝は秋の空が広がっている穏やかな朝です。ハレルヤ!


詩篇 
 19:1 天は神の栄光を語り告げ、
 大空は御手のわざを告げ知らせる。
19:2 昼は昼へ、話を伝え、
 夜は夜へ、知識を示す。
19:3 話もなく、ことばもなく、
 その声も聞かれない。

19:4 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、
 そのことばは、地の果てまで届いた。
 神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。
19:5 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。
 勇士のように、その走路を喜び走る。
19:6 その上るのは、天の果てから、
 行き巡るのは、天の果て果てまで。
 その熱を、免れるものは何もない。

苦しみを喜びとしつつ

2005-08-23 06:43:34 | Weblog
 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。
 苦しみや悩みを経験しながら人生は進みます。苦難を乗り越え、立ちはだかった壁を乗り越えようとする、そのことによって私たちは育ちます。
 苦難も何もない楽チンな人生などと言うものは、決していいものではありません。
 「日照り続きは砂漠になる」ということわざが、アラビアにあるそうです。今年の夏雨が少なく日照りが続きました。香川県はダムの水量が減り、電力用の水を放出しながら雨の降るのを待っているとニュースが報じていました。
 信じる心が与えられ、心の深みに平安が与えられ、恵みと愛を感じながら、ことばに表せない喜びと感謝があふれる人生を体験することができます。
 イエス・キリストを信じる人生は、苦しみや悩みが一切なくなるのではなく、どんなときにも平安と喜び、感謝と希望にあふれる人生を力強く生きることです。
 
それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。ローマ5:3-5

 私たちはさらに、さまざまの問題や困難に直面した時も喜ぶことができます。 それは忍耐を学ぶのに役立つからです。
 忍耐によって、私たちの人格は筋金入りにされ、ひいては神様への信頼を深められるのです。 こうしてついに、私たちの希望と信仰は、強く、何ものにも動じなくなるのです。
 そうなった時、どんなことが起ころうと失望落胆せず、また、万事が益であるとわかります。 それは、神様がどんなに深く愛していてくださるか、わかるからです。 私たちは、そのあたたかい愛を全身で感じています。 それは、神様が聖霊様を与えてくださり、その聖霊様が私たちの心に、神様の愛を満たしてくださっているからです。(リビングバイブル)

 さまざまな問題に直面したときも喜ぶことができるのは、苦難の中でこそ忍耐を学ぶことができるからです。
 現実に苦難の只中に投げ込まれ傷つき、もだえ、嘆き苦しみ、悲鳴を上げながらも忍び耐える。人にバカにされ笑われあざけられながらも忍耐の限りを尽くしていくうちに、やがて強く、たくましく、大きくなった自分を感じるようになります。
 そのような人生を生きた方々の話を聞くとき、涙しながらもその真実に心打たれ勇気が与えられます。
 忍耐する力を蓄えることによって、どんなことが起ころうとも、あらゆる事態に対処することができるようになります。練達が生まれ、もはや失望の中に座り込むことがなくなります。必ず道が開かれることを信じ、太陽はいつも雲の上に!と、雨の日も曇りの日もハレルヤと心晴れ晴れ生きてゆきます。

ローマ人への手紙より
8:28 そして私たちは、神様を愛し、神様のご計画どおりに歩んでいるなら、自分の身に起こることはすべて、益となることを知っているのです。
8:29 というのは、神様はあらかじめ、だれが自分のもとに来るかご存じで、そのような人々がご自分の息子と同じになるようにと、最初から定めておられたからです。 それは、ひとり息子を大ぜいのクリスチャンの中で長子とするためでした。
8:30 神様は私たちを選び、招いてくださいました。 そして、私たちがおそばに行くと、私たちに「無罪」を宣言し、キリスト様の良い性質を下さり、神様との正しい関係を結ばせ、さらに、栄光を与えると約束してくださいました。
8:31 こんなにすばらしい恵みに対して、いったい何と言ったらよいでしょう。 神様が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。
8:32 神様は私たちのために、たった一人の息子をさえ惜しまずに、死に渡してしまわれたほどのお方ですから、ほかのすべてのものをも下さらないわけがあるでしょうか。
8:33 神様がご自分のものとして選ばれた私たちを、あえて訴えるのはだれですか。 神様ですか。 とんでもない。 神様は、私たちを赦し、ご自分と正しく関係づけてくださった方ではありませんか。
8:34 では、私たちに有罪を宣告するのはだれですか。 キリスト様ですか。 とんでもない。 キリスト様は、私たちのために死に、そして復活し、今は天で、神の右の最も名誉ある座で、私たちのために祈っていてくださるお方ではありませんか。
8:35 では、いったいだれが、私たちをキリスト様の愛から引き離せるでしょうか。 私たちは困難や災難に会い、また迫害され、殺されるかもしれません。 しかしそれは、神様が、もう私たちを愛しておられないからでしょうか。 また、もし私たちが飢え、文なしになり、危険にさらされ、死に脅かされるなら、神様に見捨てられたことになるのでしょうか。
8:36 違います。 旧約聖書にこう書いてあるからです。
「神様のためには、いつでも
死ねる心がまえでいなければならない。
私たちは殺されるのを待つ羊のようだ。」
8:37 しかし、こうした中にあっても、私たちは、いのちを投げ出してまで愛してくださったキリスト様によって、圧倒的な勝利を得るのです。
8:38 神様の愛から私たちを引き離せるものは何一つない、と確信しています。 死にもいのちにも、そんなことはできません。 御使いにもできません。 地獄の全勢力を結集しても、神様の愛から遠ざけることはできません。 今日の恐れも、明日の不安も同様です。
8:39 あるいは、私たちがどこにいようと――空高くのぼっても、海の底深くもぐっても――私たちの主キリスト・イエスの死によってはっきり示された神様の愛から、私たちを引き離せるものは、何一つありません。



絵本の読み聞かせ講演会に参加して

2005-08-22 06:39:06 | Weblog
 20日(土)21日(日)の両日、第6回絵本ギャラリーin奈良が、奈良教育大学を会場に開かれた。
 土曜日の朝、「今なぜ、読書なのか?」-いのち輝く本の世界ーその感動を伝えることの意味と題するする講演会に参加した。
 講師は中川良孝氏。
 活字離れの時代と言われているが、現状は子どもたちの読書傾向は増えてきており、家で本を読む親の姿を見ればモット増えるとのこと。
 子どもを本好きにする方法は、読書にふさわしい社会的な環境と、個人的な環境が必要。 
 読書に関しては、絶対避けたい強制と禁止のことば。「この本を読みなさい」「そんな本は読んじゃあダメ!」 ともかく子どもが読みたい本を読ませたら良い。本を読むと非行がなくなり、集中力がつき持久力を持つ子に育つ。
 本の読み聞かせがどんなに大切かを強調しつつ、前に並べてあった絵本を読み聞かせつつの1時間半でした。
 絵本の読み聞かせは、大人も子どもも、しみじみ・わくわく・どきどき・しんみりと、時間の過ぎるのを忘れるような楽しいひと時でした。
 絵本はささやかな趣味。本棚には数冊しかないが、読んだらあの子にこの子にとプレゼントしてしまう。
 講師の第一推薦絵本は、ラブユーフォーエバー 第二は大きな木だった。この2冊はまだ本棚にある。
 私の推薦絵本は、「もっと、なにかが」(絶版中)だ。絵本の美しい世界に、あるいはユーモラスな世界にホッとする。

 聖書を読む喜びも体験して欲しい。聖書を読む喜びは何にも変えがたい感激。聖書は難しいということをよく聞く。先入印象だ。読書百遍自ずから通ずで、読めば分かります。15歳のときから読んでいます。
 我が家の子どもたちは3年生のとき、聖書全巻を通読しました。理解できたか?って、読んだという満足感が大きな祝福になったと思います。
 聖書の絵本や児童向けの聖書もあります。でもじかに聖書を読むほうが楽しくおもしろい。聖書には振り仮名がついているから、字が読めたら誰でも読めます。
 聖書のことばを栄養に、真の幸せな人生をスタートしよう。天国に行くまで・・・。ハレルヤ。

詩篇
1:1 幸いなことよ。
 悪者のはかりごとに歩まず、
 罪人の道に立たず、
 あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、
 昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、
 水路のそばに植わった木のようだ。
 時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
 その人は、何をしても栄える。

19:9 【主】への恐れはきよく、
 とこしえまでも変わらない。
 【主】のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
19:10 それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。
 蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。
19:11 また、それによって、あなたのしもべは
 戒めを受ける。
 それを守れば、報いは大きい。

119:9 どのようにして若い人は自分の道を
 きよく保てるでしょうか。
 あなたのことばに従ってそれを守ることです。
119:10 私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。
 どうか私が、あなたの仰せから
 迷い出ないようにしてください。
119:11 あなたに罪を犯さないため、
 私は、あなたのことばを心にたくわえました。