牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

愛と恵みをうたいながらありがとう。今日もまた天国の一日です。感謝します。

2016-04-30 18:30:24 | Weblog
恵みに生かされ 主イエスの愛で
輝く一日  微笑み豊か
疲れも重荷も すべて消えゆき
福音伝える 情熱新た

やさしい主イエスは きょうも友なり
世の終わりまでと 約束されて
すべての国民(くにたみ) 弟子とせよとの
宣教命令  使命にあふれ

福音語れば アーメン信じ
主イエスの弟子になり 笑顔輝く
みことば信じて 恐れは消えて
ありがとう感謝で 平安満ちる

アドナイシャローム アドナイイルエ
アナイチドケヌ 主は我が牧者
アドナイシャンマー  主はいやし主(ぬし)
勝利に輝く アドナイニシで

アーメン

愛と恵みをうたいながらありがとう。今日もまた天国の一日です。感謝します。

2016-04-30 18:30:24 | Weblog
恵みに生かされ 主イエスの愛で
輝く一日  微笑み豊か
疲れも重荷も すべて消えゆき
福音伝える 情熱新た

やさしい主イエスは きょうも友なり
世の終わりまでと 約束されて
すべての国民(くにたみ) 弟子とせよとの
宣教命令  使命にあふれ

福音語れば アーメン信じ
主イエスの弟子になり 笑顔輝く
みことば信じて 恐れは消えて
ありがとう感謝で 平安満ちる

アドナイシャローム アドナイイルエ
アナイチドケヌ 主は我が牧者
アドナイシャンマー  主はいやし主(ぬし)
勝利に輝く アドナイニシで

アーメン

あと18日でひとり暮らしも2年ちょうどになる

2016-04-30 18:23:47 | Weblog
アモス書3:3 ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか。

いっしょに歩く者がいると幸いです。23歳で結婚し、49年共に歩みました。2014年5月17日、湯川胃腸病院ホスピスで、てんごく・・・と指文字を残し、安らかに天国へ召されました。

高校生の時、西之表市最上医院でのキリスト教会集会へ行き、初めて聖書を読みました。アメリカ人宣教師だったため、日本語で説教ができず、聖書を読むだけの時間。開かれ読む順番が来た時、箴言31章10節= しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。

その時は、年配の婦人たちだけ。ここにはいないと思った記憶だけ。けれども牧師の道を歩みはじめ、良い出会いが与えられ結婚。

真珠で身を飾ることもなく、つつましやかに生きた家内だったが、天に召される日まで、しっかりした妻であり、神様からの大きなプレゼントで、祝福の妻でした。

すべての働きの背後にあって常に祈り続け、ABCラジオ放送、旧ソビエトやアフリカなどの世界宣教、生駒聖書学院や各地に開拓伝道支援、妻の祈りで豊かに必要も備えられ、経済の心配も一度もすることもない、結婚生活でした。ひとり暮らしの、インマヌエル神ともにおられる生活です。

明るい愛で、いのち支えて、美しく嬉しい笑顔で、大きな恵み。ハレルヤ。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。。感謝します。








何事があり起ころうと、恵みの時、救いの日です。

2016-04-30 06:25:07 | Weblog
聖書の一言;コリント人への第二の手神6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。
1日に歩行中、乗用車にはねられ救急車で病院。今日でちょうど一ヶ月。
今は恵みの時、救いの日。何事が起ころうと、その日、その時が救いの日神の助けと救いがあり、すべてのことにありがとうございます。感謝します。
これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。神のなさることはみなその時にかなって美しい。ハレルヤ。
だから、これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼうと、強がりでもなく、頑張りでもなく、ただ恵みに監査者しながら過ごす一ヶ月です。
顎と頬の20針縫った後も、縫った医者が驚くほどの復元です。右足腿の打撲と挫傷の痛みは、激痛でしたが、今朝包帯交換で病院へ。
昨日のヨベル聖会では、一ヶ月ぶりに立ってメッセージ。明日の生駒と大阪の礼拝もOKです。
5月2日(月)午前7時~8時は、大阪玉造の大阪女学院角、大阪クリスチャンセンターチャペルでメッセージです。朝食祈祷会で会費500円。どうぞお近くの方ご参加ください。
確かに、今は恵みの時、救いの日です。
交通事故の4月でしたが、5名が救われ洗礼を授けました。一人はぢ地震の益城町へ、種子島からボランティアに来てくれた63歳男性。エリムキリスト教会で濱田達郎兄に福音を聞き、天の虫けら=榮義之自叙伝を読み、洗礼を決心死、電話で救いに導き授洗。
6:3-10私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。




ありがとう。余命一年宣告から4年目に天国へ

2016-04-29 18:14:24 | Weblog
ヨブ記1:21-22 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名は、ほむべきかな」ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。




ヨブ記は試練の書として有名。ヨブは潔白で正しく,神を畏れ、悪から遠ざかり、精錬潔白でした。

7人の息子と3人の娘の子。羊7000頭、らくだ3000頭、牛500くびき、多くのしもべたち。当時の世界で、一番の富豪でした。

ところが一朝にして、10人の子どもが大嵐で全員死亡、野蛮人が羊、らくだ、牛を強奪、しもべもたちもすべて虐殺されました。

現代も同じような試練があり、東関東大震災は未だに、その大試練は解決せず、放射能の害があっても隠ぺいしている感です。

14日には益城町を地震が襲い、熊本地震はもう余震が1000回を越えました。今日は大分県に、震度4の地震や3の自身がありました。

家内は、2011年8月、肺がん末期レベルⅣ、余命一年との宣告を受けました。ヨブ記のことばを覚えつつ、ありがとうございます。感謝しますと、家族で受取り、2014年昨年5月17日に、余命一年から3年9ヶ月生かされて、天へ帰りました。今年も高29日が一人だけの結婚記念日です。良い妻を神様からの贈り物として受け、幸せな結婚生活を思いだし、感謝する夕べです。

今日は、生駒聖書学院主催、一年に一回の学院長メッセージのヨベル聖会(午後1時)

ピリピ人への手紙 4:11-13 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日。感謝します。





十字架により全く新しい人生が始まる幸せ

2016-04-29 05:45:11 | Weblog
聖書の一言;コリント人への第二の手紙5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
誰でも、主イエス・キリストをアーメンと信じると、内側が全く新しくされます。もはや今までと同じ人間ではなく、新し人生が始まったのです。
十字架に寄って、すべての罪や病、呪いや貧乏、死と滅びから救い出され、神の子となる平安と幸せ人生。正しく、健やかに、祝福されて豊かに、永遠のいのちを受け、天国人生です。
恐れや不安より、愛が多く全ったき愛が恐れを取り除きます。赤ちゃんの幸せな笑顔は、この世に産み出され、豊かな愛に守られている輝きです。
生駒聖書学院は、イエス・キリストの十字架の愛に救われ、新しくされた人生を、神の愛と人々の幸せのために生きる願いを持ち、キリストの愛に生きる学び舎です。
今日29日午後1時は、恒例のヨベル聖会。学院長メッセージで、今年もキリストの愛に心動かされ、9月5日の入学式に備える者も起こされます。
これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。
というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、見よ。すべてがあたらしくなりました。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。


交通事故から一ヶ月、立って語れる幸い

2016-04-28 18:29:24 | Weblog
ヨエル書2:28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。

クリスマス=イエス・キリストの誕生日

イースター=イエス・キリストの復活日=死からの誕生日

ペンテコステ=イエス・キリストの教会誕生日=今年は5月15日

このヨエルの預言は、イエス・キリスト昇天された10日後の日曜日の朝、実現しました。120名の弟子たちがエルサレムの2階座敷で10日間、断食と祈りをしていました。突然、天から、激し風が吹い来るような響きが起こり、家全体に響き渡りました。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとり一人の上にとどまったのです。すると120人全員が、聖霊に満たされ、御霊が話させてくださる通りに他国のことば=異言で話し出しました。

その音や大声を聞いて、人々が集まり、その日説教聞いて、3000人がアーメンと信じてバプテスマを受け、キリスト教会が誕生しました。その日がちょうどペンテコステの日=五旬節(過ぎ越し祭から50日目の収穫祭)=イエス・キリストが十字架で死に「復活して50日目でした。

聖霊なる神が地上で働きを主役としてお働き始めた日、その聖霊に満たされると、今でも同じ現象=特に異言を語り、今でも世界中のクリスチャンに5人に一人が同じ経験をしています。異言は神様だけが分かる天国言と言っても過言ではありません。また新しい言語習得の早業み与えられます。なんであれ、聖霊に満たされたら同じ現象が現れます。

明日29日は、生駒聖書学院ヨベル聖会;一ヶ月ぶりに立ってメッセージです。お会いできるのを楽しみにお待ちします。

ありがとうございます。今日もまた天国の笑顔の一日です。感謝します。

死からいのちに移された天国の平安と喜び

2016-04-28 06:16:41 | Weblog
聖書の一言;コリント人への第二の手紙5:11 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。
そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。
私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。
そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。
なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。
聖書のことばは、そのまま読むとスッキリ心に入ってきます。
肉体のことを幕屋=地上の住まい。神のくださる建物=天にある永遠の家。
肉体を持っている限り、重荷を負ってうめいている。疲れたり病になったり、事故ったりの人生です。
肉体の死は、天からの住まいを着る時です。しかし、その時は自分で決めるのではなく、神様の心にあります。それが寿命です。その特、死はいのちにのまれ、永遠の天国に憩う幸いです。
自分お努力や才能、地位や名誉や財産ではなく、イエス・キリストの十字架と復活をアーメンと信じると、聖霊がその保証をしてくれます。
信仰によって見えないのをアーメンと受け止めます、信仰によって歩む人生は、いつも心強く生きる力です。
心からの願いは、いつも念願とするのは、主に喜ばれることです。相対的に人と比較するのではなく、真の神の愛に絶対的に守られる平安と喜びです。
人生の終局は死であり、死後に全てがキリストの最後の審判で決まります。善であれ悪であれ、必ず人は人生の結果を刈り取るのです。天国か地獄が決定します。罪の支払う報酬は死=地獄です。
主イエス・キリストの十字架は、全ての罪を贖い、アーメンと信じる者を神の子とし、永遠の裁きから救い解放しました。
ヨハネの福音書5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
ありがとうございます。今日もまた死からいのちに移された天国の一日です。感謝します。


被災地に建つ益城エリムキリスト教会

2016-04-27 18:17:43 | Weblog
ネヘミヤ記8:10 きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。主を喜ぶことはあなたがたの力であるから。

今日という日は、生涯で今日だけ。しかも今日は、光あれと天地創造の日と同じように、愛の神によって備えられた新しい聖別された日。

悲しんではならない。悲しみと辛さの多い人生。

イエス様は悲しんでいる者は幸いである。その人は慰められる。なぜ泣いているのか。と悲しむ者に声をかけてくださる。そしてイエスは涙を流された。泣く者とともに泣いてくださる、素晴らしい友であるイエス様がいっしょです。

主を喜ぶことはあなた方の力である。上を見上げてみよう。先日、天王寺駅改札付近に、警官が7人も固まっている。何事と覗くと幼児が泣きじゃくっている。おまわりさんがしゃがみこんで声をかけている。

そこへ若いママが駆けつけ、その胸にすがりつき大きな声で泣き出す。しかし、先ほどとは違う涙と泣き声。悲しみの尽きない人生。病や死も人間である限り必ずある。愛と慰めのイエス様は、世の終わりまで共におられる。涙の原因も意味も分かってくださる。幼子はやがてにっこり微笑み、ママと手をつないで歩いて行った。

祈り感謝し、賛美しつつ喜びの中を生きる幸い。その幼子と同じように、神の愛の御胸に抱かれ、今日も一人暮らし。

あなた方の力を主が喜ばれるからだ。力がないのではなく力があるのだ。微笑み喜ぶことができる。ダメだ、仕方がない、どうにもならないと嘆くだけでなく、今できることをやってみよう。

熊本地震中心地益城町のエリムキリスト教会。土台がズレたが、今日、八代から来てくれた工務店社長が、土台を強化すれば大丈夫と、力強く電話で語ってくれた。

現在も被災地にたっており、民間ボラアンティアの宿泊所.とんこつラーメン炊き出しの中心となっている。支援物資も届き、生駒聖書学院もボランティア派遣。九州自動車道も開通したし、新幹線も動き始めた。

明後日29日は、ヨベル聖会メッセージ。脳梗塞の言語障害も、歯の治療後の語りにくさもいやされ、交通事故の顎と頬も20針塗ったが、自由に聖書のメッセージを語ります。1日から一ヶ月、ようやくたって話せる許可が出た。お祈りよろしくお願いいたします。

ありがとうございます。今日もまた笑顔で喜びの天国の一日。感謝します。

主にすがる我に悩みはなし 

十字架のみもとに荷をおろせば 

歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ

歌いつつ歩まん この世の旅路を アーメン





測り知れない宝を土の器に

2016-04-27 08:33:06 | Weblog
聖書の一言;コリント人への第二の手紙4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
人間は土の器。ちょとしたことで、欠けたり壊れたり、長寿時代になっても、例外はあっても死を迎え、最後は土に帰ってしまいます。
ところがその土に器に、尊い宝を入れているのが人間の尊厳です。器ばかり磨いても、中がガラクタばかりだったら役に立ちません。外形ばかり気にして化粧出ごまかすのではなく、内面の宝が耀くようにしたいものです。
市役所から後期高齢者通知が多く届きます。折角なら光輝・高貴・好機・好気・好奇・香気にあふれる人生をと願います、。
この宝=主イエス・キリストのいのちです。アダムが想像された時、土の塊でしたが、神はその鼻にいのちの息=神の霊を吹きこまれ、人は生きた者=人間になりました。
イエス・キリストをアーメンと信じるとき、神の聖霊が新しいいのちを与えてくだします。その日から土の器が、神の栄光を現す器へと変えられていきます。
1日に車にはねられ足をけがして歩けなくなり、全治一ヶ月を超えそうです。左顎と頬wp20針以上も縫い、幸い名の後遺症もなく綺麗な顔になりました。
29日午後1時のヨベル聖会では、たって話せるよう主治医から許可が出ました。1ヶ月間の書斎暮らし、不便さもありましたが、この測り知れない力=内なる宝=この奥義は内なるキリスト栄光の望みです。自分の力ではなく、聖霊の力と、イエス・キリストの愛と恵みです。
4章8節以下をお読みください。
私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。
すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。