牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

昨年も今年も、一年365日が毎日天国の平安と喜びでした

2013-12-31 18:41:59 | Weblog
今朝も、今日もまた天国の一日です!と元気に目覚めました。365日、日々天国の毎日でした。
昨年7月22日(日)脳内出血と交通事故。車は修理もできないほど破壊されましたが、かすり傷なく九死に一生!救急車で馬場記念病院に搬入されましたが、血管の破れもなく完治宣言で8月26日に無事退院で9月2日歳誕生日。3日には、新入生を迎えて元気での71歳。

減塩食事厳命で神学生とバイキングレストランにも行かず、家で家内と食べる。学期中も教授食事接待もなく、外食もなく自宅で減塩65パーセントポン酢で家内が作る食事だけ。
事故のことを小冊子に書き、写真があればリアルと思い、堺市の現場と病院まで電車と徒歩で行く。タクシーも使ったが16000歩にも。
今度は朝体が動かず、再び馬場記念病院へ。小脳内梗塞と診断され入院で、幸い手術はなしでした。退院後も学院講義は続け、日曜日午前の礼拝、午後は送迎車で大阪エリムキリスト教会礼拝説教。さすがに堺エリムまでは行けず、また月曜から学院チャペルや講義をつづけました。

昨年11月23日には、白方誠彌先生(元淀川キリスト病院院長・脳内外科専門医)を迎えて、満席の天国聖会。お交わりの中で厳しく脳内出血や脳梗塞への注意を受けました。24日が種子島で洗礼を受けて56年目の記念日。「みたび、輝く命に生かされてと小冊子発行。(5千部発行したが再版で、天国から追い返された牧師改題でまた5千部発行)読んでいただければ贈呈できます。メール;elimyoshi@kcn.jp へどうぞ)

昨年は学期終了と同時に、院内改装工事(予算2000万円=お祈りとご支援できれいに完成)、卒業式はきれいになったチャペルで行い、今年開拓教会スタート。タイで宣教活動している卒業生もあります。
神様の恵みに生かされたすべてが働いて益となる一年でした。多くの尊いお祈りありがとうございます。
今年もまた天国の日々でした。新しい年も毎日が天国の日々です!感謝します。

これは昨年書いたものが返送され、そのまま転載したものです。

明日は午前11時より、生駒聖書学院チャペルで、元旦祝福礼拝です。お出かけください。

10000万歩と書いて、大失敗大笑い

2013-12-31 09:25:58 | Weblog
聖書の一言=申命記34:7 モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。

人の命は120年と神様は宣言し、現代医学もまた寿命は120年は大丈夫。年齢100歳を超えても活躍されている方が多い時代です。人が生きるのはパンだけではない。神の口から出る一つ一つのことばによる。

全能で愛の神のみこころで、地上の使命を終えるとき、神がここに来なさいと召してくださいます。余命一年を宣告された家内は4年目の正月、脳内出血、小脳内梗塞と死の影の谷を歩み2年目の正月を迎え、元旦礼拝説教をする恵みを明日に控えています。

生かされている神の恵みに奇跡を思い、ありがとうございます。今年も毎日が天国の一日でした!感謝します。

お祈りありがとうございます。豊かな実り2014年の祝福をお祈りいたします。

昨夕は、愛知県から卒業生の牧師が、新年度献身入学者の願書と4名の希望者といしょに、面接に来てくれました。

生駒聖書学院は、今までも中国や韓国(の場合はビザを取得している場合)人を多く受け入れ、すばらしい牧師として活躍しています。タイ人もいまタイで大きく活躍しています。

またアメリカから、ルーマニアから生駒聖書学院に入学し、活躍している日本人牧師もいます。
今回は、二人はブラジル人でオブリガータと挨拶。と言っても一人は20年、家族とともに滞在し、日本教師もしています。もう一人も長年家族と共に来日し、今は一人で仕事をしているとのこと。
日本語だけの授業でも十分です。

神学生たちがポルトガル語にも興味を持ち、ブラジルやポルトガル宣教へのビジョンを持つ者が起こされればなどと思っています。

一年最後の日です。今年も毎日ブログを書けました。遠方へ出かけるときは、原稿を書いてそれを転載してもらいました。

早く化石人間を卒業し、PC持参で旅行できればと思いながら、フェイスブックもノートPCも使いこなせず、何とかと思いながらです。
一昨日は、フェイスブックに、日曜日10000万歩と書き、指摘され今朝気づき、大笑いしながら訂正しました。毎日一万歩を30年以上歩いたことになると指摘されました。

種子島では一日往復40キロは歩いたこともあります。小学6年生の修学旅行は、2泊3日の種子島徒歩旅行でした。

中学時代は往復18キロを毎日休まず通学したこともあります。今月から、毎日7000歩のチャレンジし、12月5日から継続しています。日曜日に電車で大阪の教会往復で1万歩だったので、0をたくさん書いて万を書いたので、一生かけても歩けない歩数になりました。

ほんとうにありがとうございます。2014年、さらに豊かな癒しと健康の中で、福音に仕えたいと願いつつ、元旦礼拝=生駒聖書学院チャペルで午前11時=に備えています。

イザヤ書
43:18 先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。

43:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

43:20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。

43:21 わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。

アガぺの愛で天国の日々の一年

2013-12-30 19:20:32 | Weblog
ほんものの愛(アガペの愛)を出す方法
アガペ、アガペと言っても、アガペの愛が出て来ない。断食し徹夜で祈り、黙想に黙想を重ねても愛情も愛念も出て来ない。思いと願いはあっても行動が伴わず、ついつい愛がまだ足りないと自分を責めたり、人をとがめたりします。
秘訣はアガペを言うことです。ああ、この人が救われ、よくなって欲しい。健康になってほしい。幸せになってほしい、この方にアガペの愛が届くように。
このような思い考えが、聖霊により、胸の奥、イヤ腹の底から想いが湧きあがり、告白のことばが出て、口にに出てくるのです。なぜそう告白できるか、そのようなアガペの愛が胸の奥に、腹の奥底にあるからです。聖霊は愛です。

イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。(マタイ14:14)and He was moved with compassion for them, and healed their sick. Compassion=あわれみ, 思いやり, 同情。
[ラテン語「一緒に苦しむ」の意 (COM‐+patī 「苦しむ,耐える」)]

いくら愛。アガペの愛を下さいと願い、祈って出て来るものではない。告白すると行動になって出てきます。スッと出るか、ボツボツかは分からないが、絶対出てくるのが聖霊に満たされているあなたから出る愛なのです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:5)御霊の実は愛だからです。

あなたの心が愛に満たされているなら、アガペの愛を信じ告白し実行できるのです。相手を思いやることばが告白なのです。それが胸の奥=腹の奥底から絶えず出ている状態になって、初めてアガペの愛の実践です。「あんな奴、早く地獄へでも行ってしまえ!」と思ったり、告白したらアガペの愛とはとても言えません。そんな思いが胸の中や腹の奥底にあったら怖いですね。

聖書を読むとイエス様のアガペのことばがいっぱいあります。いつも聖書に親しみそのことばを自分の告白としたいものです。 腹の底で思うことと、口で言うことばが一致し、行動する時奇跡が起こるのです。

悪い例です。 腹の底=「馬鹿やろう!お前なんか知るもんか。前から別れようと思ってたんだ。もうじき別れるからな」口では=「あらあなた、お帰りなさい。今日もお仕事お疲れさまでした」表面はニコニコ、内面は鬼です。

胸に愛のことば=「この人のおかげで、私も幸せになれた。この人と結婚してほんとによかった。ありがとう。感謝しています。愛しています」口に=「ダメ!ダメ!バカ親父」を連発する方、口癖よ、悪気はないのよ。ではどうにもなりません。

告白は両方です。腹の奥底も、口のことばも同じ句、アガペーの愛が常に流れることです。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。(マルコ11:23)
愛は実行です。良いことの実行です。愛は善行です。御霊の実は、寛容、親切、善意です。[こうすれば、こう受けるだろうからやってみよう」偽善です。

「こんなことをしてなにになるかしら。まあ、しなけりゃならないことだし、いいことだからやりましょう」と頭で考えてやるのも霊的には偽善です。だから、何か行動するとは、腹の底でどんな告白をいっているのかを、自分でチェックするのもいいですね。
ありがとうございます。今年もまた毎日アガぺの愛の天国の日々でした。感謝します。

艱難辛苦は、神の愛の贈り物

2013-12-30 05:53:06 | Weblog
聖書の一言=申命記33:13-16 ヨセフについて言った。「主の祝福が、彼の地にあるように。天の賜物の露、下に横たわる大いなる水の賜物、太陽がもたらす賜物、月が生み出す賜物、昔の山々からの最上のもの、太古の丘からの賜物、地とそれを満たすものの賜物、柴の中におられた方の恵み、これらがヨセフの頭の上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭の頂の上にあるように。

ヨセフは聖書人物の中でも、艱難辛苦を経験し、エジプトの総理大臣となり、国を飢饉から救い、自分を奴隷に売り飛ばした10人の兄たちを許し、父と家族72人を救い出しました。

この一年間、さまざまなことがありましたが、健康、幸福、豊穣、繁栄、配慮、分かち合い、知識、知恵、行動力、チャンス、チャレンジ、喜び楽しみ、信仰、希望、愛など、バランスにあふれた天国の一年でした。そのように信じ、告白し、感謝しつつ年末を迎え、新しい年が恵み豊かな年と、大きく期待して迎えたいものです。ありがとうございます。

今日もまた天国の一日です。感謝します。

コリント人への第二の手紙
4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

4:12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

4:13 「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。

4:14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。

4:15 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。

4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

昨年の今日。愛で閉じて愛で迎えよう、書いてました。

2013-12-29 19:38:49 | Weblog
2012年を愛で閉じ、新しい年を愛で開こうと祈りつつの年末。

 愛とは何か頭では分かっているつもりでも、毎日の生活の中でどう考え,どう実行していくのかを、考えてみましょう。

 聖書の教える愛はアガペの愛です。でもアガペの愛を哲学的、概念的に考えるとまた分からなくなります。 

 イエス様の時代には、「モーセの十戒」がユダヤ人の生活を支配していました。

十戒の中心は愛です。そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。(マタイ22:36-39)

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。と、イエス・キリストは宣言されました。

 十戒は神から直接与えられたものでしたが、ユダヤ人たちは様々な戒律を定め、イエス様の時代には630を越える戒律が定められていました。600以上もありました。

 その戒律に従ってラビが裁きをする。あなたのしたことは、第何条に反するから違反。あなたの妹は第何条違反、と責めるのがラビの仕事でした。だからラビの仕事は、検察官か裁判官のようでした。

 イエス様は、神様は律法を与えたたけれども、律法ではない。神様は人を裁くのが趣味で律法を定めたのではなく、人々の幸せを願って律法を定めた、神様の人々への愛によって、十戒を与えたのです。それを守れば生きるという教えです。

 当時のユダヤ教は、「律法、律法、律法、規則、規則、規則」(イザヤ28:13)でがんじがらめになっていました。

 イエス様は、律法は裁き罪を定めるためではなく、人を愛する神様が人の幸せのために与えた。と教えるとともに実行されました。

 その愛を実践が隣人を愛することです。神様の愛は大きくて深く、人間の目で見たらわからない。でも神の形に象って造られた人間にも、その神なる部分があり、それが愛です。

 ストルゲの愛=親の子への愛、家族愛です。フィレオの愛=友愛、友情です。またエロス=男女間の愛、夫婦愛です。それを愛情とも愛念と言っても過言ではない。特にエロスの愛は誤解され、エログロナンセンスに堕落しています。

 東関東大震災、津波、原発事故へのボランティア活動は、その同胞愛、世界中からは人類愛が現わされました。あれはアガペではないと批判する人たちは、律法を持って裁く人たちです。足りない、足りないではどうにもなりません。実行するのが愛です。

 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。(マタイ22:36-39)

 だから愛は実行されることによって有効になるのです。見えない神をアガペの愛で愛していますといくら言っても、見えている隣人、いちばん身近にいる夫や妻、子どもや、親や兄弟姉妹を愛するのが、実際的な愛です。お正月はその愛を実践できる最高の時かもしれません。

 里帰りを愛する日本は幸いな国です。我が家も子どもや孫たちが正月2日にやってきます。

 5歳の孫と1歳9か月の孫は、ご飯党なので家内はご飯を炊いて、両家とも降りかけ持参でやって来ます。家内も私もおせち料理も食べませんので、子どもたちはそれぞれ食べ物持参での正月です。それでもアガペとストルゲの理屈は別として、神の愛あふれる日々を感謝して過ごしています。 

 
ありがとうございます。今日もまたアガペの愛の天国の一日です!愛で過ごす年末、愛で迎える新年に大きな期待を!感謝します。


本当の愛に、愛され守られ続けて

2013-12-29 07:53:03 | Weblog
聖書の一言=申命記33:12 「主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように」

世界で最高のものは愛です。可愛いこどもが、親に愛され平安に、その母の胸に憩い、泣いても笑っても怒っても拗ねても、親は正直?であり、!で頬ずりします。叱責の鞭を加えてもそのムチを愛の手に握り、傷つけたり痛めることはありません。そんな愛はおかしい自己愛に過ぎない。そんな愛に騙されるな。

真の愛の神は、その愛を惜しみなく注ぎ、ひとり子なるイエス・キリストを十字架に身代わりとしてまで、地獄へ行かないように愛してくださいました。その豊かな愛に愛され、今年最後の日曜日です。午前中は奈良市富雄キリスト教会で礼拝。午後は大阪市新世界通天閣近くのエリムキリスト教会礼拝です。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日です!感謝します。


今日も元気で健康感謝

2013-12-28 18:29:05 | Weblog
送迎者があるので病院を見舞いました。帰宅するとガレージに野菜の山。ものすごく大きな農家を訪問した牧師が、帰り道に立ち寄りいただいたと、大根、水菜、サトイモ、熟柿等を降ろして行ったと家内も途方に暮れた顔で側に立っていました。
 健康のために野菜は必要ですが、早速仕分けして、周りに少しづつ持って行き、「今日は水炊きたけど、水菜買うのを忘れたのに嬉しい!」と、喜んでくれた家もあったり。
やっと終わると娘が孫を連れて来たので、いっしょに遊ぶ(と言ってもまだ幼い)しばらく大騒ぎしてバイバイ。
学院内や少し外も7000歩ほど歩き、出会う方に元気そうですね。すっかり治ってよかったですねと声をかけられたり。イエス様に癒しをいただきすっかり大丈夫です。大事をとって体調を整えているんです。と親切なお見舞いの言葉に感謝する、早い夕暮れでした。

 ありがとうございます。今日もまた最高に気持ちの良い天国の一日でした!感謝します。

 安眠で熟睡、明日の礼拝は富雄キリスト教会。午後からは電車で大阪エリムへ。

コリント人への第二の手紙
4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

4:12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

4:13 「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。

4:14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。

4:15 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。

4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。


70代なら、毎日7000歩くらい歩けとチャレンジ中

2013-12-28 16:16:29 | Weblog
70代なら7000歩位は歩けとチャレンジされ、12月5日から毎日の日課に。
12月8日は、愛知県知多半島半田市で一泊した朝、礼拝の迎えが来るまで、ホテルの周りを歩いたが、道に迷いワンメーターはタクシーで間に合った。

12月15日は、熊本県益城町のホテル周辺を、野菜畑ばかりだったが7000歩。7000歩になるには一時間少し必要。

普段は生駒聖書学院内のキャンパスを、書斎から院長室までは200歩だが、院内をロ回りして往復2000歩になるよう歩きます。

明日の礼拝に備えて準備していたが、きょうはコンビニやパン屋にも用があり一時間ほど散策。

家に帰ったら7500歩に。山道までは行かなかっただ。山茶花や真っ赤な花が冬空に鮮やか。黄色くなった橙や自然の美も楽しみつつの午後。足もよろけずつまずかず元気な、礼拝前の土曜です。
ありがとうございます。今日もまた元気な天国の一日でした!感謝します。

詩篇
121:1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。

121:2 私の助けは、天地を造られた主から来る。

121:3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。

121:4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。

121:5 主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。

121:6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。

121:7 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。

121:8 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

明日は午前中、奈良市の富雄キリスト教会へ。午後はその足で大阪新世界での礼拝。

幸いに満たされ、祝福のことばだけを残して死ぬ恵み

2013-12-28 08:37:02 | Weblog
聖書の一言=申命記33:1-3 これは神の人モーセが、その死を前にして、イスラエル人を祝福した祝福のことばである。彼は言った。「主はシナイから来られ、セイルから彼らを照らし、パランの山から光を放ち、メリバテ・カデシュから近づかれた。その右の手からは、彼らにいなずまがきらめいていた。まことに国々の民を愛する方、あなたの御手のうちに、すべての聖徒たちがいる。彼らはあなたの足もとに集められ、あなたの御告げを受ける

必ず終末がやってきます。ひとつは個人の。そしても一つは世界の終末。今年も愛する多くの方々が召され、喪中お見舞いが多く届きました。イエス・キリストをアーメンと信じて、永遠の命を受け安らかに天国へ凱旋して行かれました。

死を前にして祝福のことばだけを残したいものです。おぎゃあと泣いて,まわりの笑顔に包まれてk生まれ、死を迎えるときもまわりに笑顔に包まれ、おやすみなさい。天国の輝きでまた会いましょうと、幸せなアーメンで召されたいものです。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日です!感謝します。


ゾンビの腰振りダンスにだまされるな

2013-12-27 18:16:12 | Weblog
健全な精神は健全な肉体に宿る」と言う有名なことばがあります。しかし本当の言葉は、健全な精神は健全な肉体に宿る(が宿るように祈らねばならない)と言う意味です。
若者が体を鍛えるだけで勉強しないことを嘆き、『健全な肉体には健全な精神も!』(肉体だけ鍛えてもダメ!)という意味です。

聖書は精神と肉体だけでなく、「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」と述べています。
人間は健全な霊と、健全な魂=精神、そして健全な身体=肉体とが調和した時がいいのです。その中での最優先は霊的であることです。真の神が三位一体であるように、人間も霊・魂=精神・肉体が調和している時、幸せで平安なのです。

霊は真の神を体験できるます。
魂=精神は、知性・感情・意志であり、自分を意識するものです。
体は五感=視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触角があり、世界=他を意識します。

精神と体で生きているのが普通です。霊は最初の人間が堕罪した瞬間に死にました。だから外観がどんなに美しいタレントたちが半裸で踊っていても。ほんとうは死人(骸骨)・ゾンビが腰振りダンスをしているのです。
そう思うとイエス様のおことばのとおりです。「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」夜の巷をさ迷い歩く、霊的死人がゾンビのように多くなる、年末の繁華街です。

イエス・キリストのことばに、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです」とあります。
十字架の上に死に、墓に葬られ3日目に復活された、イエス・キリストをアーメンと信じる者は、霊的いのちがああてられるのです。内にある霊が信じるときに再生されると言ってもいいでしょう。それは永遠のいのちです。神のいのちが与えられます

だから肉体が死んだら神の国=天国に行けるのです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24)

主イエス・キリストを信じると、新しい人生がはじまります。そのことを新生と言います。輪廻ではなく、この世で新しく生まれ変わり、神の子となり、天国に生きる者とあるのです。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(コリント第二5:17)
その新しさは霊的新生、新しさです。肉体の変化ではありません。身体はもとのままです。けれども内面に霊が与えられたので、平安でニコニコ顔になったり、イライラが消えたりするので姿型も美しくなる(特に女性は)人が多いです。精神=心の考えがだんだん聖書的になるので、高貴なことを考え口にするので穏やかで高尚な人に変わります。

たとえそのような外見的変化が無くても、神に霊が与えられたので神の子である事実に変化はありません。だからもう人と比較して落ち込んだり、高慢になって人を身下げたりもしなくなり、謙遜がその人を満たします。
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結びます。
そのような霊的新生の経験を年末になさり、新年がカレンダーが変わるだけでなく、人生そのものが新しくなりますよう祝福を祈ります。