牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

口で告白すれば

2017-11-30 07:42:42 | Weblog
ローマ人への手紙
10:1-11
兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。
私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。
というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。

キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いています。
しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。
また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。

では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

ねむの木学園

2017-11-29 07:45:13 | Weblog
宮城まりこさんの特別紙上講話を読んだ。
誰もが幸せになれる社会をめざして、私財を投じて設立した擁護施設「ねむの木学園」が来年、50年目を迎えます。
彼女が歌を歌い始めたのは戦時中のこと。
昭和30年のある日、レコード会社を訪れたとき、ゴミ箱に歌詞の書かれた原稿用紙が捨ててあるのに気づきました。
しわを伸ばして良く読みました。題名は,ガード下の靴みがき。
戦争が終わって10年が経っていたが、当時の東京では、まだ靴磨きや花売りなど、路上で働く子どもを良く見かけた時代でした。
彼女は、そんな彼らの健気な姿が目に浮かび、ディレクターにこの歌を歌わせてと頼み込み、ありったけの心をこめて歌いました。
すると、ガード下の靴磨きは大ヒットし、辛い生活を送る若者たちから、元気が出た。僕も負けないなどどと手紙が届きました。
歌を歌わなかった神学生時代、ガード下の靴磨きを口ずさんでいたことをお思い出しました。
現在は,掛川市にねむの木学園から、ねむの木村として、皆が同じ目線で暮らす社会を願っている,宮城まり子さんと、ねむの木村の祝福を祈る朝です。

ガード下の靴磨き

紅い夕日がガードを染めて
ビルの向こうに沈んだら
街にゃネオンの花が咲く
おいら貧しい靴磨き
ああ 夜になっても帰れない

ねぇ小父ちゃん 靴みがかせておくれよ
ホラまだこれぽっちさ てんでしけてんだ
え?お父さん 死んじゃた
お母さん 病気なんだ

墨に汚れたポケットのぞきゃ
今日も小さなお札だけ
風邪の寒さや ひもじさにや
馴れているから 泣かないが
ああ 夢のないのが 辛いのさ

誰も買ってはくれない花を
胸にあの娘は泣いて行く
可愛そうだよお月さん
何でこの世の幸福=しあわせは
ああ みんなそっぽを向くんだろ

選びの不思議

2017-11-29 05:37:22 | Weblog
ローマ人への手紙
9:10-33
このことだけでなく、私たちの父イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。
その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、
「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。
それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と言っています。
こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。
すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」
しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。
陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。
神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。
「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。
『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」
また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。
「たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。
主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」
また、イザヤがこう預言したとおりです。
「もし万軍の主が、私たちに
子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」
では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。
しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。
なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
それは、こう書かれているとおりです。
「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。
彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

きょういくときょうようの日々

2017-11-28 04:46:03 | Weblog
あれこれ心配しても、解決はない。イエス様は、明日の心配は無用です。一日の苦労はその日、その日で十分です。と教えました。きょうようと、きょういくの11月28日です。
きょうよう=今日用、きょういく=今日行く。毎日いろいろあります。
種子島の開眼で洗礼を受けて、24日で60年になりました。23日には杏樹で美味しい鉄板焼きをご馳走になりました。
今日は、岡山市からわざわざ新幹線で来て、中国料理白楽で祝ってもらいます。学院が試験中で、ゆっくり新阪急ホテル27階行きです。
24日は、独り静かに聖書を読み祈り、ゆっくり散策しながら、詩篇を暗唱でした。携帯も故障したので、イエス様とともに過ごせました。
まことに、私のいのちの日の限り、
いつくしみと恵みが、私を追ってくるでしょう。詩篇23:6

わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ、
あなたの一生を、良いもので満たされる。
あなたの若さは、鷲のように新しくなる。詩篇103:2-5

ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝です。

真実の愛

2017-11-28 04:19:38 | Weblog
ローマ人への手紙
9:1-9
私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。
私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。
4 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。
父祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。
しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、
アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のだからです。
すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。
約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」

勝利の日々を

2017-11-27 06:56:27 | Weblog
ローマ人への手紙
8:31-39では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

敵たいする者なし

2017-11-26 05:21:05 | Weblog
ローマ人への手紙
8:28-34
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

共同相続人

2017-11-25 06:42:24 | Weblog
ローマ人への手紙
8:14-28
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

良い贈り物

2017-11-25 06:17:45 | Weblog
すべての良い完全な贈り物は、光を造られた神から来る。
神は愛あふれる天の父。いつまでも変わらず、恵みを与え続けてくださる。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝です。