牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

初めから聞いたことにとどまる

2016-07-31 09:55:03 | Weblog
聖書のひと言;ヨハネの手紙第一3章24節あなたがたは、初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子ーイエス・キリストおよび御父のうちにとどまるのです。
ホテルの窓べから、西之表キリスト教会のグリーンの屋根、若さ公園の緑と朝日に美しく輝いています。
午前10時30分より、種子島から生駒聖書学院に来て洗礼を受けた3人と、被災地益城町でボランティアに来て洗礼を受けた63歳も、全員礼拝に出席です。
昨日は、高校時代下宿していた家の近くで、家庭集会と祈りの時、感慨無量の時間。59年前に、アーメンと信じクリスチャンとなった教会で、礼拝説教の恵みの朝です。
ありがとうございます。今日もまた天国の1日です。感謝してます。

弁護士なるキリスト

2016-07-30 11:23:04 | Weblog
聖書のひと言;ヨハネの手紙第一2章1節私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。ビジネスイン義なるイエス・キリストです。
知りあいの弁護士があり、教会員から相談を受け、牧師の祈りとともに、法律的な時は、弁護士に相談し、引き受けてもらいます。相談に弁護士を訪れると、弁護士から電話があり、大丈夫です。心配しないように伝えてください。もう40年以上のお付き合いです。
イエス・キリストは、わたしは決してあなたを離れず、見捨てないと確約してくださり、祈りに答えて弁護してくれます。いつも平安と守りで幸せです。
59年前にアーメンと信じた、西之表キリスト教会の屋根が朝日に輝くホテルの窓べです。飛行機雲がきれい。上天気の種子島の朝。 多くの出会いの土曜日です。
ありがとうございます。今日もまた天国の1日です。感謝してます。

救いの恵み

2016-07-29 09:10:59 | Weblog
聖書のひと言;ヨハネの第一の手紙1章7節御子イエスの血がすべての罪から潔める。
城山観光ホテルで鹿児島の朝はよい天気です。熟睡で目覚め、ありがとう、感謝してます。元気に声も出て、祈りと賛美です。
桜島が3日前、5000メートルも噴火と聞きました。
大正3年の大噴火で、種子島に鴻之峰小学校ができ、父が徳之島から移住し、生姜山に生を受けました。
16歳でアーメンと信じ、その日に教会前の海岸で洗礼を受け59年。
御子イエスの血がすべての罪を洗い清め、雪よりも白い心で、生かされている恵みの朝です。
ありがとうございます。今日もまた天国の1日です。感謝してます。

鹿児島市一泊と種子島三泊の旅へ

2016-07-28 04:27:43 | Weblog
聖書の一言;ペテロの第二の手紙1:311 というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。
その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、
知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。
これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。
ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。
このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです。
今日から鹿児島市へ行き、卒業生牧師夫妻と夕食。城山観光ホテル泊で。29日トッピー=
水中翼船90分で西之表港着。1日朝一番艇で、鹿児島港から新大阪駅から生駒です。
4月に、種子島からの家族3人が生駒まで来て洗礼。益城町に種子島からボランティアに来た63歳男性もアーメンと洗礼を受け、もう一人4年前生駒で洗礼を授けた者で5名になります。
31日の礼拝には西之表キリスト教会、夜は種子島新生キリスト教会で礼拝です。30日は、今年洗礼を授けた80代夫妻宅で家庭集会。市の区長会で著名な前区長宅で、高校生時代下宿していた隣の地域で、灌漑深い思いの種子島行きです。
あらゆる努力をしてとありますが、努力は自分の力、頑張りです。聖書の努力は、やろうと心で決めると、聖霊の助けでイエス・キリストの力が注がれ、ムリせずストレスやプレッシャーなどのつぶされず達成できます
救われると言うことは、神の召され選ばれ、そうする力を与えられているからです。内におられるキリストの助けと、聖霊の能力でえ天国=永遠の御国に入る恵みが豊かに加えられます。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝してます。


恵みと愛との光り輝く

2016-07-27 18:56:18 | Weblog
恵みと愛との 光り輝き
愛のうち歩み 聖霊ともに
高らに賛美し 祈りをささげ
主イエスに従う 天国の日々

光の子として 賢く歩み
聖書にアーメン 確信の道
福音伝える ほほえみ豊か
主イエスに従う 天国の日々

御霊に満たされ 輝きの道
みこころ求めて ひたすら進む
十字架のイエスは いつもおられて
主イエスに従う 天国の日々
アーメン

愛は生きる力

2016-07-27 18:51:58 | Weblog
マタイの福音書14:14 イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。
当時のガリラヤ地方は、南北80キロ、東西40キロの間に、204の町村があり、それぞれ1万5千人以上だったそうです。イエス・キリストは、病を癒し奇跡をすることで良く知られ、領主ヘロデでさえ、その噂を知り、自分が虐殺したバプテスマのヨハネが、死人の中から生き返ったんだと恐れるほどでした。
そんな中でガリラヤ湖の対岸に、難を避け、群衆から離れて休むために、船で逃れました。しかし、人々は町々から歩いて、イエス・キリストの後を追いました。休む間もない中で、多くの群集を見られ、
彼らを深くあわれました。平和と静寂と孤独を求めたのに、もう群衆に取り囲まれたのです。キリストは、腹を立て、うるさいという気持ちを、声を荒げて追い返しませんでした。彼らを深くあわれみました。
あわれみは、単なる気休めの同情心ではなく、はらわたがよじれるほどの断腸の思いです。
英語=compassion=人の痛みを理解し、何かをしてあげたいという、断腸の人道的な性質の現れです。そこから生まれる辛さや悲しみを自分のものと感じ、助け癒し救う力です。
へブル書2:18 主=イエス・キリストは、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。
4:15 私たちの大祭司=イエス・キリストは、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
そして、彼らの病気を直されました。奇跡は見世物や人寄せの手段ではなく、神の愛の現れです。
愛=Love
L=Listen=聴くこと
O=overlook=大目に見ること
V=voice=声をかけること
E=effot=努力すること
愛は、それなりの努力や時間を割くことなど犠牲を伴います。その犠牲とは思わない生き方です。愛こそが最高の憐れみです。その愛を十字架に見ます。
ヨハネの福音書15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。あなたがたはわたしの友です。
ペテロの第一の手紙2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
ありがとうございます。今日もまた憐れみ豊かな天国の一日です。感謝します。

恵みと平安がますます豊かに

2016-07-27 07:53:50 | Weblog
聖書の一言;ペテロの第二の手紙 1:2 神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。

ありがとう。ますます豊かにされる人生。感謝です。
まず、恵みと平安が、ますます豊かにされる。アーメンと信じた16歳の日から、朝ごとに恵まれ、活き活き生かされて続けている。
何時、天国へ召されるかは、神の愛のみこころのときですが、地上の生活の息引き取るとまで、恵みと平安は、ますます豊かされます。
2年3ヶ月前、家内が召されるとき、指文字で私の手に、て・・ん・・ご・・く・・と書き、恵みに満たされ、平安に召されました。

クリスチャン生活は、いつも恵みと平安が、ますます豊かにされ続ける人生です。
何事があろうと起ころうと、すべて神のなさることはその時にかなって美しい。ありがとう。感謝しています。祝福から祝福へ。信仰から信仰へ。力から力へと。強がりでも、頑張りでも、努力でもなく、平安と恵みで、ますます豊かにされます。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝してます。

働く者は、少し食べても多く食べても、快く眠る

2016-07-26 20:07:16 | Weblog
伝道者の書第五章

神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよ。近寄って聞くことは、愚かな者がいけにえをささげるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行なっていることを知らないからだ。

神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。




仕事が多いと夢を見る。ことばが多いと愚かな者の声となる。

神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓ったことは果たせ。

誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。

あなたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ。使者の前で「あれは過失だ。」と言ってはならない。神が、あなたの言うことを聞いて怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてもよいだろうか。

夢が多くなると、むなしいことばも多くなる。ただ、神を恐れよ。




ある州で、貧しい者がしいたげられ、権利と正義がかすめられるのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもうひとりの上役がおり、彼らよりももっと高い者たちもいる。

何にもまして、国の利益は農地を耕させる王である。




金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。

財産がふえると、寄食者もふえる。持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ。

働く者は、少し食べても多く食べても、ここちよく眠る。富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる。

私は日の下に、痛ましいことがあるのを見た。所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。

その富は不幸な出来事で失われ、子どもが生まれても、自分の手もとには何もない。

母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。

これも痛ましいことだ。出て来たときと全く同じようにして去って行く。風のために労苦して何の益があるだろう。

しかも、人は一生、やみの中で食事をする。多くの苦痛、病気、そして怒り。




見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。

実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。

こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。






何も心配するな

2016-07-26 05:20:16 | Weblog
聖書の一言;ペテロの第一の手紙5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
思い煩いや心配事が多い人生です。イエス様は、明日のことを思い煩うな。空の鳥や、野の花をみなさい。蒔かず、刈らず、倉に納めず、思い煩わずさえずる。野の花は、栄耀栄華を極めたソロモンより、美しく装い咲き、神を讃えている。
パウロもン愛も心配せず、ただ感謝して願い事を神に知ってもらいなさい。ペテロは、思い煩いをいっさい神に委ねなさい。いっさい=一切ではなく、一切合切すべてをお任せすることです。愛と全能の神は心配してくださいます。
ありがとうございます。感謝しています。そう口に出して言う時、平安が幸があふれて、笑顔が輝き、神の栄光がすべての上に輝きます。
あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝してます。

100パーセント確実なことは

2016-07-25 18:49:03 | Weblog
マタイの福音書13:47-50 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
13章から海辺の垂訓=教えのたとえ話の7番目です。2番目の毒麦のたとえと同じく、必ず最後には正しい裁きがあり、決着がつきます。
聖書は、罪の支払う報酬は死である。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(へブル9:27)
00パーセント確実なことは、人間は死ぬことです。そして、死後に裁きを受けることも定まっています。それから逃れることはできません。
最後の審判のとき、全てが裁かれます。イエス・キリストは、自分のいのちを十字架に犠牲にして、私たちが受ける裁きを自らに受けました。その事をアーメンと信じるだけで、投げ捨てられる魚のようにはなりません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです(ヨハネ5:24)
最後の審判を恐れることなく、罪の報酬である死からも救われ、永遠のいのちを持ち、さばきにおびえることもなく、死からいのちに移った平安と喜びの毎日です。
のちあり生かされる限り、恵みと愛に満たされ、使命を果たし続ける幸いな一日です。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝してます。