牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

船小屋の大楠(おおくすのき)林をゆとりの一万歩

2010-05-31 07:44:31 | Weblog
 土曜日の夜は、船小屋のホテルに一泊でした。

 ホテルの前には中ノ島公園の「大楠林(おおくすばやし)」が広がっています。この林は東へ約6キロ、立花町まで続いていて、同公園内だけでも約1,300本のクスノキが生い茂っています。中には樹齢約300年で高さ約30メートル、胸高周囲約2メートルにもなる巨木もあります。

 実はこの「大楠林」、自然林ではなく「人工林」なおです。クスノキは江戸時代、柳川藩が矢部川の堤防工事をした時に植えられました。

 元禄8年(1695年)、立花町に「千間土居」といわれる堤防が築かれた、同藩普請奉行・田尻惣助(そうすけ)とその子惣馬(そうま)が植林をしました。
 水防のための林が、305年後船小屋のホテルに泊まった牧師が歩くなどとは、考えもしなかたことでしょうが、朝早く今日、もまた天国の一日です!と祈りつつ、ゆとりの一万歩の朝でした。

 朝食後迎えの車で、筑後市日本キリスト教団羽犬塚教会礼拝説教へ。116年の歴史を刻む教会で、和泉幼稚園とともに筑後市の有名な牧師と教会です。

 礼拝後は昼食愛さん会。手作りの美味しい御馳走に舌鼓を打ちながら、メッセージの感想を分かちうひと時でした。

 午後からは八女フロンティアチャーチ祈りの家で伝道集会。祈り備えられた集会で久留米の教会やカトリックのの参加もあり会堂いっぱいの集いでした。

 集会後、特に祈りに覚えられた方お二人のために祝福を祈り、17時14分の特急ツバメで博多へ。新幹線のぞみへ乗り継ぎ新大阪。地下鉄と近鉄で生駒駅よりタクシーで21時30分帰宅でした。羽犬塚駅から自宅まで4時間15分。走りながらの乗り継ぎでした。

 お祈りありがとうございました。感謝します。今日もまた天国の一日です!

 これから朝のチャペルと昼まで講義が続きます。今日も元気で天国の喜び!ハレルヤ。

テモテへの第一の手紙

1:12 私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。

1:13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

1:14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。

1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

1:16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。

1:17 どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。

 

祈りの手は働く手、働く手は祈りの手

2010-05-30 13:34:03 | Weblog
祈りこそ、人と動物を分かつものです。祈りは人間の生活の基本です。

 礼拝で司会者が終わりに祈り、全員がアーメンを唱和した瞬間、「いただきます!」というかわいい声が、チャペルいっぱいに響きました。思わず、みんなに驚きの笑いと微笑みが広がりました。まだ幼い女の子が叫んだ声でした。おそらくお腹もすいていたし、何よりもお家でアーメンと祈ってから「いただきます!」と言うのが習慣だったのだと思います。

 母親といつも教会に来ていたある幼い子は、「お家でご飯を食べるとき、お祈りしないのはポチとパパだけね」と話しました。父親は恥じ入り、次の日曜から教会に行くようになりました。

 祈りの手を合わせることが自然な習慣となる生活は、幸せだと思います。

 500年ほど前、ドイツにデューラーとハンスという、美術工房で働く若い見習い職人が、画家を目指していました。しかし、絵筆をとる時間のないほど働かなければ、生活もままにならないほどの貧乏暮らしでした。

 2人は生計と画業の両立に窮し、ハンスが、「君が画家として成功するまで、自分が働いて支え、君が画家として成功した後、自分が絵の勉強をしよう」と、デューラーの学資のために働くことにしました。先に絵を学ぶことになったデューラーは、イタリアのベネチアで画家になるために一生懸命に勉強をはじめました。ハンスはニュルンベルグの鉄工所で働きながら、デューラーにお金を送り続け、その生活を支え続けました。

 3年が過ぎ、デューラーの名はベネチアでも評判になりはじめました。作品も売れるようになり、「今度はハンスの番だ!」とニュルンベルグに帰ります。帰国して握手した時、デューラーはハンスの手を見て号泣します。なぜなら、友の手は重労働のために変形し、もう絵筆が握れなくなっていたからです。しかし、ハンスはデューラーのために祈り続けていたので、彼の成功を喜び、涙しました。

 デューラーはその愛に感動し、ハンスのごつごつとした手を「祈りの手」として描きました。これが有名な「祈りの手」と呼ばれるデューラーの代表作なのです。ブログを書いている書斎にも、院長室にもその祈りの手が飾られています。2人のエピソードを知るほどに、感動と涙を禁じえません。

 祈りの手は働く手であり、働く手は祈りの手であることを痛感します。どんなときでも、たとえ30秒であれ、瞬間であれ、沈黙の祈りでさえも尊い祈りであることを覚えたいものです。長時間の祈りでなければ本当の祈りではないなどと軽々しく説教したり、自慢するところから解放されたいものです。と同時に、主イエス・キリストの祈りに支えられ、守られていることを覚え、私たちもまた友のために心熱く祈り続けたいものです。

 主イエス・キリストのお名前で「アーメン」と真実の祈りがなされ、「ありがとうございます。祈れました!感謝します!」との声が、すべてのクリスチャンの口から告白されるとき、神の栄光は大きく輝きます。

 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8:33〜34)

 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(ヘブル人への手紙7:25)

具体的に祈れる幸い

2010-05-29 05:38:33 | Weblog
昨日は、消火器投げ込み事件(72件)相談に訪れた二人の刑事さんと、心を合わせて事件の解決を祈りました。おそらく牧師と祈ったことは初めての体験だと思います。

 今日は大分県中津市、福岡県筑後市&八女市までこれから出かけます。新幹線で小倉で乗換え中津市へ。夕方には筑後市羽犬塚駅まで迎えがありホテル泊。明日の礼拝に備えます。

 イエス様がエリコの町へ行かれたとき、道端に座って物乞いをしていたバルテマイという目の見えない男が叫びました。彼を黙らせようと大勢でたしなめましたが、彼はますます「イエス様。わたしをあわれんでください」と叫び続けます。

 イエス様はその声を聞くと立ち止まりました。それは、今の時代も変わりません。イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも同じお方です。永遠に変わることなく生きている救い主です。

 祈りは叫びです。求めることは他の人から見たらおかしく思われることもあるかも知れません。しかし、主の名を呼び求める者は救われるのです。

 イエス様は立ち止まり、「あの人を呼んで来なさい」とバルテマイの叫び求める声に答えました。

 彼は上着を脱ぎ捨ててすぐに立ち上がり、イエス様のところに来ました。目は見えなくても、彼の顔が喜びに輝いている姿を想像できます。「わたしに何をしてほしいのか」と言うイエス様の問いに、響くようにバルテマイは、「先生。目が見えるようになることです」と答えます。

 イエス様は、「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。その瞬間、彼は見えるようになり、イエス様のいかれる所に従いました。

 朝ごとの祈りの時や日々の瞑想の時に、「わたしに何をしてほしいのか」との声を聞く思いを与えられます。様々なことを祈り求めているけれども、いつの間にか言葉を並べているだけで祈りの時間を叫び続けている姿に気付かされます。

 「主よ。お金が必要です」「主よ。病んでいる兄弟を回復してください」「開拓伝道中の牧師の働きを祝福してください」「臨終を迎えている姉妹に平安と天国の輝きをお示しください」。その日の必要のために、主の助けと解決を明確に求める幸いを経験する祈りの時です。

 だれにでも惜しげなく、とがめることもなくお与えになる神に純粋に願うなら、必ず与えられます。少しも疑わずに、バルテマイのように信じて願うだけでいいのです。

 孫たちが誕生日前になると、「じいちゃん。誕生日のプレゼントを買ってくれる? お花屋さんのセットだけど」と、幼い願いですが具体的に欲しい物を言われると嬉しいものです。

 願った孫もですが、そのように言われると顔は喜びで輝き、孫を抱き上げ頬ずりて祝福を祈ります。まことの愛なる神は、イエス・キリストのお名前による祈りを必ず聞かれます。明確に信じて具体的に祈る恵みを体験してみませんか。

 信じますと明確に祈りで告白するとき、祈りは必ず実現します。心の信仰と口に出す言葉が常に一致する祈りでありたいものです。

 ラーメンが食べたいと朝から思っていても、食堂へ行ったときウドンと言ったならウドンが出されます。どうしてウドンですか、ラーメンをと朝から思っていたのにと、いくら頑張っても言った通りになっただけです。

 祈りの答えは、願いを明確に心で信じることと、告白の言葉を一致させることです。心の中の願いを明確にすると、思うだけよりも百倍も千倍も大きな祝福を体験できます。バルテマイの祈りを模範にしましょう。

マタイの福音書

7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

7:9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。

7:10 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。

7:11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

消火器投げ込み事件

2010-05-28 07:45:12 | Weblog
生駒聖書学院は学期ごとに神学生の憩いのときを持っています。

 一学期と二学期はピクニック。三学期は関西圏神学校合同スポーツ大会(今年は11月?)

 今日は近くのイモ山公園で松阪牛のバーべキュー。昨年三重県からの神学生があり、バーベキューのたびに松阪牛の差し入れがあり、神学生だけでなく院長にも差し入れがあり、昨夜は上等の肉を美味しくいただきました。 

 以前はいっしょに行くことが多かったのですが、99年の脳内出血で倒れて以来、留守番役です。

 今日は午後に、消火器投げ込み事件(阪神地区のプロテスタント教会に消火器が投げ込まれ、もう70件以上も事件が続いており、犯人は見逮捕です。テレビや新聞でも報じられています)担当の刑事がキリスト教会事情についての調査に来るので、時間を開けてお待ちしている金曜日です。

 なぜプロテスタント教会だけが狙われるのか。単なる愉快犯か?思想犯?他国人?警察も判断のしようがない状態のようです。投げ込み直後にバイク(犯人かどうか不明)で走り去る姿が目撃されているとニュースにありました。

 ともかく今日はそんなこんなの日ですが、今日もまた天国の一日です!と、神学生たちが思いっきりリラックスして、楽しめるよう祈りましたが、天気も守られて幸いです。


イモ山公園

奈良県生駒市北田原町2476-8 電話0743-78-4909
入園自由 年中無休 入園無料 
駐車場;60~70台(無料) 19時迄(時期によっては21時迄)

お出かけポイント

●芝生のとてもきれいな公園です。園内には丘陵地もあり、その上に登って、芝生の上でお弁当を食べると最高だと思います。そこそこ広い芝生広場もあるため、ボールやフリスビー持参で子供と遊ぶのもいいと思います。近くにコンビニもあるので、そちらでお弁当等を購入することもできます。

●トイレがとても清潔です。オムツ替えシートや子供用の小さいトイレも設置されています。した。

●園内には、綺麗な水が湧き出している場所があり、そこから水が流れて、沢を形成しています。夏場は水遊びもできると思います。只、蚊が多いそうなので、虫除け等を持参した方がいいと思います。

●園内には、ネットでできた巨大ジャングルジムと、幼稚園児用の遊具(滑り台等のある複合遊具)とが設置されてます。ネットの巨大ジャングルジムは遊び応えのある大きなもので、幼稚園児から小学生まで幅広く子供が楽しめると思います。このジャングルジムの下は砂場となっており、落下しても、緩衝機能を果たすように考慮されてます。ただ、この砂場のエリアに犬を入れることは禁止されてます。

●駐車場は、公園の隣のエコパーク21の構内にあります。嬉しい事に無料です。

●公園に隣接して、大きなグランドがあり、野球やサッカーを思いっきり楽しむ事も出来ます。その隣にはテニスコートもあります。これらは有料で、事前に予約必要です。更に、夏にはプールもオープンするようです。プールには、幼児用プールもあるようです。

 明日は早朝に出発して新幹線で九州へ。小倉で途中下車して大分県中津市まへ立ち寄ります。
約束の午後5時までに筑後市の羽犬塚駅へ。 夕食を御馳走になりホテルへ。すばらしい楠の木が茂る公園に隣接したホテルとの電話をいただき、日曜日のゆとりの一万歩も楽しみな筑後市です。

30日(日)礼拝;午前10時15分
 日本キリスト教団羽犬塚教会 (世良田静江牧師) 筑後市和泉246
 電話;094-253-2866

30日(日)伝道会;午後2時
 八女フロンティア祈りの家(近藤雅子牧師)八女市納楚456-1
 電話:0943-24-2829

 お祈りお願いします。またお近くの方ぜひお出かけください。

テモテの第一の手紙

1:8 しかし私たちは知っています。律法は、もし次のことを知っていて正しく用いるならば、良いものです。

1:9 すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、

1:10 不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。

1:11 祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです。

1:12 私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。

1:13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

1:14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。

1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

1:16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。

1:17 どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。


断捨離は日々軽やかに生きる秘訣

2010-05-27 07:42:50 | Weblog
断捨離は軽やかな人生の秘訣

 先日東京の帰りに駒込駅書店で、「モノを捨てればうまくいく 断捨離のすすめ (DO BOOKS) (単行本(ソフトカバー)) 川畑のぶこ 著 (著), やましたひでこ (監修) 」を購入。

 「断捨離とは何?それは家の中には、いつまでも使わないモノ、どこかからもらってきたモノなどたくさんの「ガラクタ」があります。使わないモノを捨てて、本当に必要なモノだけにして、不要なモノを断つ。モノを絞り込むことでストレスを取り除き、毎日を快適に過ごすための考え方・ノウハウ本です。

著者は、素敵なマンションの住まい、一時はゴミ屋敷同然。不要なものに占領され、窓もまともに開かなくなるほどだったとのこと。大晦日に、ついに捨てることを決し実行しました。すると 「捨てたゴミは45リットルのゴミ袋で30袋になり、整理したら風通しがよくなり、夏でも窓を開ければ風が通り、クーラーは必要ありません」とのこと。 500冊あった本は200冊に。

書名の断捨離(だんしゃり)とは、断行、捨行、離行のことだそうです。
 
早速実行して見ようと思い立ちましたが、なかなか捨てきれないモノが多く、驚いています。それでもずいぶん捨てることができ、いつの間にか不必要なモノまで衝動買いしている本などもありました。
 
モノだけでなく、心の中の考えや否定的な言葉なども、捨ててしまえば楽ですね。パソコンの中も思い切って処理してしまえば、スッキリ稼働します。人間関係も同じなのかもしれません。
 
断捨離は、環境も、人間関係も、精神的にも軽やかに生きる秘訣だなと、今日もまた天国の一日です!と心軽やかな感謝の朝です。


マタイの福音書16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。


久しぶりに東京へ

2010-05-25 05:24:33 | Weblog
 今日もまた天国の一日です!

 やっと雨も上がり、小鳥たちのさえずりも楽しげに聞こえる生駒の朝です。昨日は小雨の山道をゆとりの一万歩でした。

 今朝は東京へ日帰りです。生駒駅まで3000歩歩き、あとは帰宅までゆとりの一万歩達成。

 98年から04年まで毎月東京でした。「天の虫けら」出版記念会を行い、それ以来、元気の出る聖会を北区王子駅前の会館で行いました。

 99年11月に集会後にホテルで倒れ、脳内出血で脳外科に一カ月入院しました。主の恵みで癒され元気なり、2000年にアサエル宣教聖書学院をさいたま市に設立、2004年まで毎月さいたま市まで往復しました。

 わずかの期間でしたが70名の卒業生を送り出し、04年にアサエル宣教聖書学院を閉鎖し、ました。

 それ以来、東京へ行くのは年に数回になり、今回は日本ペンテコステ協議会の研修会参加で日帰りです。教団牧師会長に行ってもらおうと思いましたが、ちょうど生駒聖書学院講義の日であり、急遽参加することにしました。

 神学生の青い鳥ブログ(許可済み)も転載します。 

こんにちは。
渡邉恵です。
私が学んでいる神学校の院長先生は小さいときから
とても無口だったそうです。
今も学院のことや人のうわさ話などを
家で話したことがないと言っています。
人の悪口や噂話をしないで御言葉を語るか、
さまなければ沈黙した方がいいと言い切っています。
いつも前向きな言葉、プラス思考の言葉、
励ましの言葉や誉め言葉を話すようにと
言葉に関する戒めを一番よく語ります。
その話を聞くたび、私は心が刺される思いがします。
よく文句を言い、いつもマイナス思考の言葉を言っているので
反省の日々が続いています。
努力してだいぶましになったのかなと思いましたが
ひょんなことから偉いことをしてしまいました。
パソコンを教えに来る講師の先生が
学院生の一人の兄弟にみんなに配るようにと
ある資料のファイルを預けたと言ったのです。
しかし、私達学院生には全然その資料のファイルが
回ってきませんでした。
そして、気の早い私が本人に確認をしないまま
先生の話を信じ、その兄弟に関する不満を
何人かの人に散々言いふらしました。
後になって知ったのですが、
その資料のファイルはその兄弟に
まだ渡されてなかったのです。
先生の大いなる勘違いでした。
しかし、もう後の祭りです。
確認しないまま、悪い噂をさんざん広めた
私が大いに反省させられ
早速みんなにその弁解に回ることになりました。
院長先生の教訓を身にしみて感じさせられたでき事です。
本当に人の悪口や噂話は言わないように肝に銘じます。
一つの弁明として先生から預かった資料を
流してくれないその学院生にも少しは責任があるような気もしますが、
それでもやっぱり悪い噂を広めた私が一番悪かったと反省しています。
A兄弟、お許しを!!
そして、今までの資料をどうが
私に回してくれることをお願いします。


ペテロの第一の手紙


3:8 最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。

3:9 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

3:10 「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、

3:11 悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。

3:12 主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」


 

カギを部屋に置き忘れて大騒ぎ

2010-05-24 06:44:33 | Weblog
 ろう教会10周年を終え土砂降りの中を堺市へ。午後5時半からの礼拝が終わると、後ろの席で何か騒がしい。障害を持つ青年が部屋にカギを忘れて入れないとのこと。

 月曜日からは大会社の三カ月試用期間に入り、キチンとしたネクタイ着用で会社のバスで出勤とのこと。

 カギを忘れたことに気づいて、管理している不動産会社にお願いしたら、もう三度目だから合いカギもないし開けることができないと断られてしまいました。どうしよう?どうしようで悩みながら教会の礼拝に出席しました。

 集会が終わり相談を受け、もう一度会社に電話したらもう7時で誰も対応してくれない。困り果ててパニックになっています。

 ここでいくら騒いでも部屋は開かないから、すぐマンションまで行こうと大雨に中車を走らせました。部屋の窓は開いていましたが、外は塀があり窓に近づくこともできない。玄関の側の窓はしっかり閉まっている。

 何でも屋に電話をすると一時間後に来てくれるが、カギ開けは8000円からの見積もりとのこと。ともかくお願いしますで交渉成立。

 カギ屋さんが来るまで雨の中だけど、軒先から離れないでいつ来ても良いように待つように話して、生駒へ帰りました。

 帰宅しすぐ電話するといまちょうどカギを開けてもらったところだと嬉しそうな声。すぐメールも入り、「いま開けてもらいます。普通なら一万三千円の所でしたが八千四百円にまけてもらいました。今度給料か生活保護か社協に相談して返します今日はありがとうございます。感謝してます」とのこと。

 二度とカギを部屋に忘れないで常備し、合いカギをすぐ作るように助言しました。納得して今日から試用期間に元気で出勤するのを楽しみにしています。

 それでも、おまえは今日で三度目だからおまえの部屋を開けるカギなどないと、相手にしてくれない会社(担当者)もあるのかと驚いています。家賃は必ず支払いで滞納もなく、ひとりで必死に生きようとしている障害を持つ青年を困らせ、もしかしたら今日からの出勤に支障をきたすかもとは考えもしないのでしょうか。

 確かに昨日は土砂降りで面倒だったかもしれませんが、車を走らせればあっという間に片付くことでしたのに。彼もある意味ではその厳しさをしっかり受け止めたようです。

 今日からの試用期間三カ月がしっかり守られて、給料で生活ができるように、元気を出して出勤するよう励ましている朝です。

 昨日は、日東大阪エリムキリストろう教会10周年感謝礼拝でした。ろうのクリスチャンたちが、手話をしながら思い切って大声をあげて歌う姿と、聖書のみことばに手話通訳を通して聴き入る姿に感動のときでした。

 伝道師がどうしてもとの願いで生駒聖書学院に入学し、三年間の学びを終え卒業し、自ら開拓伝道に着手し、10年を迎えたことはすばらしいことだと思います。手話通訳もなく、隣席の神学生が筆記する講義を引き移しにノートを取りながらの学びでした。

 できればと言うのか。信じる者にはどんなことでも出来ますとの、イエス様のことばにアーメンと応答し、不可能はチャレンジとなり可能となったことを感謝します。

 可能性への挑戦は可能となり、神の栄光が輝くことに感謝します。

 今日もまた天国の一日です!

ピリピ人への手紙

4:8 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。

4:9 あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。

4:10 私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜んでいます。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。

4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

 

罪を赦された罪人

2010-05-23 08:44:54 | Weblog
罪赦された罪人です!

 留置場(逮捕された身柄」や「勾留状によって勾留された身柄」を収容する施設)や、拘置所(主として,未決拘禁者(被疑者、刑事被告人収容する法務省の施設)への面会や、差し入れ、また手紙等もひんぱんにあります。

 ずいぶん前に刑務所を出所したばかりと方と、教会階下の喫茶店で出会い、アーメン信じますと祈ってくれました。その夜教会の礼拝にも出席しましたが、コンビニで乱暴したと逮捕され、無罪を主張しましたが前歴のため拘置所から刑務所へ。

 その男性が拘置所の中で、牧師に手紙を出せば救ってくれると語ったので、手紙がひんぱんに来るようになりました。

 最近はマンガを差し入れたら、そのつど新しい方からの手紙が届きます。面会に行くときもありますが、本の差し入れや手紙だけで応対しています。

 留置場で会った女性は、拘置所へ移されすぐ裁判、執行猶予となりました。 女子刑務所で信じた方は出所。女子少年院や少女の家、鑑別所や刑務所などから出所して教会の礼拝に来た方々も多くあります。

 問題はやはり仕事のことです。保護司いるので就職がうまくいき場合もありますが、ほとんど長続きせず、教会からも足が遠のきます。本気でイエス・キリストを信じてバプテスマを受けクリスチャンになると、そのような状態から救われて新しい人生を生きるようになったことを証する方もあります。

 聖書の言葉の実現を目に前に見るのはなんと幸いなことでしょう。そんな中で生駒聖書学院に入学・卒業して、活躍している牧師たちもあります。その輝く姿を目にするたびに、イエス・キリストの十字架の救いのすばらしさに感動しています。

 アーメンと言えば救われます!信じてバプテスマを受けクリスチャンとして、輝く人生を生きることは素晴らしいことだといつも思います。

 今日はペンテコステの日=キリスト教会の誕生日です。

使徒の働き2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。

2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」

 聖霊に満たされて語るペテロの説教を聞いて、その朝3,000人がクリスチャンになりました。そのペンテコステの日以来、キリスト教会の存在する所、あるいはクリスチャンがいる所ではどこでも、新しい人生のスタートを見ることができます。

 広い意味では人類すべてが留置場や拘置所、刑務所にいるようなものです。死と言う逃れられない罪に囚われています。

 しかし、イエス・キリストの十字架の死と復活により救われ無罪を宣言され、天国に生きる人生に変えられました。今日もまた天国の一日です!は、自由となった喜びの最高の表現なのです。

コリント人への第二の手紙5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。


テモテへの第一の手紙 1:11 祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです。

1:12 私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。

1:13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

1:14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。

1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

1:16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。

心配しないで生きよう!

2010-05-22 07:59:09 | Weblog
心配性度チェックというのがありやってみました。結果は?

あなたはこんな人
几帳面に見られることもありますが、結構おおざっぱな面があります。
自分に対しある程度の自身があり、少々の批判では落ち込むことはありません。
積極的で他の人々を先導することができるリーダータイプです。
何事も直感的に判断して行くタイプです。
夢や希望をもっているロマンティックな人です。

 心配は心配するほど心配したようなことは起こりません。

 デジタル大辞泉の解説=しん‐ぱい【心配】[名・形動](スル)

1 物事の先行きなどを気にして、心を悩ますこと。また、そのさま。気がかり。「親に―をかける」「将来を―する」「―な天気」
2 気にかけてめんどうをみること。世話をすること。「近くに住む娘が食事の―をしてくれる」
[類語](1)気がかり・心がかり・不安・懸念・危惧(きぐ)・憂慮・憂患・心痛・心労・気苦労・屈託(くったく)・思案・憂(うれ)い・虞(おそれ)・気遣い・煩(わずら)い(―する)憂える・案ずる・気にする・気にかける・気を揉(も)む・気に病む・胸を痛める/(2)配慮・心遣い・心配(こころくば)り・世話

三省堂大辞林=しんぱい 0 【心配】〔「こころくばり」の漢字表記「心配」を音読みした語〕 (名)スル

(1)何か起きはしないかと、気にかけること。不安がること。気がかり。
「―な空模様」「―の種が尽きない」「何も―することはない」「―事」
(2)心を配って骨を折ること。いろいろと世話をすること。
「いろいろと御―いただきまして」「資金を―してやる」
(形動)
何か起きはしないかと気にかけるさま。気がかりなさま。
「仕事がうまくいくかどうか―だ」「テストの結果が―だ」

などとありました。

 聖書には、イエス・キリストの有名なことばがあります。

  「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。

しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイの福音書6:25-34)

 またペテロの第一の手紙には、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(5:7)と約束されています。

 16歳の時、イエス・キリストの招きのことばを聞きました。アーメンと信じてクリスチャンになり53年になります。そのことばは真実であり、今日もまた天国の一日です!と心配なく過ごし続けています。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイの福音書11:28-30)
 
 その約束を信じているので、何事も心配したり思い煩わずに祈る恵み与えられています。

 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリピ人への手紙3:6-7)

 心配したら問題が解決するんだったら寝ないで心配します。しかし実際は思い煩ったり心配すればするほど悩みは大きくなります。

 実際には99パーセントの心配は実現しないと言われています。ですから、心配を止めて行動することが大切です。

 心配や思い煩いがドアをノックしたら、恐れないでドアを開けて見てください。ドアの外に心配はいなかったことに気づきます。決して心配を心の中に入れないように気を詰めましょう。

 幽霊の正体見たり、枯れ尾花!心配の正体見たり、自分の心のゆがみ!

 それくらいのものなんです。克服できないことなど一つとしてないのです。可能性への挑戦は可能となるのです。

マルコの福音書 9:23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

ピリピ人への手紙4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。