牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

頭から足先まで全身が若返る

2012-01-31 09:32:05 | Weblog
今日もまた天国の一日です!と朝の目覚めとともに告白して、一日をスタートします。

 朝が早いので夜は早く就寝します。

 「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから」

 「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます、」と詩篇3篇5節&4篇8節のことばどおおり安眠です。

 朝の目覚めは、「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします」(詩篇5:3)のとおりにスッキリと目覚めます。

 命があり息をしていることが奇跡の朝です。
 「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い」(哀歌3:22-23)

 アンチエイジングの本を読んでいたら、「8つの柱を立て直せば、頭から足先まで全身が若返る」とありました。

 家内が朝ごとに頃若返ったようですねと言ってくれますが、知らず知らずのうちに8つの柱がしっかりしていたことを知り、神様の恵みに感謝しています。

 第一の柱=口ぐせ
 言葉の使い方一つで、老けこむ口ぐせをやめるだけで脳が変わり、引いては身体もエネルギーで満ちて行きます。

 最高の聖書のことばを毎朝告白している幸いに感謝します。

詩篇1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

 第二の柱=スタイル=体系、生活習慣

ヨハネの第三の手紙1:2 愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。

 第三の柱=顔や見た目
 肌ツヤや表情、顔もしっかり洗って、風呂にも入り身体をきれいにすることも大切です。
 少年のような目の輝きをいつまでも忘れずに!
 
サムエル記第一 16:12 エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」

第四の柱=足腰

 ゆとりの一万歩も8年と4ケ月目。足は第二の心臓とも言われます。下半身の「筋力が増せば、背筋もピンと伸びて、見た目もみるみる若返って行きます。

イザヤ書 40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

第五の柱=脳

 毎日、一読十笑百呼千字万歩で、脳は活性化します。

テサロニケ人への第一の手紙5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

第六の柱=心

 怒りや不平不満、思い煩いや心配事をため込んではいませんか。ストレスは心と体の毒素です。毒素を取り除けが体調も良くなります。
 心の軽さ、明るさは身体の若さと密接につながっているのです。

 今日もまた明るく元気でさわやかな天国の一日です!すべてのことに感謝して、明るく輝く喜びの日々を祈ります。

マタイの福音書11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

第七の柱=骨
 骨折や寝たきりにならないために、少しでも歩く、部屋の中でも歩けない人は手や足を動かすだけでも良いと思います。

イザヤ書 58:11 主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。

第八の柱=内臓、血管
 メタボ解消に役立つ習慣、内臓も血管の健康になると長寿人生になります。

詩篇65:20 そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。

 上記は、頭が冴え、疲れない体になる「この習慣」を続けなさい」佐藤富雄著、三笠書房刊から、八つの柱を紹介しました。

詩篇

103:1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。

103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

103:3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、

103:4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、

103:5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。


どんな時でも十字架の愛を歌おう

2012-01-30 06:53:05 | Weblog
イエス様は十字架に死なれる前夜、弟子たちと夕食を取りました。

 そのときの様子が以下のように記録されています。

 さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」

 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。

 イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」

 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。

 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」

 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

 ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

 そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。
(マタイの福音書26:20-30)

 裏切りや弟子たちの悲しみ、翌日の十字架の死を直前にしながら、賛美の歌を歌う最後の晩餐の席を思い、どんな時でも歌える姿に感動します。

 悲しみの時にも喜びの日も、たとえ殉教の炎に包まれながらでも、イエス・キリストを信じる者は歌い続けます。病の床、楽しい食卓、結婚の幸せの時、どんなときにも歌い続けます。

 歌わない、音楽の時間は何を言われても口を閉ざしたまま中学3年までを過ごした少年時代でした。

 三つの賛美歌が閉ざした心を開き、音程は外れていても口に出して歌えるようになりました。

 教会へ行こうと思ったのは、賛美歌404番の山地越えてでした。

山路こえて ひとりゆけど、
  主の手にすがれる 身はやすけし。

 松のあらし 谷のながれ、
  みつかいの歌も かくやありなん。

 峰の雪と こころきよく、
  雲なきみ空と むねは澄みぬ。

 道けわしく ゆくてとおし、
  こころざすかたに いつか着くらん。

 されども主よ われいのらじ、
  旅路のおわりの ちかかれとは。

 日もくれなば 石のまくら、
  かりねの夢にも み国しのばん。

 義母の葬式で歌われた賛美歌です、その歌を聞きながら永遠を思いました。

 キリスト教会の礼拝に行き、いつくしみ深き友なるイエス(讃美歌312番)に感動し、歌詞を直ぐ覚えて種子島の海辺や山道を歩きながら歌うと言うより唱えたものです。

 そして、1957年11月24日(日)の礼拝でイエス・キリストをアーメンと信じるきっかけとなったのが、十字架の血に手きよめぬればとの賛美歌515番でした。

十字架の血に 清めぬれば
来(こ)よとの御声(みこえ)を 我は聞けり

主よ我は 今ぞ行く
十字架の血にて 清め給え

弱き我も 御力(みちから)を得
この身の汚れを みな拭(ぬぐ)われん


真心(まごころ)もて 切(せつ)に祈る
心に満つるは 主の御恵(みめぐ)み


ほむべきかな 我が主の愛
ああ、ほむべきかな 我が主の愛

 「主よ我は 今ぞ行く 十字架の血にて 清め給え」と、歌っているときに聖霊のお働きで頑なな心が砕かれ、アーメン。信じますと手を上げ、その日の午後に種子島の海岸でバプテスマを受けクリスチャンとなり、幸せな日々を導かれつつの朝です。

 「いつくしみ深き友なるイエスは」のメロディで恵みを歌おうと決心し、ゆとりの一万歩で山道を歩くたびに、ひとりで歌い続けてきました。

 教会員には詩人や小説家、俳句や短歌の専門家も多く、名編集者や文学を学んだ方々がたくさんおります。

 推敲もしない思いつきの歌を、しかも音楽家も多い教会で、歌ってもらうのは気恥しいと思いながら、厚かましくお許しをいただいて、みんなで歌ってもらっています。

 今朝も目覚めとともに、今日もまた明るく元気でさわやかな天国の朝です!と告白し、
感謝の天国の一日がスタートしています。

主イエスよ あなたの 十字架の犠牲
その友のために いのちを捨てる
大きな愛を知り 信じた日より
このいのち捧げ 献身の道

主イエスよ あなたの 十字架の愛を 
伝えるためにと 御霊の力
新たな情熱  いのちの息吹
心燃やされ 福音語る

主イエスよ あなたの 十字架の救い
信じる者には 生まれ変わりを
神の子とされて 永遠(とわ)のいのちを
豊かな実りと 栄える日々を!

ペテロの第一の手紙

2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

とりなす祈りの祝福を

2012-01-29 09:05:25 | Weblog
とりなすとは、対立する二者の間に入って、うまく折り合いをつけることです。仲裁することや仲介者はとりなす心が必要です。

 とりなしの祈りとは、他の人の代わりに神様に祈ることです。祈りでとりなすことは、旧約聖書で、アブラハム、モーセ、ダビデ、サムエル、ヒゼキヤ、エリヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルなど多くの実例があります。

 新約聖書では、イエス・キリストの十字架上でのとりなしの祈り、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)が有名です。

 そして今もなおキリストとりなしの祈りで、アーメンと信じるとき救われるのです。「キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」(ヘブル7:24-25)

 十字架上に死に墓に葬られましたが、三日目の朝に死を打ち破り復活された主は、今も生きておられて救うだけでなく、信じたクリスチャンのためにとりなしの祈りを続けてくださいます。
 「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」とローマ書に書あるとおりです。

 
 アーメンと信じてイエス様を心にお迎えした日から、地上の生涯を終えて天国に召される日まで、どんなことがあろうと守られ続けるのです。

 「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:37-39)


 そればかりではなく、すべてのクリスチャンはとりなしの祈りをする者として召されているのです。クリスチャンが積極的にとりなしをすることは、神の願いなのです。

 全能で愛なる神の御座に大胆に近ずき、私たちの祈りと願いでとりな詩祈れるとは、すばらしく高い特権ですね。

 今日の日本ほどとりなしの祈りを必要としている国はありません。
 東日本大震災、大津波被害、原子炉から漏れる放射能問題、風評被害、政治の混乱と経済の先行き不透明さ。世界的経済の混乱、子どもの教育やしつけなど、自らをその立場に置いてとりなす祈りをささげようではありませんか。

聖書のとりなしの祈りを引用します。

アブラハムのとりなしの祈り
創世記18:22 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。
18:23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。
18:24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。
18:25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」
18:26 主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」
45人~40人~35人~30人~20人~10人
18:32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」

モーセのとりなしの祈り
出エジプト記32:30 翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は主のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう。」
32:31 そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。
32:32 今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」

ダニエルのとりなしの祈り
9:4 私は、私の神、主に祈り、告白して言った。「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。
9:5 私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行ない、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。
9:17 私たちの神よ。今、あなたのしもべの祈りと願いとを聞き入れ、主ご自身のために、御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください。
9:18 私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。
9:19 主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。主よ。心に留めて行なってください。私の神よ。あなたご自身のために遅らせないでください。あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているからです。」


パウロのとりなしの祈り
ローマ9:1 私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。
9:2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
9:3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。
そして、すべてのクリスチャンにとりなしの祈りは求められている
第一テモテ2:1 そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。
2:2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。
2:3 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。
2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
2:5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。
2:7 そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ――私は真実を言っており、うそは言いません。――信仰と真理を異邦人に教える教師とされました。
2:8 ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。

とりなしの源は聖霊
ローマ8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

とりなしの祈りの祝福
エペソ6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
6:19 また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。

 とりなした人はみな特別な祝福を受けている。神様に祈れる祝福とその特権を思いますが、人の祝福を祈るのには、その祈りたい思いが大切だと思います。

語り明かそう!種子島バンザイ

2012-01-28 11:26:02 | Weblog
 久しぶりに東京一泊でした。インターネットでホテルメトロポリタン丸の内を予約し、最上階(34階)に案内されました。

 東側に面しており遮る建物が一つもなく、昇る朝日がきれいなホテルでした。初めて会う原人さんが訪ねてくださり。四時間近く種子島情報をお聞きすることができ幸いでした。

 昭和30年代までは人口7万程でした。種子島は西之表市・中種子町・南種子町の1市2町です。種子島の現在の人口は約3万5千人。 内訳はおよそ西之表市1万8000人、中種子町9500人、南種子町6800人です。

 種子島移住もあるようです。空き家も多く家賃は1万5千円くらいからだそうです。西之表市は移住者用の住宅を5棟建設しましたが、家賃が6万円で移住者は一軒入居しただけで、後の4軒には市内の方が入居しました。

 高収入の仕事がない島なので、6万円の家賃を払って生活できる移住者は、そういないようです。

 また、母屋や離れが空いていても、移住者に気軽に貸すような方も多くなく、空き家のままで朽ちていく家もあるようです。

 もともとが移住者の島でしたが、最近はさまざまな事情で難しい部分もたくさんあるようです。 
 
 種子島を出たのが昭和34年(1959年)でした。神学校を卒業して3年ぶりに帰島しましたが、それ以後は時々帰るだけでした。

 1903年にキリストの教会全国大会が、ニュー種子島ホテルで開催され、講師として招かれました。ちょうどホテルオープンの時でまだ誰も泊まったことのない新しい部屋で寝たことなど思い出しています。

 それ以来、毎年種子島へ帰り西之表キリスト教会と、バプテスト連盟種子島新生キリスト教会でメッセージをさせていただいております。

 種子島を出て50目(3年前)から日曜日の礼拝説教と、バプテスト教会では夜の礼拝に招かれて説教しています。

 短い滞在で土曜日に着き、神学生同行の場合レンタカーで島を一周し、日曜日は朝から夜まで教会です。月曜日朝一番の高速艇で鹿児島へと帰路につきます。

 今年は日曜日を挟んでゆっくり滞在を考えています。多くの出会いがあるようで楽しみにしています。

 原人さんがホームページを作成してくださり、マンガ(歌えない、踊れない、無口の牧師物語)を動画で紹介してくれています。

 種子島でその漫画や、新しいマンガ「今日も天国の一日」(題字は種子島出身書家濱田龍郎さん)が多く配られています。

 そんなこともあり少年時代の思い出とともに、新しい方々との出会いを楽しみにしながらの帰島になると思います。

  東京のど真ん中で種子島の話ができたのは愉快でした。宇宙のへそは種子島です。世界の中心は種子島です!種子島バンザイ!の東京の夜でした。感謝します。

今日もまた元気でさわやかな天国の一日です!


詩篇

19:1 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。

19:2 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。

19:3 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。

19:4 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。

19:5 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。

19:6 その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。

19:7 主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。

19:8 主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。

19:9 主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。

19:10 それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。

19:11 また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。

19:12 だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

19:13 あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。

19:14 私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。


絆は木綱とも言う

2012-01-28 07:04:28 | Weblog
カリフォルニア北部に、「レッドウッドの森」があって、レッドウッドは高さが100メートル、樹齢が1000年を超え、重さも3トンを超えるものがあるとのことです。



しかし、それに比べて、根の深さは、ずいぶん浅く、2~3メートルぐらいしかありません。「土の上が100メートルで下が2~3メートル?」それでよく立ち続けていられるものです。ずっと生き続けられる秘密があるのです。



実は、レッドウッドは、根の深さは2メートルほどでも、直径80メートル以上も、横に広がるのだそうです。そして、直径80メートル以内にある、レッドウッドの根と、互いに絡み合って、つながります。ですから嵐が来ても、まわりの木と助け合って、しっかりと立っています。



これは、相互依存という、最も成熟した状態と同じです大。東日本大震災や大津波、原発被害を経験した昨年でした。まだも問

問題は山積みです。昨年11月にいわき市へボランティアに行きました。福島新聞に今日も深い記事があり、絆は木綱とも書くとあり、レッドウッドの木のことを思いました。横に広がる長い根が互いに絡み合い、高さ100メートルの大木が支え合いながら茂っているのです。

絆はお互いをささえ合う関係です。

依存状態にある人は、「あなた」というパラダイムを持っています。「あなた」が私の世話をするのです。「あなた」がやってくれないとだめです。

 自立は「私」というパラダイムです。「私」はできます、「私」が結果を出します、という状態です。

そして、相互依存は「私たち」というパラダイムです。「私たち」はできます。「私たち」は協力します。「私たち」が才能と能力を合わせれば、もっと素晴らしい結果を出すことができます、ということです。



自立した人が、結果を出す力を1とし、その人たちが、2人集まって、相互依存できるならば、

互いに協力し合って、出す結果は1+1=2ではなく、10や100、時にはそれ以上の成果を上げることも可能です。



このことを相乗効果と言います。相乗効果の価値を認める人は、次の言葉を心から信じる人です。

「本当に効果的に人生を営む人というのは、自分のものの見方の限界を認め、他の人のパラダイムと考え方に接することによって得られる、豊かな資源を活用する謙虚さを持っている人である」



イエス様のことばです。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネの福音書13:34-35)

人間万事塞翁が馬

2012-01-27 07:00:04 | Weblog
中国の北の方に占いの上手な老人が住んでいました。さらに北には胡(こ)という異民族が住んでおり、国境には城塞がありました。
ある時どういうわけか、その老人の馬が北の胡の国のほうに逃げていってしまいました。この辺の北の地方の馬は良い馬が多く、高く売れるので近所の人々は気の毒がって老人をなぐさめに行きました。ところが老人は残念がっている様子もなく言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

 そしてしばらく経ったある日、逃げ出した馬が胡の良い馬をたくさんつれて帰ってきました。そこで近所の人たちがお祝いを言いに行くと、老人は首を振って言いました。

「このことが禍(わざわい)にならないとも限らないよ。」

 しばらくすると、老人の息子がその馬から落ちて足の骨を折ってしまいました。近所の人たちがかわいそうに思ってなぐさめに行くと、老人は平然と言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

 1年が経ったころ胡の人たちが城塞に攻め入ってきました。城塞近くの若者はすべて戦いに行きました。そして、何とか胡人から守ることができましたが、その多くは戦いで死んでしまいました。しかし、老人の息子は足を負傷していたので、戦いに行かずに済み、無事でした。

 この話は、中国の古い書物「淮南子(えなんじ)」に書かれています。

 「人間万事塞翁が馬」の「人間(じんかん)」とは日本で言う人間(にんげん)の事ではなく、世間(せけん)という意味です。「塞翁」というのは、城塞に住んでいる「翁(おきな)=老人」という意味です。総合すると、「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍へ、また禍から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福というのは予測できないものである。」という事です。

 ローマ8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

アガペーの愛こそ希望の光

2012-01-26 06:19:17 | Weblog
 聖書の中心はイエス・キリストです。

 「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」(ヨハネの福音書5:39-40)

 イエス・キリストは、私たちを愛して十字架に命を捨て、墓に葬られましたが三日目に復活し、昨日もきょうもいつまでも変わることなく生きておられます。

 その十字架の愛にアーメン(真実・本当です)と、心を開いてイエス・キリストをお迎えするとき救われます。

 理屈を越えて聖霊の助けにより、イエス・キリストが心に住んでくださり、神の子として平安と喜びとともに、永遠のいのちを与え天国に生きるようにしてくださいます。

 新約聖書はギリシャ語で書かれています。その中で愛ということばは当時「エロス」=肉体的な愛。主に男女関係の愛。対象の価値を求める愛。自分本位の愛。見返りを求める愛が一般的でした。

 ほかにも「ストルゲー」= 従う愛。尊敬を含む愛。親子関係や師弟関係にある愛。

 また「フィーリア」=友情愛。自分を与えることで他人を生かす愛もありました。

 しかし新約聖書は、ほとんど使われていなかった「アガペー」を持ちました。アガペーとは、無条件の愛。万人に平等な愛。神が私達に与える愛。見返りを求めない愛です。

 
 新約聖書の中心は愛です。「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(0ヨハネ3:16)

 神は愛です。愛はその犠牲の大きさによって分かります。しかもその愛は見返りを求めないアガペー(無条件の愛)なのです。

 新約聖書開巻第一ページには、イエス・キリストの系図が書かれており、聖書を読もうと最初の開いたとき、戸惑いを与えられます。

 実はこの系図こそ福音であり、すべての人々が救われるという喜びの知らせのニュースなのです。
 
 アーメンと信じるならだれでも救われると言う高らかな宣言なのです。

 聖書は語りかけいます。家系や過去にどんな問題があり、だれにも言えないものがあっても、たとえ血統に汚れたものがあっても、イエス・キリストにおいては、それらは問題ではないのです。信じる者は受け入れられ、愛され、きよめられ決して捨てられないと言うことです。

  また、過去にどんなスキャンダラスなことがあり、拭えない事実があなたを苦しめていても、また無神論で生きて来たとしても、イエスをアーメンと信じさえすれば、すべては必ず解決され、救われるのです。信じ悔い改めるとき、御子イエスの血がすべて罪からきよめ、生まれ変わる恵みが与えられます。

  過去の姿が明らかになるのを恐れる必要はありません。怖がる必要もなく、すべての心配事は十字架により解決されているのです。ただアーメンと信じるだけで救われるのです。


  イエス・キリストがこのようなメチャメチャとも思うような系図をもって生まれたのは、この世に生を受けた者はだれでも救われる価値があることを証明するためでした。

 イエス・キリストは、それらの過去の罪を全部引き受け、わが身に背負い、我が事として、それらも用いて救いへと導かれるために、十字架に命を捨ててくださいました。

 アガペーの愛は十字架の上に豊かに現れ、今日もアーメン信じますと言う人は、だれでも救われ天国の保証が与えられるのです。

ローマ人への手紙5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

5:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。


ペテロの第一の手紙 2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。


賛美歌「いつくしみ深き友なるイエスは」で歌えます。

道なきところに 新たな道を
恵みの旅立ち  主はともにあり
祈りの声をも  聞き上げたもう
みことばたよりて 豊かな歩み

朝日の輝き 豊かに受けて
恵みの道をば 輝き進む
み神の愛こそ  希望の光
さやかに明るく 笑顔輝く

命の小道は 険しいときも
恵みの光の 消える日はなし
聖書のことばは 導く光
主イエスに従い 感謝の心


高速道路渋滞!20分のところを2時間

2012-01-25 08:58:03 | Weblog
 一昨日、加古川市まで出かけました。今月5日にい行ったときは2時間ちょとで到着したので、そのつもりで生駒を出ました。約束に送れないように、第二阪奈生駒トンネルを抜け、阪神高速東大阪線へ入り、近畿自動車道へのジャンクションを過ぎたあたりから、流れがストップし長田料金所の表示に、環状線まで85分とあります。普通だと10分もかからないので約束の時間には間に合いません。

 主を賛美しながらゆっくりと進むうち、やっと原因が分かりました。交通事故が二か所でパトカーが出動し、二車線が一車線に制限されていたのです。やっと通り抜けると安全運転で、到着予定より2時間遅れで到着。

 最初の焼肉店では準備が整っていましたが、まだ夕食時間には少し早く、お話しを聞く時間がありホッとしました。

 もう一つは居酒屋でしたが、7時過ぎになり来店者もあり狭いカウンター越しに、プライベートのお話もきけず話せずでした。夕食の料理を注文し、値段は安くものすごい美味しい料理で、楽しくいただきました。
 
 居酒屋には入ったことはほとんどなく、来客はお酒を飲んでいましたが、酒は飲まないのでホッとカルピス(も初めての経験)を注文しながらの夕食でした。

 駐車場まで送ってくれたので、寒い外でしたが手を取り合って問題の解決と祝福を短く祈ることができました。

 帰路は9時過ぎだだったので高速道路は空いていて、思ったより早くの帰宅でした。

 原因が分からないとイライラしたり、怒ったり当たり散らしたりする場合があります。高速道路の渋滞が事故だと分かれば、運転手や事故車両の安全を祈り、必ず通り抜けた恵みに感謝します。

 人生も同じようなものですね。渋滞があり幸せになかなかなれない。その原因を多くの人は知りたがり、それを取りのければ幸せになると思っています。

 その原因は政治!経済?教育?などを変えればと思っている場合が多くあります。また何よりも快楽にのめり込み、酒やギャンブル、性的スキャンダルに支配され、薬に人生をめちゃくちゃにしている場合もあります。

 宗教に救いを求めても、ほんとうの救いは未来永劫になく、欺かれている場合も宗教人口が二億を超える日本の特徴です。

 聖書は幸せの道を閉ざしているのは、人間が誰でも持っている原罪だと教えています。原罪とは人間の本質的な罪です。原罪のために法律を破り、不道徳的なことをしてしまい、心の中では嘘、偽り、欺き、不平不満、呟きなど様々な心の罪を持っているのです。

 普通だとスッキリ流れる高速道路のように、人間は本来幸せの道をマッスグに天国に行くまで、身体も魂も霊も祝され続けるのです。

 ところが妨げの原罪が邪魔をしています。それを取り除くお方がイエス・キリストです。

 十字架の上に全人類の原罪を背負い、命を捨てて贖ってくださいました。十字架上で流された尊い血が、すべての罪からきよめ洗ってくださるのです。

 高速道路上の事故車両が取りのけられたので、車の流れが進むように、イエス・キリストの救いをアーメンと信じるときに、人生は幸せなり幸せの道をマッスグに歩むことができるのです。

 幸せに道に妨げになっている罪は、イエス・キリストの十字架の贖いと復活の命によって取り除かれています。聖書のことばを100パーセント信用し、アーメン。信じます。私の心にお入りくださいと、口に出して祈ってみてください。アーメンと言えば救われ、幸せの中を天国に行く日まで、今日もまた天国の一日です!と、明るくさわやかに生きることができます。

詩篇

1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず

1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。

1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

悲しみの涙も消えて

2012-01-24 08:06:59 | Weblog

悲しみ涙も 消え去る御国 
さわやかな笑顔 輝く朝に 
喜び感謝の 歌声響く 
恵みに満たされ 天国の日々

十字架の御救い 信じたときに 
主イエスの愛をば 豊かに受けて 
喜び感謝の 笑顔はあふれ 
恵みに満たされ得 天国の日々

主イエスは友なり いかなる日にも 
見捨てずおられて 助けを与え 
喜び感謝の 勝利の力  
恵みに満たされ 天国の日々 アーメン。

いつくしみ深き友なるイエスは(賛美歌312番)のメロディで歌えます。

 目覚めとともに歌いつつ朝の祈りへ。昨日は加古川市へ二軒訪問予定があり、焼肉屋と居酒屋だったので、客の来ない時間帯を考えて家を出ました。

 いつもは20分ちょっとで行ける環状線まで、何と2時間近くかかりました。阪神高速東大阪線が事故車両のため一車線になり、ひどい渋滞でした。加古川市へ4時間半余で到着。幸い焼き肉店はまだ来客がなく、いろいろとお話を聞くことができました。

 加古川駅近くの聞いており着きましたが、目ざす居酒屋はなく、電話をすると東加古川駅近くとのこと。

  
  やっとたどり着いたのはもうお客さんが来るころ。とりあえず料理を注文し、食事の時間になり、お飲み物はと言われホッとカルピスを注文。結構美味しくいただきました。料理も安価で美味しく出された者を全部いただきました。

 
肝心の話は、来客も多くなり結局できずでした、ママが駐車場まで来てくれ、雪が降り始めた寒さの外で少しくお聞きし、手を握って解決を祈りました。

コリント人への第一の手紙

10:13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。


悲しみ涙も 消え去る御国 
さわやかな笑顔 輝く朝に 
喜び感謝の 歌声響く 
恵みに満たされ 天国の日々

十字架の御救い 信じたときに 
主イエスの愛をば 豊かに受けて 
喜び感謝の 笑顔はあふれ 
恵みに満たされ、 天国の日々

主イエスは友なり いかなる日にも 
見捨てずおられて わが内に住み 
喜び感謝の 勝利を与え  
恵みに満たされ 天国の日々 アーメン。


 となるようにご家族ぐるみの救いを祈りました。感謝しつつ今日もまた天国の一日です!

いま持っているもので満足しなさい

2012-01-23 07:29:04 | Weblog
こんな話があります。

 一匹の貧弱なトカゲが、神様に頼みました。「僕は小さくて痩せこけています。だからいじめられてみじめな思いばかりしています。ほらこのとおり体中傷だらけです。神様どうか、よろいのような固い体にしてください」

 神様はトカゲがいじめられないように、背中に大きな甲羅をつけて、「これからは亀と名乗りなさい」と励ましてあげました。

 しばらくして亀は神様に言いました。「傷つかない強い体になりましたが、この甲羅のせいで背中が重くて仕方がありません。みんなからのろまとバカにされ、恥ずかしいな体でお願いします」

 神様は、甲羅をはずすと同時に、他の動物たちが恐れるような頑丈な体にして、これからはワニと名乗りなさいと励ましました。


 ワニになったトカゲは、「神様のおかげで何も恐れないような体ですが、このずんどうの手足は何とかなりませんか。とても短くて恥かしいのです。この手と足を何とかしてください」

 神様は、「そんなにその手足がいやならスマートにしてあげよう。でもこれが最後だよ」と言うと、ワニから蛇に変えてしましました。

 トカゲは、「ああ、薄気味悪いといわれるより、トカゲのままでいたほうがよかった。そうすればのろまだとか、ずんどうといわれることもなかったし、気味悪い怖いといわれることもなかったのに」と嘆きました。
 今ある自分を好きになり、満足し幸せだと感じることが重要です。

こんな話も伝わっています。
 
 アリはもともと大空を飛び羽を与えられていました。こんな邪魔なものはいらないと、自分で羽をとってしましました。そして地面を這いずりまわって、えさを求めるようになたそうです。一年に一回その名残のアリが空を飛んでいます。

ヘブル人への手紙

13:5 金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

13:6 そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」

13:7 神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。

13:8 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

13:9 さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません。食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を得ませんでした。