牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

すなおな気持ちで

2005-09-30 08:04:28 | Weblog
素直な気持ちで 2005年09月30日
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたのしらない理解を越えた大いなることを、あなたに告げよう」エレミヤ33:3

神様はすばらしいことばで呼びかけてくれています。わたしを呼べ!と。天のお父様。アバ、父。お父ちゃん。パパと子どもが呼ぶように、イエス様に呼びかけることは幸いですね。
 
お母さんは生まれたばかりのわが子の泣き声で何を求めているかを理解できるそうです。愛なる神様はあなたが求める前から、必要をご存知ですが、ハッキリと呼ぶときに、はっきりとした答えを体験します。
聖書のことばは生きている愛の神が今、語りかけてくださることばです。神のことばは生きていて力があるので、そのことばにアーメンとすなおになって応答するなら、フシギにそのことばどおりのことが実現します。
 今日、救いを求めていたら、「イエス様救ってください。私の心にお入りください」と主の名を呼んでください。今、救われます。ラジオの聴取者の方から手紙をもらいました。
 
 高校生のとき、いじめと家庭内暴力により病気になり、5年間で高校は卒業したけれども、何の望みもなく強い自殺願望に支配されていました。22歳のとき自殺を決断しました。そんなときこの番組を聴きました。イエス・キリストを信じれば救われる。「イエス様。信じます。私の心にお迎えします。アーメン」と祈ってみませんかという呼びかけを聞きました。
 
 死ぬ前にこのイエスとかいう人に賭けてみようと思いました。そしてラジオ牧師とともに声を合せて、「イエス様。信じます。私のこころにお迎えします。アーメン」と祈りました。彼は救われました。そして6年間、毎週欠かすことなくラジオ放送を録音して聞いてくれているそうです。
 
 現在、28歳家から離れて一人暮らしですが、毎週キリスト教会の礼拝に参加し、ラジオ放送も欠かすことなく聞きながら生活しているとのことでした。
 苦しいときの神頼みということばがありますが、私はそれでもいいと思っています。神様が私を呼べ!と語りかけていてくださるのです。
 苦しみがあればその苦しみや悲しみを通して、人生のすばらしさを理解させてくださいます。

 信仰のため迫害に合い、牢獄に入れられ、いじめられ虐待された一人のクリスチャンが釈放されました。彼の姿は惨めに曲がり見られたものではりません。特に背中は大きく曲がりまっすぐ伸ばすことはできませんでした。しばらくぶりにあった彼の子どもは、「背中に何を背負っているの!」彼はことばに窮しました。
 息子は言いました。「お父さんの背中にあるのは箱だね。ぼくはそう思うよ。神様がプレゼントをくれたんだ。その箱の中には天使の羽が入っているんだね。ある日、その箱が開けられたとき、お父さんはその羽で天国へ飛んでいくんだよ。」息子のむじゃきなことばにその父親は感極まって泣き出しました。
 あなたも背負いきれいないような重荷を背負っているかもしれません。苦しくて仕方がないし、なぜ自分がその箱を背負わなければならないか理由も分からないかもしれませんね。
 一つは神様の贈り物・プレゼントだと考えてください。
 あの子が迫害を受けて不自由な身体になって帰ってきたパパに語ったように、その箱の中には天使の羽が入っているんだよ。私が苦しみにあったことは私にとって良いことでした。なかなか言えないかも知れませんね。
 「わたしを呼べ。そうすればわたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大きなことをあなたに示そう」とおっさやった愛の神がハッキリと理解させてくださいます。人の慰めに勝る何倍もの豊かな理解を与えてくださいます。
 
 すべての人は何かしら醜いものや重荷を背負っています。肉体的の場合もあり、精神的な場合もあります。あるいは家族の中の問題の場合もあります。
 イエス様に呼びも求めてください。
 「だれでも重荷を負って苦労している者は、わたしのところに来なさい。あなたを休ませてあげよう」マタイ11:28
 イエス・キリストの十字架の下に下ろすことができます。 
 
 十字架は私たちの重荷を自ら背負って死なれた場所です。罪ものろいも貧乏も病気も死も、全ての醜さを恥をイエス・キリストは十字架に引き受けたのです。
 どんな罪もどんな重荷も解決されて行く人生と変わります。そして苦しみが大きければ大きいほど、与えられる恵みも大きく、祝されて行く約束が与えられています。
 今日も十字架に死に、3日目に復活されて生きている方が、あなたとともにおられます。
イエス様。信じます。私の心にお入りください。アーメンと祈ってください。
人生の妙味を体験しながら生きる喜びに輝く日々が始まります。アーメン。



新しい愛と勇気

2005-09-29 07:53:15 | Weblog
キリスト教とはどんな宗教ですか?と聞かれることがあります。宗教と聞くだけで嫌がる人もあります。この文明の進んだ時代に宗教なんて古臭い。科学の時代なんだから宗教なんか必要ないと断言する人もいます。
 19世紀から20世紀にはそのような考えが世界を多い、21世紀は科学文明が花開き、全人類が豊かになり、幸福と平和を楽しむユートピアが実現すると期待されていました。

 9.11の世界貿易センター大爆破のテロにより、その夢は無残にも打ち破られてしまいました。アフガニスタン戦争やイラク戦争が起こり、世界は今も明るい希望よりも破滅に向かって進んでいるようです。日本も北朝鮮の核の脅威に脅かされています。人災だけでなく、アメリカを襲ったハリケーンの猛威や、アジアの大津波、日本各地で起こる大地震の前兆・・・。それに対してなすすべもない私たちです。人々が平和だ、無事だと言っている矢先に滅びがにわかに襲ってくると、聖書は警告しています。

 そのような出来事の続く中で、科学の夢は破れたと言っても言い過ぎではないでしょう。科学がさらに発達すれば、21世紀はもっともっと血なまぐさい世界になって行くかもしれません。
科学のもたらした世界は確かに豊かさや便利さ、楽しみや喜びなども多くあり、日本人はそのすばらしさを世界中で最も堪能しているのかもしれません。
 しかし、その結果を静かに考えれば、科学がもたらした世界は、第一に血の臭いが漂う世界です。広島や長崎の原爆を思うだけでもそうですし、イラク戦争でもそうです。

 第2に、全人類が不安と恐怖におびえる時代を造ってしまいました。使い方を間違ってしまうととんでもない世界になってしまいます。
科学は絶対必要です。火と同様に必要ですね。日はご飯を炊いたり、部屋を暖めたり、動力を動かしたりなどと正しく使えば大きな祝福を与えます。
科学も同じように正しく利用されるとき、大きな祝福となり今もわたしたちはその恩恵に浴しています。感謝なことです。
残念ながら、それを用いる人間の心が間違っていれば、科学文明が大きな災害を人類にもたらしてしまいます。私たちはその現実を毎日のように見せ付けられてきました。
 堕落した意地の悪い、自分のことしか考えない人間の本性を、誰がどこで、正しくすることができるでしょうか。
 人間は自分自身で自分を正しくすることはできません。聖書には人間の本性は罪であると教えています。ローマ人への手紙に書かれています。

 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」ローマ3:10-18

 人は誰でも自分で自分を正しくすることはできません。
その人類の罪を取り除くために、神が人となってこの世界に来られたのが、イエス・キリストです。人の心はよろずのものよりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっています。その悪をキリストは自ら十字架に引き受けて死なれました。そのとき、科学でも何でもどうにもできなかった人間の心は、神によってきよめられ新しい人生を生きるようになるのです。
そのとき、罪人は正しくされます。罪が赦されて神の子と、永遠の命を持つことができるのです。

 そして神の心を実行する力と勇気が与えられます。パンだけで生きるのではない、心のむなしさから解放され、平安の心が与えられます。心を騒がすことなく平安な平和な決断ができるようになります。
死の恐れからも解放され天国に行く確信の人生を生きることができます。
イエス様。信じます。私の心にお入りください。アーメンと祈ってみませんか。今朝からあなたの心は豊かになり、平安と希望に満ちた人生へと歩みだすことができます。

 愛する者よ、あなたのたましいがいつも恵まれ栄えしあわせであるように、あなたが全てのことに恵まれ栄え幸せであるように、また健康が恵まれているよう祈ります。3ヨハネ2節



雨に日も

2005-09-28 08:37:22 | Weblog
昨夜から降り始めて、久しぶりに雨の朝。毎日ゆとりの1万歩と歩き続けてもうすぐ満2年になる。雨の朝は歩くにのは都合が悪い。毎日ウォーキングを続けている方は雨の日はどうしているのかな?
 大阪へ出かけるときは地下街を歩いたこともあった。夜遅く広い教会の中を祈りつつ歩いたり、ちゃんと傘をさして歩いたり、ともかく毎日1万歩以上を歩き続けている。今日はどうしようか!?と、書いているうちに少し晴れ間が見えてきた。
 娘は阪神ファン、明日木曜日甲子園に行く予定。優勝決定戦に立ち会えると張り切っている。今日の雨は晴れて試合はできるはずだと、弾んで会社に出かけた。御堂筋パレードも楽しみにしているようだ。

 リーガロイヤルホテルでは大阪婦人ランチョンが開催され、家内や教会員は参加することにしている。今日の講師は、生駒聖書学院卒業生の金沢泰弘牧師。元ヤクザでお父様の死の床で改心を誓い、生駒聖書学院に入学、必死で祈りと学びに献身し、神学生時代より大阪桃谷で弟子教会を設立。卒業後、神戸改革派神学校も卒業し、現在、大阪日本橋の近くに6階建ての立派な教会があり、暴走族や薬害に悩む若者やその親たちの良き相談相手にもなり、立派な牧師として活動している。

 イエス・キリストの十字架の救いを信じるとき、新しい人生が始まる。だれでもキリストにあるならその人は新しく造られて人。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなる。生まれ変わった新しい人生への旅立ちを、お手伝いするのが牧師の祈りと働きである。

  私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。
 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。
 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。
 どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。
  テモテへの第一の手紙1:13-17

天地万物創造の神

2005-09-27 08:02:47 | Weblog
初めに神が天と地を創造した。創世記1章1節 

 聖書を手にした方が一番最初に接することばです。このことばを見ただけで、聖書を読まない方もあります。
 聖書の神は天地万物の創造者。全知・全能・遍在・永遠・不変の神です。科学はこの宇宙の成立をまだ解明しつくしていません。いろんな仮説があり論議があります。その第一原因を神が創造したと信じているのがクリスチャンです。

 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。ヘブル11:3

 創造の神を信じるとき、人生は楽しく有意義なものとして輝きはじめます。神が光よあれ。と宣言したら光がありました。私たちが目で見るすべての物は、神のことばによって想像されました。
 その神は永遠不変のお方ですから、今でもすべてのものにいのちを与え、その全能の働きをなさいます。
 信じる者にも何でもできる力を与え、神の栄光の人生を歩ませてくださいます。

 初めに、ことば(イエス・キリスト)があった。ことば(イエス・キリスト)は神とともにあった。ことば(イエス・キリスト)は神であった。
 この方(イエス・キリスト)は、初めに神とともにおられた。
 すべてのものは、この方(イエス・キリスト)によって造られた。造られたもので、この方(イエス・キリスト)によらずにできたものは一つもない。
 この方(イエス・キリスト)にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
 光(イエス・キリスト)はやみの中に輝いている。やみはこれ(イエス・キリスト)に打ち勝たなかった。
 ・・・・・
 すべての人を照らすそのまことの光(イエス・キリスト)が世に来ようとしていた。
 この方(イエス・キリスト)はもとから世におられ、世はこの方(イエス・キリスト)によって造られたのに、世はこの方(イエス・キリスト)を知らなかった。
 この方(イエス・キリスト)はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
 しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名(イエス・キリスト)を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ヨハネ1:1-12

 イエス・キリストを心に信じ、心のお迎えするとき、天地万物の創造者である全能の神の子となれるのです。
 アーメン(本当・真実です)と言えば救われます。

新しい日を生きる

2005-09-26 06:25:44 | Weblog
 私たちが滅びうせなかったのは、【主】の恵みによる。
 主のあわれみは尽きないからだ。
 それは朝ごとに新しい。
 「あなたの真実は力強い」(アイカ:2-23)

 その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。詩篇30:5

 朝が来る!すばらしいことだ。聖書の創世記には、夕があり朝があったと表現されている。
 夜は試練や苦難の象徴でもある。暗闇や暗黒に支配され、どうにもならない苦痛にさいなまされることもある。
 しかし、希望の朝が来る。朝とともに新しい輝きが必ずやってくる。そのような期待と喜びで朝を迎える幸い!
 それは朝ごとに新しく、今日という新しい日の始まりに感謝する。

 昨日は日曜日。牧師として最も充実した幸いな日。
 朝一番に60代主婦のバプテスマ式。
 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。ローマ6:4
 朝の礼拝を終え、娘の運転で末期ガンで入院中の50代男性を見舞い、大阪エリムの礼拝。
 夕方も堺の病院にガンで入院中の30代女性を見舞い、堺エリムの礼拝。
 帰りは車の中で軽い夕食をすませ、メールを送ったり電話をしたり・・。
 月曜日は朝のチャペル説教や2時間の講義。その準備をと思いつつ、猛烈な眠たさで熟睡・・・。

 朝ごとに新しい恵みと、朝とともに喜びが来る幸いで新しい日がスタートする。
 これは【主】のなさったことだ。
 私たちの目には不思議なことである。
 これは、【主】が設けられた日である。
 この日を楽しみ喜ぼう。
 ああ、【主】よ。どうぞ救ってください。
 ああ、【主】よ。どうぞ栄えさせてください。詩篇118:23-25



豊かに生きる!

2005-09-25 07:34:51 | Weblog
わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。ヨハネ10:10-11

 豊かな人生を生きる秘訣

 豊かに生きる!と言うと、猛烈に反対するクリスチャンもあります。名もなく貧しく美しく生きることこそ美徳であり、心の豊かさこそすべてであると言うのです。お金の話を教会でするとは思わなかったと、つまずく場合もあるようです。
 しかし、豊かでなければ順調な人生を過ごすことはできません。豊かでなければ自分の可能性や才能を最大限に広げることもできません。
 なぜなら心をはぐくみ、才能を伸ばすためにはいろんなものを利用する必要があるからです。それらを手に入れるためにはお金も必要です。私たちはさまざまなものを活用して、身体と心と知力を成長させますが、現代社会は、経済力がなければそれらのものを手に入れることができない仕組みになっています。ですから人間として成長するためには、まず豊かになる秘訣を知っていることが大切です。

あらゆる生命の目的は成長することです。生き物はみな、可能な限り成長する権利があります。
 人間にとって生きる権利とは、知力と心と身体を生き生きと活動させるために必要なものをすべて、自由に無制限に使える権利と言ってもいいでしょう。
 本当の豊かさとは、少ないもので満足したり、それでいいと思ったりすることではありません。
 手に入れないもので満足するのは、神の摂理に反することです!私たちが救われたのは、少ないままで満足するためではなく、いのちの成長と輝きであり、そのいのちの活力や気品、美しさや豊かさを十分に発揮するためなのです。
 イエス様は言われました。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。ヨハネ10:10
その前のことばには、「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです」とあります。盗人とはだれのことでしょうか。それは悪魔・サタンです。
 私たちは盗人に奪われてはいけません。奪われると貧しくなります。イエス様はサタンが奪ったものを全部取り戻してくださいました。
 それが十字架の救いです。恵まれて生きることを望むのは、何も悪いことではない。豊かさに対する願いは、いっそう恵まれて充実した、実りある人生を送りたいと言う願いであり、その願いは非難されるべきものではなく、むしろ称賛されるべきもの。
 イエス様は、「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです」(ヨハネ15:8)と言われました。
 恵まれた豊かな実を結ぶ人生を望まないクリスチャンは、ひねくれものです。悪魔にだまされて恵まれている人をうらやんだり、非難したり裁いたりしてしまうのです。
また、必要なものを十分に持ちながら、そのように生きていないならずいぶん変わり者だと思います。
 ここでもう一度イエス様の十字架の意味を再考してみましょう。
① Ⅱコリント5:21 罪のために=すべての罪は赦された!アーメンですか?
② Ⅰペテロ2:24 すべての病はいやされた。もう病人ではない!
③ ガラテヤ3:13 すべてののろいはもう一つもない!祝福だらけの人生だ!
④ Ⅱコリント8:9 すべての貧しさはなくなった!もう神の富の遣い放題!
⑤ ヘブル2:14-15 死の恐怖から解放された!死んだら天国まちがいなし!

豊かに生きる秘訣の原点を確認しよう。
あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。Ⅱコリント8:9
そのことを確信するので
あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。Ⅱコリント8:7
神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
Ⅱコリント9:8と、私たちは毎週告白しています。
 人間として、神の子として私たちは、心豊かに、知力も鍛えられ、丈夫な身体も与えられています。これらのうちのどれかが優位に置かれたり、神聖視さたりしてはいけません。それぞれが同じように大切なのです。へんに霊的ぶるのはやめてください。
聖霊に満たされることは大切です。聖霊に満たされるとすべてが満たされますが、ほかのものに満たされる必要はないなどと聖書は教えていません。聖霊に満たされるとき、心も知力も健康もすべてが豊かにされるのです。
聖書の約束が実現するから幸いです。Ⅲヨハネ2節には、「愛する者よ。あなたが、たましいに幸い(恵まれ・栄え)を得ているようにすべての点でも幸い(恵まれ・栄え)を得、また健康であるように祈ります」とあります。
健全な信仰は健全な常識を生み出し、不健全な信仰は非常識になります。
心のめだけに生きるのは正しいことではないし、尊いことでもありません。
知力だけ鍛えて身体や心をないがしろにするのは、誤りです。
知力や心のことを省みず、肉体の赴くままに過ごすなら、いまわしい結果を招きます。
心が生き生きと活動するためには、愛が必要です。クリスチャンはその愛を豊かに与えられいます。ヨハネ3:16 ローマ5:8 イザヤ43:4 十字架の元に立つとき愛は豊かに注がれてくるのです。なぜなら聖霊によって神の愛が豊かに注がれているからです。ローマ5:5 神に愛されていないクリスチャンなんて一人もいません!
人間の最大の幸福は、愛する人に祝福を与えることです。愛のもっとも自然で自発的な現し方は「与える」という行為です。与えることのできない人は、夫や父親として、あるいはクリスチャンとしての役目をはたすことができません。
聖書は、マタイ7:12 ゴールデンルール(黄金律) ルカ6:38 使徒20:35
それは知力や健康にも当てはまります。
人間は十分な食べ物と、着心地のよい衣服と、あたたかな住まいがなければ、身体を生き生きと活動させることができません。過酷な苦労にさらされるのもよくありません。身体のためには、休息し気分転換をはかることも必要です。安息日!
また書物や読書をするための時間や、旅行や観察をする機会がなく、あるいは知的な会話のできる相手がいなければ、知力をしっかりみがくことはできません。
知力を十分に伸ばすためには、知的な娯楽が必要ですし、工芸品や美術品を身の回りにおいて、使ったり、鑑賞したりすることが欠かせません。美術館や博物館。
クリスチャンがイエス・キリストの救いを受け、聖霊に満たされ、豊かに生きることは、神と自分自身と人類への果たすべき責任なのです。
なぜなら人間は、神と全人類に対して自分自身を最大限に生かす以上に大きな奉仕はできないからです。

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」マタイ22:37-40

クリスチャンとして最高に豊かな人生をともに生きていきましょう。
 


赤ちゃん誕生の知らせ

2005-09-24 07:08:53 | Weblog
 赤ちゃんが生まれたとの嬉しい知らせがありました。教会員の娘さんに男の子誕生!予定日より10日過ぎでした。初産だったので家族中やきもきしたとのことです。海都(かいと)と命名されました。
 イエス様は、
 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
 女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません」(ヨハネ16:20-22)とおっしゃいました。

 新しいいのちの誕生!まさしくめでたい、嬉しい喜びです。
 人間のいのちは神の愛に中に永遠に定められています。

 神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。エペソ1:3-6

 そのことは母の胎に宿る前からの選びです。

「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」エレミヤ1:5

 具体的には、

 それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
 私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。
 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。
 私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。詩篇139:13-16

 この地上に一度きりの生を与えられた人生。イエス・キリストの十字架の救いを信じて、きよらかに美しく天国に帰るその日まで。与えられた使命を全うし、神の栄光のために幸せに生き続けたいものです。



エリム天国聖会

2005-09-23 07:27:51 | Weblog
 午前10時半より、エリム天国聖会。和歌山県橋本市・橋本バプテスト教会・平岡修治牧師がメッセージを語る。午前9時より4名がバプテスマ。
 10時より今年、母が召された家族とともに納骨式。聖会後は天国の饗宴さながら?の持ち寄りの昼食会。100名ほどの集まりになる。

 奈良市で富雄キリスト教会の開拓伝道を始めた頃、ある真夏日の礼拝で説教のために聖書を開いた。玄関から1人の老齢の紳士が入ってくると、そっとイスに座した。真っ白なスーツに真っ白な帽子。背筋をピンと伸ばしてまっすぐに正面の牧師を見つめている・・・。
 当事は赤面恐怖症、少人数(7名くらい)の礼拝で聖書も朗読が終わり、話し始めようとした瞬間だった。聖書の箇所を変えるわけにもならず、そのままドギマギしつつ説教を終わった。てっきり引退した牧師?と思ったが、元海軍(戦艦・南雲に乗っていた)の軍人で青年時代にクリスチャンになり、第二次世界大戦中富雄に疎開して来た84歳の方だった。
 キリスト教会の礼拝には30年間出席しないで、山の中(一番近い家が300メートルも離れている一軒家)で奥様と引きこもった生活をしていた。
 50年前にキリスト教会で再婚の挙式。相手はクリスチャンではなかったが、自分の信仰でクリスチャンにしてみせる!との確信だった。
 50年過ぎたが奥様はクリスチャンにはならなかった。そこで30年ぶりに富雄に教会があると知り、山の中から1時間以上も歩いて出てきたのだ。家内を信仰に導いて欲しいと、若い牧師に頭を下げて頼んだ。
 その後、山の中の家を訪ねいろいろお話を聞き、奥様にも会うことができたが、なかなかすなおに「アーメン、信じます」とは言わなかった。
 翌年、ご主人が召されたとの連絡を受け、牧師になって始めての葬式だった。納棺や前夜式、葬式や斎場行き、骨上げから納骨式。初めてのことばかりだったが、神様の助けで真剣に必死になって行った。
 大森米吉といい新潟出身だった。
 奥様はその後、富雄キリスト教会の礼拝に出席し、あんなに頑固でかたくなだったのに、ご主人を天に送ってからすぐにバプテスマを受けクリスチャンとなった。礼拝を一度も休まずいそいそと山の中から出てきてくれた。
 村の人たちは、「大森さん。どこへ?」彼女はにっこりと、「いいところへ!」みんなは主人が亡くなってすぐなのに、もう恋人?ができたのかと噂しあった。
 数ヵ月後、「いいところってどこですか?」と聞かれた。「富雄です」「富雄のどなたさんですか?」具体的に聞かれた彼女はにっこりほほえむと、「富雄キリスト教会です!」と答えた。村人たちは失望?(うわさの種がなくなったので・・・)もしたが、安心もしてくれた。
 
 大森美乃姉はそれから16年間、富雄キリスト教会を愛して礼拝を守り、誕生日が来るたびに、この年まで生かされたのはイエス様の恵みです。感謝しますと、記念品を教会に贈り続けてくれた。93歳で感謝!感謝!のことばを残して愛するご主人の待つ天国へと召されて行った。
 だれも引き取りてのない二人の遺骨を引き取り、富雄キリスト教会開拓伝道の初期に導かれた高齢の夫婦の励ましに感謝しつつ、アーメンと言えば救われます!と、イエス・キリストの十字架の救いを語り続けている。

 天国聖会はそのような思い出の残る50名以上の兄弟姉妹を思い、信じる者に永遠の天国が約束されていることを感謝し、天国の喜びを先取りして味わう楽しい祝福のとき・・・。ハレルヤ。
 天国は幸いな場所。最高の喜びと楽しみの場所。天国があることを信じると今、生きていることがどんなにすばらしいかがさらに分かるし、充実した人生を輝いて生きることができる。
 天国は敗北者が行くところではなく、人生の勝利者が凱旋する栄光の場所。
 たとえどのような病や問題に囲まれていても、その中でイエス・キリストの救いをアーメンと信じた瞬間、神の子とされ、罪が赦されて人生の勝利者に変えられる幸いを体験できるのです。アーメン(ほんとうですの意)!
 
黙示録より

7:9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
7:10 彼らは、大声で叫んで言った。
  「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
7:11 御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、
7:12 言った。
  「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」
7:13 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と言った。
7:14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
7:15 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
7:16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
7:17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」


 



新しい人生を生きるために、再交付を

2005-09-22 05:26:41 | Weblog
 19日に財布を紛失(盗難?)。免許証を財布に入れていたので、すぐ生駒警察に紛失届けを出した。
 生駒警察では免許証再交付に3週間かかるので、運転するんだったら橿原市の運転免許更新センターへ行くように言われた。
 昨日、生駒駅まで歩き、新の口駅からも歩きで手続きに出かけた。紛失の理由などを記入し、3,000円を支払い、窓口に提出した。
 しばらく待つ(本を一冊読了)と呼び出しがあり、写真を写し手5分もしないうちに再度の呼び出し。新しい免許証の交付となった。

 紛失しないようにするのが一番だが、結構再交付に訪れる人が多いのに驚いた。同時に係りの方のあっさりした事務的手続きに感謝した。
 そうしてもらいながら人生の更新、再交付に思いを馳せた。
 イエス・キリストを心に迎えるとき、新しい人生を生きることができると、聖書は約束している。
 人は神の愛から失われ、悪魔に支配されて、罪や病、のろいや貧乏、何よりも死と言う恐ろしい運命に捕えられている。失われた状態を更新し、再交付しなければ地獄に行く。
 免許証を失って再交付を受けないままで運転すれば、ちょうど処罰を受けるように。お巡りさんに見つからなければいいというようなズルイ考えを持つ人はいない。
 一度きりの人生をイエス・キリストの十字架の贖いを信じて、更新したらいかがなものでしょう。新しい免許証のように、人生の再生を経験できること請け合いだ。
 「だれでもキリストのうちになるなら、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ。すべてが新しくなった」と聖書Ⅱ約束されている。
 手続きは簡単だ。「イエス様。信じます。私の心にお迎えします。アーメン」今、この瞬間に神の愛はあなたを新しい人生に迎えてくださるのです。


聖書の美しい話をお読みください。
ヨハネの福音書3章です。

3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。
3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

  3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
3:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。
3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
3:21 しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
 

豊かさの中に生きる秘訣

2005-09-21 05:08:57 | Weblog
 神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。
 この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。テモテへの手紙第一6:15-17

 聖書は神を上記のように紹介しています。
 神は全知全能,永遠不変に遍在する天地万物の創造者、唯一の主権者、霊であり生きている神、天の父。
 聖にして義であり、公平と完全な神ですが、同時に豊かな恵みと祝福に満ちた愛なる神。
 私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神です。

 ほんとうに豊か(霊も心も身体も物質的なすべての物)な人生を楽しむためには、「すべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神」を信じることです。
 イエス・キリストを心にお迎えすれば、その十字架の贖いにより神の子となります。アーメンと言えば救われます。
 神の子とされたのですから、天の父がすべての望みをかなえてくださると信じて求めることができます。
 聖書には、何でも求めなさい。そうすれば私たちのためにそれがかなえられる!と約束されています。その約束を全面的に信用すればいいのです。
 そして、心からの深い感謝を現せばよいのです。

 ほかのことでは申し分のない生き方をしている人の多くが、感謝の気持ちを持たないために豊かになれないで、不平不満のままで生きています。
 お金があり健康で知的にも優れていても、すばらしい住む家やステキな自動車、可愛いこどもやすばらしい家族があっても、豊かな気持ちを持たないままで生きている人がたくさんいます。
 簡単な理由です。感謝の気持ちを忘れているのです。真の神への感謝は、豊かさの源に近づくことです。
 感謝に満ちた生活を送れば、感謝の気持ちをもたずに神から顔をそむける人よりもずっと神に近いところにいられるのです。神は私たちから遠い存在ではなく、もっともみじかにおられる愛のお方です。
 神に感謝すればするほど、多くのものがもたらされます。より良いものがますます多く与えられるのです。
 それは、感謝に満ちた心や気持ち態度が、恵みと愛の神にもっとも近くあることになるからです。
 いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべてのことについて感謝しなさい。
 これが神がキリスト・イエスに合ってあなたがたに求めて(望んで)おられうことです。テサロニケ第一5:15-17

 今日から感謝の心を豊かにするなら、今、この瞬間から豊かな気持ちになり、さまざまな恵みが与えれていることに気がつきます。
 感謝の気持ちをもてば、ありとあらゆるものが感謝のしるしとなり、限られたものしか与えられていないという、せせこましい気持ちから解放されます。
 感謝の気持ちを持てば、現状に不満を感じないで改善したり、前進したりすることがさらに可能となります。回りにあるすべてのものが輝きはじめます。スッキリした目で見ることができます。
 日本中に感謝の気持ちがあふれ始めたら、すべてが良くなります。愛と希望の輝きが日本を変えてしまいます。

 すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。ヤコブ1:17

 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。ローマ8:32