牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

感謝しつつ新しい心で新年を迎えよう

2005-12-31 07:35:32 | Weblog
05年が過ぎようとしています。

 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。第一テサロニケ5:16-18

 悲しく辛い出来事の多い一年でした。一つ一つ書けばキリがないほどです。
 しかし、どんな出来事も神を愛するとき、すべてが働いて益となります。
 恨みつらみに身をゆだねるなら、心は痛み傷つきます。
 悲しみはさらに悲惨さに変わり、辛さはさらに厳しい辛さへ追い込まれてゆきます。
 辛いという字の上に+を加えると幸いと言う字に変わります。どんな辛さも十字架の下に行くとき、幸いになります。
 こんな苦しいときに十字架が何になる!と怒られることもあります。しかし、イエス・キリストの十字架の元にこそ真の幸せがあることを、2005年の歴史は証明しています。
 苦しみや悲しみはあります。しかし、十字架の下に立つとき、平安と喜び、感謝が心を支配し始めるから不思議です。
 これは、主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことだ。と聖書の詩篇118:23に書いてあるとおりです。

 感謝し続けるとき、祈り求め続けるとき、考えられないような祝福が訪れます。祈りは必然的によいことを呼び寄せます。

 ただし、真の神に祈らないから、わざわいやのろいがやってきます。
 正月は初詣でで賑わい、毎年のように参拝者は増えているような日本の現実です。それだけ苦しいことが多いからかもしれません。しかし、偽りの神、偶像に詣でることは悪魔や悪霊を崇拝するのと同じです。
 特に、日本人はそのことに目覚めなければ、日本の不幸は継続し続けます。

第一コリント人への手紙
10:14 ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
10:15 私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください。・・・
10:19 私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。
10:20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
10:21 あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。
10:22 それとも、私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか。まさか、私たちが主よりも強いことはないでしょう。
  10:23 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。
10:24 だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。

 私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。
 なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、
 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。
 しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。(8:3-7)

 真実の愛なる神、主イエス・キリストの十字架の下にたち、辛さが幸せに変わる奇跡を体験しつつ、新しい年を迎えたいものですね。

 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。黙示録3:19-20

 すなおな心で、
 「イエス様。いま私の心にお入りください。信じます。アーメン」
と、言ってみてください。
 聖書の約束どおり、キリストがあなたの心に来てくださいます。新しいあなたの誕生です。新しい年をぜひキリストとともにお迎えください。
 祝福をお祈りします。アーメン(ほんとうです・真実ですの意味)

焚き火だ 焚き火だ 落ち葉焚き

2005-12-30 04:23:19 | Weblog
 毎年、この時期は落ち葉を集めます。一昨年、市役所に通学路を提供したとき、大きな樫の木を何本か切ったので、少なくはなりましたが・・・。
 副院長と神学生の三人で一日中かかりました。
 朝9時から夜の6時まで、今朝は5時から昼まで清掃です。
 落ち葉は、煙が上がり過ぎるないように、少しずつ燃やしてしまいます。

 焚き火だ 焚き火だ 落ち葉焚き ・・・

 童謡のように優雅ではありませんが、昨夕も近所の小学生が来て、いろいろと話を聞きながらでした。

 新しい年がすぐです。一年への感謝とともに、大きな希望で迎えたいものです。

イザヤ書
43:18 先の事どもを思い出すな。
  昔の事どもを考えるな。
43:19 見よ。わたしは新しい事をする。
  今、もうそれが起ころうとしている。
  あなたがたは、それを知らないのか。
  確かに、わたしは荒野に道を、
  荒地に川を設ける。
43:20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、
  わたしをあがめる。
  わたしが荒野に水をわき出させ、
  荒地に川を流し、
  わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
43:21 わたしのために造ったこの民は
  わたしの栄誉を宣べ伝えよう。


一年の終わりのときに

2005-12-29 09:13:30 | Weblog
05年も木、金、土と3日になりました。
 今年も、国内、海外を問わず様々な事件や事故、悲しい出来事が山積した一年でした。
 一つ一つについてコメントする必要もないほど、テレビや新聞、パソコンに情報があふれています。
 そんな中で新しい年を迎えようとしています。
 イエス様は、「神の栄光が現われるためです」と言われました。
 どんな悲劇や悲惨な出来事の中からでも、いのちを与えられている限り、立ち上がり勝利することができるのが、人間に与えられた使命なのです。
 どうして?なぜ?への回答を、多くの場合求めます。それに答えを出そうと評論家たちは論じます。しかし、起こった出来事への評価や評論はできても、真実の回答を与えることはできないことを、私たちは知っています。
 どんなときでも立ち上がる力が与えられていることを確信して、前に向って前進(善進)してゆきたいものです。
 今、ニュースが流れていますが、「後からだったら何でも言える・・・
それが情けない」という発言が流れています。
 ほんとうは事件が起こる前に、警告し警戒しなければ、起こった後では責任転嫁しかないしないのが、日本社会の特徴になってしまいます。

 「正義は国を高め、罪は民をはずかしめる」聖書・箴言

 国家も国民ももう一度、真実の神の前に、すべての国家的な罪を道徳的にも実際的にも悔い改めることが必要です。
 正月に初詣の参拝は来年も増えるでしょう。日本人が偶像礼拝を続ける限り、この国に真実の祝福はありません。
 聖書は偶像礼拝の愚かさを、2700年まえに警告しています。

イザヤ44:6万軍の【主】はこう仰せられる。
  「わたしは初めであり、
  わたしは終わりである。
  わたしのほかに神はない。
44:7 わたしが永遠の民を起こしたときから、
  だれが、わたしのように宣言して、
  これを告げることができたか。
  これをわたしの前で並べたててみよ。
  彼らに未来の事、来たるべき事を
  告げさせてみよ。
44:8 恐れるな、おののくな。
  わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、
  告げてきたではないか。
  あなたがたはわたしの証人。
  わたしのほかに神があろうか。
  ほかに岩はない。わたしは知らない。
  44:9 偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。
44:10 だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。
44:11 見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。
  44:12 鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。
44:13 木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。
44:14 彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。
44:15 それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。
44:16 その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった』と言う。
44:17 その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから』と言う。
  44:18 彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。
44:19 彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか』とさえ言わない。
44:20 灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか』とさえ言わない。



15歳のとき、聖書を始めて読む

2005-12-28 08:59:18 | Weblog
キリスト教とは無縁の無神論者でした。中学生のとき社会の時間に、教師が家の宗教は何か?と問われ、無宗教言おうと、少し沈黙しました。
 すると、中学生にもなって家の宗教も分からないのかと、叱られてしまいました。
 高校生のとき、アメリカ人の宣教師の英会話のクラスに出席し、新約聖書(文語訳)をもらいました。
 本が好きだったので嬉しくてページを開きました。

1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
  1:2 アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、・・・

 一度も聞いたことのない名前がズラッと並んでいます。この名前は旧約聖書に出てくる人物たちで、イエス・キリストの系図をまとめているものです。
 やっと読み終わると、

1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

 処女降誕の話が続きます。そこで聖書を閉じてしまう・・・。そういう経験を多くの方が体験しているようです。

 やがてクリスチャンになり、聖書が神のことばであることが分かり、神のことばは生きていて力があることを、聖書を読むたびに体験することができました。

 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。第二テモテ3:15-17

 聖書を読み信じるとき救われます。イエス・キリストの十字架により、罪が赦され神の子となり、永遠のいのちが与えられます。
 そして人生を輝いて生きることができます。

詩篇
1:1 幸いなことよ。
 悪者のはかりごとに歩まず、
 罪人の道に立たず、
 あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、
 昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、
 水路のそばに植わった木のようだ。
 時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
 その人は、何をしても栄える。


晴れた日が続く生駒です

2005-12-27 08:37:07 | Weblog
 一年の終わりに近づいてきました。31日まで毎日、感謝します!という気持ちを忘れないで、何があってむすべてのことに感謝したいものです。

 心理学者のアドルフ・アドラーは、「人々が抱える問題のほとんどは、劣等感がその根本原因である」と書いています。
 自信の欠如や、低い自己イメージ、自己嫌悪、罪責感や自責感、憎しみや嫉妬心、基本的な不安感、日々のすべての出来事・・・。
 これらが実はストレスの根底に潜んでいるのです。
 マックスウェル・マルツは、統計上、優に95パーセントの人々が、何らかの劣等感に悩まされていると指摘しています。
 ネガティブな自己イメージのために、一生を棒に振ってしまうことは悲しいことです。
 何をするにしても、「これはムリだろうなあ。自分にはそんな力はないもんなあ」
 「あの人は私のことがすきじゃないんだ」
 「今度の試験もよくないに決まっている。今まで、よい点なんか取ったためしがないんだから」
 「今日も売れないだろうな。機能もだめだったし、断られに行くようなもんだ」
 「良いことなんて何一つない。いつも何やってもうまく行かないんだから」
 そのほかストレスを生ずるような考えが、頭にも心にも態度やことばにもこびりついて離れない!

 種をまけば必ずその種と同じ芽が出てきます。ゆりの種を植えればゆりの花が咲きます。かぼちゃの種を蒔けば、かぼちゃの実がなります。
 ストレスの種を蒔けば、ストレスの実を結んでしまいます。
 心に愛や希望、喜びや平安、感謝や賛美があれば、ストレスに支配されないで活き活きと生きることができます。
 2005年の終わりの日々、ストレスから解放された感謝で締めくくりたいものですね。

ガラテヤ人への手紙

6:7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
6:9 善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。
6:10 ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。
 

ビッグなクリスマス・プレゼント

2005-12-26 10:15:34 | Weblog
 今年はクリスマスと日曜日が重なり感激でした。
 来週は元旦が日曜日、最高のスタートになります。
 日曜日は朝から夜まで動き回っている牧師ですが、元旦は生駒聖書学院チャペルで、午前11時より一回だけの礼拝です。
 参加者の幸せを牧師たちが、一人ひとりに按手し心より祈ります。2006年の祝福をいっぱいお受け取りください。新しい方を歓迎します。

 ステキなクリスマス・プレゼントが届いたでしょうか?
もちろん最高のプレゼントは、イエス・キリストの救いですが。

 私は昨日、ビッグなプレゼントを大阪エリムの礼拝が終わった後、7年契約で借りているので来年3月が契約切れと思い、オーナーと会いました。
 ところが何と、もう8年目になっており、継続して使うだろうとのことでそのままにしていたとのこと。
 自分のウッカリに恐縮し謝りました。
 牧師が伝道の情熱を失わない限り、継続して使用してもらえると確信しているとの答え。もちろん、私も命の続く限り伝道するつもりですから、継続して借りることになりました。
 堺エリムへ行く時間が迫っていましたが、結論として家賃を下げてもらうことになりました。年間にすると200万円ほど家賃が安くなりました。
 最高のプレゼントです!とオーナーに感謝し、その手をしっかり握って、クリスマスの主に感謝の祈りをささげました。

コリント人への第二の手紙
  9:6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
9:7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
9:8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
9:9 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。
  その義は永遠にとどまる。」
と書いてあるとおりです。
9:10 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
9:11 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。
9:12 なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。
9:13 このわざを証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。
9:14 また彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた絶大な神の恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになるのです。
9:15 ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。


クリスマスの平和を!

2005-12-25 08:32:27 | Weblog
クリスマス!おめでとうございます。
 イエス様が生まれた2005年前は、暗いくらい時代でした。ユダヤはローマ帝国の支配にあり、貧富の差は激しく、その時代を描いた文書などを読むと、現代の日本のことを書いているのではと、思わせられるほどです。

 社会の甘さ、不道徳、社会保障制度、没収に近い税金、中産階級の容赦のない崩壊、昔ながらの人間の美徳や節操や倫理に対する音実斜めに構えた姿勢、物質的な富の追求、宗教への無関心、票のために民衆に迎合する打算的な政治家、金融制度の衰え、賄賂、犯罪行為、混乱と恐怖をもたらす犯罪者の釈放、緊急事態の名の下に誘導されようとしている(平和憲)法改正、男性的な逞しさの喪失と人々の女性化、官公庁の公金の使い込み、借金、サラ金地獄、何でもありの風潮、不正や搾取の容認、毎週のようにろくでもない番組を垂れ流す文化的と自称する番組、善良で立派な人を軽蔑する人々の偏見。そして何よりも偶像を神として自分の都合の良いように、飾り立てる偶像神の数々。

 ユダヤ人は救世主・メシヤを待望し、ギリシャ人もローマ人も、心底では救い主を待ち望んでいました。
 その時代に救い主は、一人の処女マリヤを通してこの世界に来られたのです。これは主のなさったことだ!私たちの目には不思議なことである。詩篇118:23
 「おめでとう。恵まれた方。主があなたとともにおられます。こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたを覆います。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。・・・神にとって不可能なことは一つもありません。」
 御使いガブリエルのことばに、「ほんとうに私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように!」と、マリヤは答えました。
 クリスマスの出来事を読み聞くたびに、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう!」と言うエリサベツのことばに、心からアーメンです。そして、今もそのようになれかしと信じます。
 神のことばは生きていて力がありますから、聖書の約束にアーメンと応答するとき、必ずみことばは実現し、神の栄光が輝きます。ハレルヤ!
第一に、わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
クリスマスの喜びは、神様を賛美しほめたたえる幸いです。一昨日、大雪の中を傘をさして散歩中、階段で10段ほど滑ってしましました。背中をダッダッとこすったので、寝るとき仰向けにできないほどでした。昨夜もうーんとうなりながら感謝します!と、それでも熟睡。朝4時ごろ、ヤベツの祈りの告白でスッキリと起き出しました。
同時に、「わが魂は主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」との賛歌を口ずさんでいました。ハレルヤ!
マリヤの賛歌は大部分が旧約聖書の引用からです。マリヤは喜びと感謝を、みことばに託すことのできる人でした。マリヤ賛歌=マグニフィカートは、最も人間的に言えば悲劇的な出来事の中で歌われました。
身ごもることは女性にとって最高の喜びと言われます。しかし、マリヤの場合は特別でした。処女で身ごもる!現代的な未婚の母ではありません。特別に性的に厳しいユダヤ社会でした。婚約者のヨセフがマリヤを迎えなければ、石で撃ち殺される運命だったのです。
しかし、マリヤは処女妊娠と言う恐ろしい運命を、おことばどおりになるようにと、真正面から受け止めたのです。それを悲しい、仕方のない出来事としてではなく、最高の幸福として受け止めたのです。
救い主出産という仕方で、主の救いの業に仕えることは、何という幸いなことでしょうか。
あなたはクリスマスの今日、自分の運命をどのように受け止めていますか?
あなたもまたマリヤのように、いやマリヤ以上に救い主の業に連なる光栄に預かることができるのです。

 「主はこのいやしいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私を幸せ者と思うでしょう!」
 2005年後の今日もマリヤは世界中の人々から尊敬を受けています。アベ・マリヤの賛歌がささげられています。
 自分弱さや足りなさ、健康や学歴不足や、経済的な乏しさを嘆くのではなく、主が目を留めてくださった幸いを、心から喜びたいものです。
 「天の虫けら」がクリスマスに再版され、もう一度主の大きな救いにあずかり、主のご計画がわざわいを与えるものではなく、平安と希望と将来を与えてくださる大きな愛であったことを、深く味わっています。
 刺繍は裏から見ると糸くずの山です。表から見ると美しい風景が織り出されています。人生を恨みに思い,嘆き悲しみながら生きている人は、刺繍の裏ばかり見ているのと同じです。神の愛を信頼し、力ある方が私に大きなことをしてくださいました!と、神様の愛をしっかり受け止めてください。
 イエス様がこの世界に来られたのは、神の約束を確証し、神が愛の父であることを明らかにするためでした。
 また、大祭司として人類の身代わりとなり、ご自身を十字架の上にささげて、すべての罪や病、のろいや貧乏、死と滅びを取り除き、悪魔の業を滅ぼしてくださいました。
 十字架の上で死なれ墓に葬られましたが、3日目に死を打ち破り復活されました。そして、今も生きておられる救い主です。クリスマスは、イエス様の誕生を祝うときです。それは、イエス・キリストが昨日も、きょうも、いつまでも同じだからです。
 信じるならもはや何者も恐れることのない人生を生きることができるのです。
 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。第一ヨハネ5:4-5

力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。

 イエス様がこの世界に来られた!
それは人生が逆転するときなのです。新しい人生を体験できます。だれでもイエス様を信じるなら、新しい人生を歩むことができます。
私の兄は30歳近くまで、飲むウツ買うの三道楽どころか、十道楽以上の人生を大阪で生きていました。グデングデンに酔っ払ったまま、キリスト教会に入りました。しかし、その夜イエス・キリストを信じてすくわれました。
酔っ払ったまま「イエス様。信じます。私の心のお入りください。アーメン」
と祈りました。千鳥足で教会を出たのですか、180度の生まれ変わりを体験しました。今では、自分が救われ人生を変えられた教会で牧師として働いています。

 その逆転劇は個人の人生を変えるだけでなく、社会全体に影響を及ぼして行くのです。デボールーション!偉大な変革が日本に今必要としています。

主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。
傲慢が日本社会に横行しています。自分さえよければという高慢。政治家も経済人も、教育界もマスコミの世界にも、宗教界にも余りにも心の高ぶっている者が多すぎる日本社会です。
神の前に悔い改め、へりくだって仕える社会になりたいものです。平和憲法が改正されようとしています。今こそ、日本は国際社会に平和憲法で仕えるチャンスなのに・・・。
いと高き所には栄光が神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々に平和があるように! クリスマスの祈りです。
 
低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。

これはわれらの神の深いあわれみによる。
そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、
暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。
 
クリスマスに平和と愛が、世界中にあふれますように!アーメン。

クリスマスの祝福を!

2005-12-24 06:40:41 | Weblog
クリスマス おめでとうございます。

 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」ルカ2:1011
 
すべての恵みへの感謝とともに、06年の大いなる祝福をお祈りします。

牧師 榮義之