牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

幸せに生き続ける秘訣

2010-07-31 09:07:02 | Weblog
 幸いです!と、イエス様は教えました。
 有名な山上の垂訓=説教(マタイの福音書5章3~12節)には、だれが幸いかを明確に述べています。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。

 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。

 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。

 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。

 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。

 どんな状況や環境でも、幸せであると認識しそう感じれば幸せなのです。

 旧約聖書の箴言にもすばらしいことば書かれています。 


15:13 心に楽しみがあれば顔色も喜ばしい、心に憂いがあれば気はふさぐ。


15:15 悩んでいる者の日々はことごとくつらく、心の楽しい人は常に宴会をもつ。

15:16 少しの物を所有して主を恐れるのは、多くの宝をもって苦労するのにまさる。

15:17 野菜を食べて互に愛するのは、肥えた牛を食べて互に憎むのにまさる。

5:18 憤りやすい者は争いをおこし、怒りをおそくする者は争いをとどめる。15:13 心に楽しみがあれば顔色も喜ばしい、心に憂いがあれば気はふさぐ。

17:1平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。

17:22 心の楽しみは良い薬である、たましいの憂いは骨を枯らす。

 幸せに日々を暮らすために、イエス・キリストを信じることが最大の秘訣です。アーメンと信じれば救われます。それだけで幸せです。幸せだから何をしても幸せに生きることができます。

 簡単な?秘訣は、笑顔で生きることです。心の楽しみは良い薬です。良薬口に苦しと言いますが、人生の試練や苦難は、かえって心の楽しみとなるのです。陽気な心は健康も良くします。

 喜びを抱く心はからだを養うが/霊が沈みこんでいると骨まで枯れる。とあるように、イエス・キリストを信じて罪を赦され、復活された方のいのちを聖霊により体験すると、どんなときでも幸せを持つことができるのです。

 幸せですから何があっても幸せに生きるのです。

そしていつも肯定的な心で、気持ちよく神様にアーメンと祈ることができます。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。ありがとうございます。OKでした。感謝しますと、天国に向かって前向きに進むことができるので幸せです。 

 人間ですから人間関係の中で生きています。相手を許す気持ちがいつも幸せに歩みに祝福を与えます。
  許しの心があれば、人から幸せを奪われることはありません。許し受け入れ愛していく力を聖霊が与え続けてくれます。

ローマ人への手紙


5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、

5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

わたしが最後に着たい服、ファッションシュー

2010-07-30 09:18:01 | Weblog
 「終活ファッションショー」~わたしが最後の着たい服~」開催とあるチラシを手渡されました。

 このショーに生駒聖書学院の副院長、前田基子牧師が一般公募で参加が決まり、出演する男女十数名とともに24ケ月間「終活」について学びました。

 これまでの来し方を顧み、現在の自分を見つめなおす作業を経て、「もし今日死んだとしたら?」の仮定のもとに、以下の3つの事を舞台で表現するショーです。

旅立ちの時に着たい服

葬儀でかけてほしい音楽

大切な人々に残すメッセージ

 死後を見据えたイベントですが、今ここに生きている時間を謳歌し、踊る者や歌う者、楽器演奏する者もあります。

 服装もウェディグドレスやアロハドレスなど、思い出の着物から普段着まで、様々な趣向で自分らしさの旅立ちを表現するファッションショーです。

 チラシにはイベント主催の目的が書いてあります。

 エンディング、遺言、終末期医療、おひとりさま、無縁社会、自然葬、墓の行方・・・・。最近こんなキーワードをよく耳にします。

 少子高齢化や価値観の変化によって生じたこれらの問題。では何をどう準備すればいいのか?何をどう考えれればいいいのか?誰もが不安や疑問を覚えながら、明確な答えを出せずにいるのではないのでしょうか。

 当法人ではエンディングに関するこれらの問題を、より広いスパンで捉えた「終活」を提唱しております。

 今回は、一般公募の出演者に「終活」の一部を実践して頂くことで、どなたにも親しみやすく、身近なものと感じていただける機会にしたいと考えています。

主催;デセオ(NPO法人生と死を考え、将来設計を実現する会)

 牧師として副院長がどのように「終活」どんな服を着て登場するかは明日の楽しみですが、大きく前に踏み出して活動する姿を明日は見たいと楽しみにしております。

詩篇

116:1 私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。

116:2 主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう。

116:3 死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。

116:4 そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」

116:5 主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。

116:6 主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。

116:7 私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。

116:8 まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。

116:9 私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。

116:10 「私は大いに悩んだ。」と言ったときも、私は信じた。

116:11 私はあわてて「すべての人は偽りを言う者だ。」と言った。

116:12 主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。

116:13 私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。

116:14 私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。

116:15 主の聖徒たちの死は主の目に尊い。

雨の朝になり二度寝の天国の一日!

2010-07-29 06:50:16 | Weblog
 夏の間に、教会案内やコミックなどをポスティングしようと、種子島でも持参したコミックや小冊子を朝早く、ゆとりの一万歩で配りました。

 昨日の朝は四人で光が丘に4時45分からポスティング。残った200部ほどを夕方一人でゆっくり一軒一軒祈りつつポスティングを続け帰ったら8時前でした。日中はものすごく暑いので早朝や夕方は涼しい?とも言えませんが、空き時間の利用で一石二鳥です。

 日本はまだ未伝道地だと思っているので、可能な限り広く大きく長く良い知らせをと願っています。生駒聖書学院が夏の間、朝の祈りの時間を午前7時にしているので、それまでの暑くなる前の時間がポスティングにはベストタイムです。

 もうすぐ素敵な教会案内(作成者は見ただけで礼拝に行きたくなるようなチラシをとあらゆる面から検討してくれています)が出来上がるので、教会員全員が配る意欲も大いに出るだろうとも期待しています。

 イエス様の全人類を愛して、すべての人の罪を背負い十字架上に死んでくださいま
した。墓に葬られ3日目の朝に復活し、今も生きておられる救い主です。

 最後のことばに、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。(マルコの福音書15章15~16節)があります。

 16歳の時種子島の小さなキリスト教会で、アーメン信じますと、今も生きておられ愛してくださるイエス・キリストを信じ心にお迎えし、その日に城之浜の海岸でバプテスマ(洗礼)を受けてクリスチャンになりました。

 アーメンと言えば救われます!すべての罪が赦されて神の子とされます。神の子ですから神の命=永遠の命を与えられ、生きていても死んでも神とともに生きる幸いを感謝します。

 今日もまた天国の一日です!と、何があろうとなかろうと、すべてのことに感謝し平安に守られて働くことも幸いです。

 一日の終わりには、ありがとうございます。今日もまた天国の一日でした!感謝します。おやすみなさいと熟睡。朝には地上に使命を与えられて生かされている恵みに感謝しつつ、「 私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い」(哀歌3:22-23)

 そして、「これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう」(詩篇118:23-24)と詩篇を口ずさみ、今日もまた新し天国の一日です!

 生駒聖書学院は九月入学もあるので、献身を考えている方、全寮制で男性寮・女性寮・家族寮(2LDK)それぞれ別棟が広い敷地に建っています。

 大坂周辺だと通学生も可能です。現在5名が通学しています。また聴講制度もあります。体験入学も受け付けていますので、ぜひ福音のすばらしい伝え手として生涯を主に献身してください。

 お問い合わせは、
電話.FAX.0743-74-7622  
メール:elimyoshi@kcn.jp

学院見学希望者は、奈良県生駒市俵口町951 生駒聖書学院までお出かけください。

マルコの福音書

16:15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

16:16 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

16:17 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、

16:18 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」

16:19 主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。

16:20 そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。〕

16:21 〔さて、女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間の人々にさっそく知らせた。その後、イエスご自身、彼らによって、きよく、朽ちることのない、永遠の救いのおとずれを、東の果てから、西の果てまで送り届けられた。〕


腕時計が二つともストップした朝

2010-07-28 10:12:21 | Weblog
21日~26日まで福岡県八女市や鹿児島市、そしてふるさとの種子島まで出かけていました。

 第二阪奈道路、阪神高速道路、中国自動車道、山陽自動車道、九州自動車道を往復2000キロほど走行し、種子島ではレンタカーでドライブでした。 

 多くの出会いとたくさんの祝福の旅で、13歳の孫娘も一緒でヴァイオリンで集会に華を添えてくれ、アンコールの拍手もいただいたりで楽しい時を過ごしました。

 神学生もハンドルを握り、交互に運転したのでほとんど疲れもなく幸いでした。往路は朝4時に起き4時半に学院出発。富雄で孫を乗せちょうど5時ヲスタートに八女市の午後2時の集会へ。途中朝飯と昼食を取り、ハイブリットカーガソリン満タンで八女市までOKで、富雄キリスト教会を出て8時間でヤメフロンティアチャーチ祈りの家の集会40分前に着きました。

 公園の宿で翌朝ゆとりの一万歩を終え朝食一路鹿児島へ。桜島から噴煙が天を突き上げるように大空の伸びています。風に乗って火山灰が降り注ぐ鹿児島市内で、昼食を楽しみ水族館や城山公園では、眼下一望の元にしないと噴煙の桜島が見え、猛暑を忘れさせるような涼風の中の数時間でした。

 長いこと留守にしていたので、今年の夏の予定ポスティングを行うことにし、午前4時起床。4時半出発で配り続けて6時過ぎに帰着。大急ぎで洗顔、ひげそり、シャワーで朝の祈りと聖書の学びの時間でした。

 日中に配るより早朝のほうがスピードで動けるし、何よりも直射日光を避けるのでベストタイムでした。

 朝出かけるとき、4時30分の見て腕時計をはめたが、現地に着いて時計を見るとまだ4時半?何んと時計が止まっていました。

 ポスティングを終えてシャワーを済ませ、午前7時からの祈り会10分前に別の時計をして院長室へ。なんとまたその時計も腕に巻いた時間でストップしており、不思議な二本の腕時計でした。

 ゆとりの一万歩の万歩計の時計で時間を見ながらのあわただしい朝のひと時を過ごしています。

 今日もまた天国の一日です!祝福を祈ります。アーメン。

イザヤ書

12:1 その日、あなたは言おう。「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」

12:2 見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

12:3 あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。

12:4 その日、あなたがたは言う。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。

12:5 主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。

12:6 シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。」

明確にハッキリと祈れる恵み

2010-07-27 08:58:03 | Weblog
イエス様がエリコの町へ行かれたとき、道端に座って物乞いをしていたバルテマイという目の見えない男が叫びました。彼を黙らせようと大勢でたしなめましたが、彼はますます「イエス様。わたしをあわれんでください」と叫び続けます。



 イエス様はその声を聞くと立ち止まりました。それは、今の時代も変わりません。イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも同じお方です。永遠に変わることなく生きている救い主です。



 祈りは叫びです。求めることは他の人から見たらおかしく思われることもあるかも知れません。しかし、主の名を呼び求める者は救われるのです。



 イエス様は立ち止まり、「あの人を呼んで来なさい」とバルテマイの叫び求める声に答えました。



 彼は上着を脱ぎ捨ててすぐに立ち上がり、イエス様のところに来ました。目は見えなくても、彼の顔が喜びに輝いている姿を想像できます。「わたしに何をしてほしいのか」と言うイエス様の問いに、響くようにバルテマイは、「先生。目が見えるようになることです」と答えます。



 イエス様は、「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。その瞬間、彼は見えるようになり、イエス様のいかれる所に従いました。



 朝ごとの祈りの時や日々の瞑想の時に、「わたしに何をしてほしいのか」との声を聞く思いを与えられます。様々なことを祈り求めているけれども、いつの間にか言葉を並べているだけで祈りの時間を叫び続けている姿に気付かされます。



 「主よ。お金が必要です」「主よ。病んでいる兄弟を回復してください」「開拓伝道中の牧師の働きを祝福してください」「臨終を迎えている姉妹に平安と天国の輝きをお示しください」。その日の必要のために、主の助けと解決を明確に求める幸いを経験する祈りの時です。



 だれにでも惜しげなく、とがめることもなくお与えになる神に純粋に願うなら、必ず与えられます。少しも疑わずに、バルテマイのように信じて願うだけでいいのです。



 もうすぐ孫が5歳の誕生日を迎えます。「じいちゃん。誕生日のプレゼントを買ってくれる? お花屋さんのセットだけど」と幼い願いです。



 願った孫もですが、そのように言われた祖父の顔は喜びで輝き、孫を抱き上げて祝福を祈ります。まことの愛なる神は、イエス・キリストのお名前による祈りを必ず聞かれます。明確に信じて具体的に祈る恵みを体験してみませんか。



 信じますと明確に祈りで告白するとき、祈りは必ず実現します。心の信仰と口に出す言葉が常に一致する祈りでありたいものです。



 ラーメンが食べたいと朝から思っていても、食堂へ行ったときウドンと言ったならウドンが出されます。どうしてウドンですか、ラーメンをと朝から思っていたのにと、いくら頑張っても言った通りになっただけです。



 祈りの答えは、願いを明確に心で信じることと、告白の言葉を一致させることです。心の中の願いを明確にすると、思うだけよりも百倍も千倍も大きな祝福を体験できます。バルテマイの祈りを模範にしましょう。





喜びに満たされる祈りを

2010-07-26 07:33:59 | Weblog
人はだれでも危険や苦しみに出会った時、自然に「神様!」と手を合わせるようです。苦しい時の神頼みとも言えるでしょう。しかし、そのとき本当に聞いてくださる真の神を持っているかいないかで大きな違いが起こります。

 人間は神にいのちを与えられているので、どんな時でも神の栄光を表すために生かされています。

 イエス・キリストは、失望しないで祈りなさいと教えました。苦しい時の神頼みではなく、いつでも、どこでも絶えず祈り続けることを勧めています。祈りが呼吸に例えられる所以です。呼吸が止まれば人は死ぬように、祈りが止まれば信仰はストップします。

 現在世界で起こっている地震(特にハイチ大震災)のためにも、わずか30秒でも日本(世界)中のクリスチャンが祈ることが、世界に大きな変化を起こすことができるのです。

 最高の祈りは、何も心配や思い煩ったりしないで、どんなことにもどんなときにも心から「ありがとうございます」「感謝します」との気持ちでお願いすることです。心がこもらないままでクドクド祈るのは、今日を限りに止めにしたいものです。

 祈りをすることは神のご命令です。また、私たちが誘惑に負けないで、勝利に輝く天国の毎日をすごすためにも、祈りが必要です。絶えず祈り続けるためには、自らの決意や持続力と同時に、聖霊によって祈ることが秘訣です。

 聖霊は神のみこころの深みまでもご存知です。聖霊によって祈る時、心は深い平安に満たされ、絶え間なく注がれる神の愛を豊かに受け、願ったもの以上の霊的祝福を受け、祈りの座から立ち上がったときは、新しく力を受けて、走っても疲れず、歩いても弱らず、わしのように飛翔することができるのです。

 祈っているときクリスチャンは幸福です。天の父と語らう幸いは何にも勝る祝福の時です。神の子ですから、そこには自由があり、喜び平安感謝があふれます。涙するときも、その涙を真珠の輝きに変えてくださる愛と慰めの御手がいつも支えてくださるから、涙を拭って立ち上がることができます。

 結婚後12年目に長男が生まれました。父になって初めて、聖書の父なる神の心が実際的にも少し分かるようになりました。ことばをしゃべれなくても、子どもは父の膝に近づいてきます。バブバブ・・・・その時の嬉しさは言葉では表現できないほどです。私たちも神の喜びの御顔の前にいつも出ることができるから、恐れないで「アバ、父!」と御顔を仰ぎたいものです。

 もう少し大きくなると、片言のことばで語りかけてきます。そして自分がしてもらいたいことや必要なものを求めるようになります。危険なものやそのときに不必要なものは、説明して納得させて与えないようにもします。

 そのときは絶対とおもったのに、時間が経つと不要だったものも結構多く、結果的に祈りが答えられたことに気づき感謝する場合もあります。

 最近は2歳の孫が遊びに来ると、書斎部屋に黙って入ってきて、側で遊んでいるときがあります。声を掛けると自分がして欲しいことを求め、願いが聞かれると顔をキラキラ輝かせながら喜びいっぱいです。

 クリスチャンは時代がどのようであれ、敗惨の生活や喜びのない窮乏の生活に打ちのめされたまま過ごすことはありません。祈っている限り、神との関係が正常でさえあれば大丈夫です。祈れないとつぶやく前に、わずか30秒でも祈るとき、そのスタートが甘美な神との交わりになり、気がついたら時間の立つのも忘れて神と語らい祈り、世界が変えられていたこともあります。

 「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」(ヨハネの福音書16:24)


祈りを聞かれる神

2010-07-25 05:59:21 | Weblog
祈りを聞いて答えてくださる愛なる神を、天のお父様として知っている幸いを感謝します。人が作り上げた偶像は、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、口があっても語れず、それにひれ伏し拝んでも何の価値もありません。

 真実の神は生きている神で、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。

 すべてのことを際限なく分かってくださる、全能で全知なる神に、天のお父様と祈れることは最高の恵みです。

 神はその全知全能の御力で天地万物を創造し、不可能を可能としてくださる奇跡の神で、祈りを聞かれることがそのご性質です。

 「祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます」(詩篇65:2-3)と詩篇にあるとおり、祈りをお聞きくださいます。

 子どもが親に話すように、神に祈って近づくことができます。神は無限の愛とあわれみで近づく者を受け入れてくださいます。人間は誰ひとり神の前に出る資格も価値もありません。ただ滅びに定められた罪人でした。その罪人のそむきの罪を、イエス・キリストの十字架の死と御子イエスの血によって赦し、きよめて、神の子としてくださいました。その愛とあわれみは、今日もなお聖霊によって無限に注がれ続けています。

 愛なる神は祈りを聞いて答えてくださいます。自然の世界は、神が祈りに答える神であることを如実に示しています。植物の世界は神の心で潤され、人が祈らなくてもすでに豊かな食物を生じさせています。聖書は動物でさえ、神が願いに答えてくださることを期待していると述べています。

 「主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは、それらをみな、知恵をもって造っておられます。地はあなたの造られたもので満ちています。そこには大きく、広く広がる海があり、その中で、はうものは数知れず、大小の生き物もいます」(詩篇104:24-25)

 自然の植物や動物は、声を出して神に祈るわけではありませんが、野の百合を装わせ、空の鳥を養い、一羽の雀の落ちるのさえも心に留めてくださる神に祈ることができるのです。

 神は無限のあらゆる良い贈り物を持っておられます。「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません」(ヤコブ1:17)

 神は時代や民族、国家の隔てなく変わらない愛を持って、祈りに答えようとしておられます。祈りをお聞きくださる神のみこころに従い、イエス・キリストのお名前によって大胆に祈り求める幸いを体験しましょう。

 そして、30秒の祈りであれ、長時間の祈りであれ、必ず「ありがとうございます。聞かれました。答えられました。与えられました。実現しました。感謝します」と祈りを聞かれたことを告白し、神の子として胸を張って前進しましょう。

今すぐの祈りを

2010-07-24 08:08:12 | Weblog
今朝開いた聖書の一節に、「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」(イザヤ65:24)とあります。

 苦しい時の神頼みという言葉があり、場当たり的な信仰と思われることもあります。しかし、苦しみや悲しみの時、切羽詰まったり進退窮まるようなとき、祈ることができるのはすばらしいことです。

 それは自分の場合だけでなく、人の話や悩みを聞いた時も同じです。後で祈ろうなどと思わないで、その場で一言でも祈ることができれば最高です。

 日本人初の救世軍士官で初代の日本救世軍司令官であった山室軍平中将(1872~1940年)は、手紙の最後に「祈ります」と書くと、その場でペンを置いて祈ったそうです。

 今すぐに祈ることを習慣にすると、祈ろうと思ったことが山積みにならないで、絶えず祈る幸いを経験することができます。

 朝の目覚めとともに、「主よ!(神様、天のお父様、イエス様などいつも呼び掛けているように)おはようございます。今日もまた天国の一日です!」と言えば祈りになります。

 不平不満を言えば愚痴になりますが、天のお父様と口に出して言えば、どんな愚痴も言葉も祈りに変わります。

 詩篇の中に、「 主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします」(5:3)とあるように、神様に朝ごとに声を聞いていただけます。短くても声を出して祈ってみることです。

 メールや手紙を開き、「お祈りください」との言葉があれば、その場で短く「主よ、お守り(平安、慰め、勇気、いやし、助け、満たし等)くださいと、必要について祈ることができます。長い祈りが必要なときは、時間をとって祈りますが、その場で短くても祈ることはすばらしいことです。

 毎週の礼拝でも、多くの新しく来られた人との出会いがありますが、歓迎の握手をして、「アーメン。イエス様を信じます」と、祈ることができます。教会は特別に聖霊の雰囲気が溢れているので、「イエスは主です。信じます。アーメン」と祈りやすい最高の場です。そのようにして今年も多くの方々が、救われバプテスマを受けています。

 悩みや問題をお聞きしても、その場で握手をして短く祈ります。

 イエス様は、「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます」(マタイ18:19)と約束されたので、心を一つにしていることを握手で表現しています。

 有名な牧師にとか、偉大な人に祈ってもらったらではなく、2人が心を合わせて祈れば、それをかなえてくださる約束です。

 散歩の時や車を運転しながら、電車や新幹線、飛行機の中でも、いつでもどこでも主イエス・キリストのお名前で祈れることは幸いです。

 仕事の場で声を出せない時でも、心と思いの中で短く、「主よ!助けてください。守ってください。特に、相手の方に祝福を!」と念じます。

 祈りは念じることでもあり、「念」という字は今の心と書きます。今の気持ちをそのままイエス・キリストのお名前で祈るとき、考えられないようなすばらしいことが起こります。

 「ありがとうございます。聞かれました。感謝します」と、感謝を忘れないようにするとき、平安と喜びが心を支配し、顔も輝き元気も出ます。

 「今日もまた天国の一日でした!」と、平安の中で熟睡の恵みも与えられます。

 主よ。今年のすべての祈りをお聞きくださりありがとうございます。祈りが、願いや思いをはるかに越えて応えられました。感謝します。アーメン。

 詩篇34:15~22
 主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。
 主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。
 彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。
 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。
 正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。
 主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。
 悪は悪者を殺し、正しい者を憎む者は罪に定められる。
 主はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。

あなたの願いは聞かれた!

2010-07-23 07:11:03 | Weblog
御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます」(ルカ1:13-14)

 クリスマスおめでとうございます。全世界で、「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」(ルカ2:14)との祈りが捧げられる季節です。

 今年でクリスチャンになって53回目のクリスマスを迎えます。そしてザカリヤへの御告からいつも神の真実にアーメンと祈りを深く導かれます。

 父は大正時代、外国航路の船乗りでした。当時は帆船で一度航海に出るとかなりの期間、外国を周りました。当時神戸市に新居を構えた父は、徳之島から嫁いできた妻を、キリスト教会へ誘い、ふたりとも熱心なクリスチャンになりました。

 長男が生まれたとき、「すべて最初に生まれる者を、主のものとしてささげなさい」(出エジプト13:12)に従い、牧師は、両親の祈りと願いを受け入れ一仰と命名、献児式を行いました。

 船を降りた父は、郷里の徳之島に帰りましたが、同時に信仰をも失ってしまい、共産主義を報じ無神論者になりました。

 牧師となるように捧げられた兄は、長崎三菱造船学校で造船技師を目指して学んでいましたが、第二次世界大戦集結により学校も閉鎖になり、種子島で大工になり、酒と喧嘩の明け暮れでした。

 志を立て大阪へ出てきましたが、環境が変わっても心は変わらずで、飲む打つ買うの三道楽から堕落の道へとはまっていきました。

 いつものように仕事を終え、酒を浴びるように飲んだまま教会の前を通りかかり、誘われて中に入りそのまま寝入ってしまいました。

 目覚めよ!の声に、体と同時に心も目覚め、イエス・キリストの十字架を信じ救われました。そして30歳の時に献身を決意し、今でも自分が救われた教会で牧師として仕えています。

 30年前に両親が熱心に求めたことがかなえられたことを思うとき、祈りをする勇気と信仰が与えられます。

 クリスマスが近づくたびに、「恐がることはない。あなたの願いが聞かれたのです」との、ザカリヤへの天使の御告が、神のことばは生きていて力があることを、改めて新しく思わせてくれます。

 祈りの時、様々な恐れや不安に襲われます。こんな事を祈ってよいのだろうか?みこころだろうか?果たして自分のような者が祈って良いのだろうか?

 祈りを終わってアーメンと言っても恐れは消えず、祈らなければ良かったと思うときさえあります。

 しかし、どのような短い祈りでもアーメンは本音ですという真実の求めです。クリスマスのこのとき、今年一年の祈りが聞かれたと確信し、今まで求めてきたことがまだ実現していなくても、「こわがることはない。あなたの願いは聞かれたのです」とのことばに平安な心で、すばらしいクリスマスを祝いたいものです。

 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。(エペソ人への手紙3:20-21)

祈りのグッドタイミング

2010-07-22 09:15:04 | Weblog
グッドタイミングで物事が展開していくときに楽しくなり、感謝があふれます。



 下記の内容のはがきが届きました。



 「10月23日、車の助手席に乗せてもらっていた時、上半身の骨がバラバラになる大事故で入院中です。幸いいつも聞いているラジオ放送のイエス様に助けられて一命を救われました。これからが大変だと思いますが、主人もガンで苦しんでおり、一日も早く怪我が回復することを願っています。病床で賛美歌を口ずさみ、主の祈りを唱えています。お祈りをお願いします」



 表書きをみると病院名の記述はなく、「病院にて」とだけありました。長年のラジオ聴取者でもあり、自宅へお見舞いに出かけました。



 マンションの3階のベルを押しても反応はなく、ドアの前で短く祈りました。ポストは階下だけなので見舞カードだけでも入れて帰ろうと思い階段を降りると、エレベーターが上にあがりました。



 もう一度階段を駆け上り、チャイムを鳴らすとグッドタイミング。ちょうど病院から40日ぶりに退院したばかりでした。ともに感謝の祈りをし、さらなる回復を祈りました。



 短い祈りでしたが、とても喜んでくれました。ラジオ放送を長年聞き続けておられ、イエス・キリストの十字架の救いを体験されていました。



 どんなに短くても、単純に素直に祈る時、グッドタイミングの答えが与えられることをしばしば経験でき、感謝しています。



 また、別の機会にお会いした婦人は、乳がん骨転移(複数)のため、5年生存が3割、10年生存が0・7割という診断を受けました。



 10年を元気にこえられる人はまずいないと言われた中、祈りと信仰により9年目、元気に2時間かけて教会に来られるようになりました。



 さらに、乳がん骨転移は、今年の6月に主治医より治療卒業と宣言されました。とりあえず、という言葉はついていますが、長い忍耐と祈りのグッドタイミングだと感謝しておられます。泣いたり笑ったり謝ったりの変な祈りのときもありましたが、神さまの愛とイエス・キリストの救いといやしの御業は変わらずでした。



 その方は、ただ「病の具合がよくなったから」感謝します、というだけではありません。病を与えられたことによって、苦しみの中でいつも神さまが寄り添ってくださり、暗闇の中にいた自分の手をとり、光の中に連れ出してくださり、御国への希望までも与えてくださったこと。それに対して、どう表現していいか分からないほどの感謝にあふれています。



これからの与えられた時間を、「?(疑問のクエスチョンマーク)」ではなく、「!(感動のビックリマーク)」で歩んでいきたいとのお証しでした。



 短い祈りだけでなく、長い忍耐の祈りの中にも神さまの愛のグッドタイミングが豊かにあることを教えられて感謝しています。祈りは、聞かれ続けていました。感謝しますと、栄光を主に帰しつつ喜びにあふれ、今日もまた天国の一日です。



 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6〜7)