牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

言い訳のない人生を

2010-11-30 09:14:34 | Weblog
私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:1-3)




 「失敗者は常に言いわけをもっている」という言葉があります。



 聖書の初めに、アダムとエバの話があります。神様はエデンの園の木の中で、善悪を知る木の実だけは食べてはならないと命令しました。ところがエバは悪魔にだまされて食べてしまい、アダムもまた食べました。神様にどうして食べたのかと尋ねられると、アダムは「この女がくれたので食べた」と弁明しました。エバもまた、「悪魔にだまされたので食べたのです」と、自分の罪を認めませんでした。



 自分の失敗を棚に上げて人のせいにする。これはもう人間のもっている本質なのかも知れませんね。小さな子どもでも同じです。上の子を叱ると、「だって妹が悪いんだ」と言います。妹を叱ると、「お兄ちゃんが悪い」と言います。自分の能力を十分に伸ばせなかった人たちも、常に言いわけをもっていますね。交通違反した人たちも必ず、言いわけをもっています。また、あらゆる法律や規則に違反した人たちも例外ではありません。



 また多くの人が、成功できなかった言いわけをもっています。このような人々は自分が成功できない理由を、いつももっているのです。ハンディキャップがあったからだと言います。それは事実である場合もありますし、その人の頭の中で想像されただけの場合もあります。確かに、人生にはいろいろなハンディキャップがありますね。まず肉体的なハンディキャップがあります。体が不自由であるとか、病気がちだとか・・・。



 対処の方法は二つです。



1 自分自身を悲しんで、他人から同情を受けることを期待する



2 意志と精神力、信仰の力でハンディキャップを克服する



 イエス・キリストは肉体的にも力を与えてくださる救い主です。あなたが信じるなら、イエス・キリストはあなたの病気を治してくださいます。イエス・キリストこそ、「私たちの病を負い、私たちの痛みをになっ」てくださった方だからです(イザヤ53:4)。どうか、イエス・キリストを信じて、強い意志と精神力をもってください。また、体の健康も守られるよう、いやしを信じましょう。



 貧乏もまたそうですね。非常に貧乏で、十分な教育を受けていないというハンディキャップを背負う場合があります。しかしいつまでも貧しいままでいてよい理由はありません。聖書にはこう書いてあります。



 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(2コリント8:9)



 信じてみてください。必ずそこに奇跡が生まれ、新しい人生が始まります。



 年をとりすぎている、また若すぎるというハンディキャップもあります。日本は世界最長寿国と言われるようになりました。感謝なことです。リーダーズ・ダイジェストに次のような記事がありました。「年齢を気にすることはない。強打者でならしたテッド・ウィリアムズが彼の引退試合でホームランをかっ飛ばしたのは42歳の時である。ゴルダメイアがイスラエルの首相になったのは71歳の時だった。イギリスの政治家ウィリアム・ビット二世は、24歳の若さで首相になっている。イギリスの劇作家バーナード・ショーには94歳の時初演となった作品がある。モーツァルトの作品で初めて出版されたのは、彼がわずか7歳の時に作曲したものである」



 人は年齢に関係なく、偉大なことが成し遂げられるのです。体が不自由だとか、病弱だとか、不運に見舞われたとか、学校へ行けなかったとか、年をとりすぎたとか、いろいろなハンディキャップを言いわけにしてみても解決はありません。



 イエス・キリストを信じて、進んでみましょう。



私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)





山本周五郎と聖書

2010-11-29 06:43:10 | Weblog
私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。(哀歌3:22〜23)



 聖書のことばには、力があります。人を生かすことばです。



 新聞の宗教欄に、「周五郎と聖書」と題する一文が載っていました。



 山本周五郎夫人、清水きんさんの回想によると、周五郎が聖書を読み返していたということです。周五郎は少年時代、父に連れられて教会に通ったことがあるそうです。その後もさまざまな形で、聖書を読んでいました。



 ところで、この教会に通った時期は、父親がお金に困って、周五郎をだまして、質屋へ丁稚奉公に出し、その給金を巻き上げていた時期でした。幼い彼は、この質屋を自分の親戚だと信じ込んでいました。しかし、自分が売り飛ばされたということがやがてわかり、絶望の底に投げ込まれてしまいます。後に父親が死んだ時、彼は葬式にも参列せず、いきなり現れて、香典を鷲掴みにして姿を消しました。十三歳から二十歳近くまで、人間の生涯の大切な時期を売り飛ばされた憤懣と悲しみがあったからでしょう。



 その父親が彼を教会に導いたのです。子どもを売り飛ばそうとして教会のベンチに座り、神に祈っている父親の側で、彼もまた神の前にうなじを垂れていました。見栄っ張りで、屁理屈ばかりこねているくせに、何度も女に失敗した父。その父が、子どもを売り飛ばすことに、いささかの罪の思いにかられて、教会のベンチに座ったのです。それが周五郎がキリスト教と接した事情でした。



 彼は生涯、この父に対する憎しみを語ることはありませんでした。当然、父に対する憎しみが、「何がキリスト教だ」となっても不自然ではないような条件です。しかし、彼はキリスト教会にかかわっていきました。聖書を読み返し続けた山本周五郎は、聖書の中に何を見出したのでしょうか。



 まず第一に、人間の罪を見たのです。悲しみを見たのです。



 自分を売り飛ばした父、そして自分の苦悩を語らなかったこの作家の苦悩は、どんなに深く悲しかったことでしょうか。しかし、彼は罪を赦し、悲しみを癒すキリストの愛と涙を、聖書の中に見出したのではないでしょうか。キリストは悲しみの人で涙を知っていました。そのキリストの愛に、きっと山本周五郎の心は洗われたのでしょう。多くの作品を残し、しかもそのすべてが人間の情感を、悲しみを、そして勇気を描いているのは、聖書を読み返し続けたからなのでしょう。



 そして、彼が聖書を読み返すということは、自分が流した血や涙と面と向き合うことを意味していたと結んでありました。



 聖書は語っています。イエス・キリストは私たちの悲しみや罪、病気や悩みのすべてを背負って、十字架の上で死なれた、と。その十字架の血のあるところ、すべての罪はきよめられる、と。その愛のあるところ、どのような傷も癒される、と。いいえ、そればかりではありません。私たちもまた、そこから、きよめる人として、癒す器として、出て行くことができるのです。



 今日、あなたもいかがですか。イエス・キリストの愛に触れて、新しい日々の歩みをお始めになりませんか。希望に向かう新しい人生がそこに始まるのです。



 幸せをお祈りします。





心ーの中にメロディとハーモニーを

2010-11-28 06:35:25 | Weblog
今日は富雄キリスト教会(奈良市富雄川西1-19-18)礼拝からスタートです。午後2時は大阪エリムキリスト教会(大阪市浪速区西恵美須2-3-4)、夕方5時半からは堺エリムキリスト教会(堺市堺区南瓦町1-15)で礼拝です。お祈りください。



見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3:20)



小さな国で



 こんな話があります。



 昔、アフリカ奥地にある小さな国に、イギリス人夫妻が訪れました。小さな国の王様は彼らをもてなし、ためらいながら、「実は、イギリスの女王様から大きなプレゼントが届いたのですが、何だかわからないので倉庫に入れたままにしているのです。ちょっと見てくれませんか」。



 倉庫に入ってみると、何と、立派なグランドピアノではありませんか。しかも、ひっくり返して置かれているのです。イギリス人夫妻は、そのピアノを正しく置き直し、ピアノの前に座り、すばらしい音楽を奏でました。王様をはじめ、みんなはビックリしたということです。



ひっくり返した人生



 神様は、すばらしい贈り物を人間にくださっています。人間は誰もが、偉大な人生を生きるように、喜びに満ちた幸せな人生を送るように、責任と持ち物を与えられているのです。ただ、多くの人は、それをひっくり返したまま、倉庫の中に、虚しく放り込んでいるのです。



 確かにある面、人間は罪深い、弱い、どうにもならない代物です。最近の血生臭い事件の連続。中学生がイライラしたからといって、小学生の女の子を殺す。高校生の暴走族・通り魔殺人、主婦のアルコール中毒患者の増加。年々、上昇し続ける離婚率。大人の世界にも、子どもの世界にも、ドロドロしたものが、いっぱいです。



「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・・。」(ローマ3:23)



「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」(エレミヤ17:9)



 聖書には、このように書かれていますが、まさにそのとおりです。



わたしは決して拒まない



 しかし、神はこのどうしようもない人間を愛してくださっています。



 イエス・キリストは、



「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」(マタイ16:26)



 と教えなさいました。いいえ、教えただけでなく、ご自身のいのちを犠牲にして、私たちのために、死んでくださったのです。



 あなたは今の現実がどうであれ、神のかたちに似せて造られた尊い存在なのです。神の愛が限りなく、あなたの上に注がれているのです。たとえ、無学であっても、人に嫌われ、「お前なんか、いないほうがいい」と言われていたとしてもです。



 イエス・キリストは、



「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6:37)



 と言われ、ご自分のところに来た者のすべての汚れや、罪の重荷を、ご自分で引き受けて、十字架上に死んでくださいました。



「キリスト様は、自分の体に私たちの罪を負い、十字架上で死んでくださいました。そのおかげで、私たちは、罪ときっぱり手を切り、正しい生活を始めることができたのです。キリスト様が傷つくことによって、私たちの傷が治ったのです。」(1ペテロ2:24、リビングバイブル)



 だから、あなたの罪や汚れ、のろいや病気、責められる心や不安、恐れ、重荷や苦しみのすべてが、十字架上で葬られたことを信じるなら、救われるのです。自由となり、解放が与えられるのです。



心のピアノ



 イエス・キリストは、十字架の上に死んでくださいました。そして三日目に復活し、今も生きておられる神様です。



「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)



 イエス・キリストを、あなたの尊い心の中にお迎えください。



 復活のキリストが、あなたの心のピアノの前に座ってくださいます。



 その時、神と調和し、自分と調和し、人と調和する、すばらしいメロディーとハーモニーが、あなたの内から湧きあふれ、流れ出るようになります。





とうふ料理&湯葉料理を食べながら

2010-11-27 08:36:20 | Weblog
昨日は、七年ぶりに生駒聖書学院時代(10歳年長・牧師退職)の同級生と会い、大丸心斎橋店八階にとうふ料理の鈴丸屋(新装開店初日)へ案内されました。

 豆腐料理や湯どうふ、湯葉も美味しく楽しい昼食でした。食後は中二階の喫茶室ヴォーリスで、近江兄弟社とヴォーリスを話題に時間を忘れてのお交わり。隣席の立派な紳士じっとこちらを見つめているので、声が大きいかな?と思いましたが、近づいてきて榮牧師ですねと挨拶、先月出かけた教会のクリスチャンでメッセージを聞いたとのこと。

 同級生との話題をたくさん書きたいけれども、ププライベートに触れることも多くありカットします。
 高齢期を恵まれて生活し、なお夢とロマンを語る同級生に長寿を祈って別れました。

 聖書は年齢についていろんな書き方をしています。

詩篇90:9 まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。
90:10 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
 
 平成21年の日本人の平均寿命が男性79・59歳、女性86・44歳と、ともに4年連続で過去最高を更新しました。肺炎や心臓病による死者の減少が寄与したようです。
 海外と比べると、女性は25年連続の世界一だが、男性は前年の4位から5位に順位を下げています。

 それでもモーセが述べた70年、健やかであっても80年との、年齢を越えているので長寿国家ですね。

 イザヤ書65:20 そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。

 ここには祝福の時代、100歳が普通だと述べられており、百歳になっても活躍する方々を多くあり、召される日まで健やかに活躍したいと願っています。

 もう一か所には、神様の年齢宣言には120歳とあります。

創世記 6:3 そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。

 最近の研究によると、人間の寿命は全能の神の宣言、「それで人の齢は、百二十年にしよう」が事実だと言うことが分かります。

 高齢化社会が恵まれた健やかな国になるように祈り日々です。お元気でお過ごしください。

  
ルカの福音書

2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。

2:26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。

2:27 彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。

2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。

2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。

2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。

2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、

2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」

2:33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。

2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。

2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」

2:36 また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、

2:37 その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。

2:38 ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。



最善のインプット

2010-11-26 08:55:22 | Weblog
 人はその口の実によって良いものに満ち足りる。人の手の働きはその人に報いを与える。(箴言12:14)

 このことばには、満ち足りる幸せが、力強く約束されていますね。神と共に人生を歩む人は幸いです。私たちは誰でも、神と共に生きる人生を体験できるのです。

 こんな話があります。アインシュタイン博士は、相対性理論を発表した後、あちらこちらで講演を依頼されました。いつもお抱えの運転手と出掛けます。ある大学の講演に行く途中、体の具合が悪くなってしまいました。博士は「今日の講演は中止してもらおう」と言いました。ところが運転手は「それでは今日は、私が先生の代わりに講演しましょう」と言ったのです。

 博士はビックリして何も言えません。運転手はいつもアインシュタイン博士の講演を聞いているので、すっかりその内容を覚え込んでしまったというのです。その当時、アインシュタイン博士の顔はそれほどよく知られていなかったので、二人は洋服を交換しました。博士は教室の後ろに座り、運転手は並び居る研究生の前で、見事に講演をしたそうです。

 ところが、今まで一度も出たことのない質問が飛び出しました。そこで運転手は少しも慌てず、「それはとても簡単な質問です。なぜなら私の運転手でさえも答えることができますよ」そこで運転手の服を着た博士、スラスラ答え、大拍手となったとのことです。まあ、ユーモアのある、アメリカらしい話ですね。

 物理学の勉強をしたことのない人も、同じ話をしつこく何回も聞かされていると、やがて自分でも話すことができるようになります。ある意味では、私たちの語ることばは、いつもどのようなことばを聞かされているかに由来するようです。コンピュータはインプットしたものしかアウトプットしないように、私たちの人生もどのようなことばを聞いているかによって決まってくるのです。

 新約聖書のヤコブの手紙の中に、「馬を御するためにはくつわ、船を動かすためにはかじ、人生を制するのは舌」と書かれてあります。舌、つまりことばですね。いつも否定的なことばを聞かされて育った人は、他人にもそうするものです。

 聖書のことばは人を活かします。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)とありますが、聖書のことば、つまりイエス・キリストのことばは、常に新しいいのちの喜びを与えてくれるのです。

 イエス様は出会った人々に、「お前はだめな人間だ」とは言われませんでした。人々から罪人、取税人とののしられていたザアカイに、「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」(ルカ19:9)と、彼の人生を変えてくださったのです。

 ペテロに出会った時もそうでした。彼の最初の名前はシモンでした。「風にそよぐ葦」という意味で、頼りない、すぐ怒ったり、変わったりする弱い人間に、「ペテロだよ」と語ってくださいました。ペテロとは、「岩、岩石」という意味ですね。みんなに嫌われる汚れた病気にかかっている男には、「お前はまあ何と汚いね」とは語られず、「わたしの心だ。きよくなれ」(ルカ5:13)と言われました。イエス・キリストのことばに触れた者は、その生涯が変化するという大きな恵みを受けたのです。

 そして、今日もイエス・キリストは、私たちをご自身のみもとに親しく招いてくださっています。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

 今日、イエス・キリストの救いのことばをインプットしてください。必ず、そのことばどおりの救いが、アウトプットされてきます。十字架に生命を捨て、三日目に復活したキリストの生命を体験する時、そこに新しい生命の喜びが湧き出てきます。幸せをお祈りします。



クリスマス・イルミネーション

2010-11-25 08:12:05 | Weblog
昨日は午前中講義でした。今日も説教学最終講義で、今学期の授業がすべて終わり、来週試験でクリスマス伝道期間に入ります。

 午後からインプット歯科治療の検査でした。歯科医院で先生自ら検査し、大丈夫とのことでしたが、小さな虫歯があるとのことですぐ治療してもらいました。一度で済むように長い時間かけてしっかり歯茎の掃除もしてもらい、来るたびに良くなっていますよとのことで感謝しています。

 今年はクリスマス・イルミネーションの贈呈があり、ものすごい量なので今年はその三分の一を装飾しようとしています。全部つけると電気のアンペアが飛んでしまい、もうクリスマスの時期なので取り付けが間に合わず、来年は全部をクリーン車を入れて11月初めごろからのイルミネーションにしたいと願っています。

神学生の青い鳥ブログを紹介します。

 クリスマスイルミネーション

学院に巨大なクリスマスイルミネーションが届きました。
空気を膨らませると動き出す動物の風船も色々あります。

電気代だけで20万円はかかるそうです。
電気代を賄うために入場料で500円を取るべきではないか、
自由献金を促すかと色々対策を考えました。

早速業者を呼び、作業が始まりました。
食堂に青いシートを引いて色々なイルミネーションを並べました。

トナカイの組み立てが始まり、私も1匹組み立てました。
8匹の中の7匹は二人がもうすでに終わりました。
しかし、最後の1匹はとても私を悩ませました。

他の副院長と1年生のS姉妹のトナカイは素直に言うことを
聞いたのですが私のトナカイはなかなか言うことを聞きません。

どうしても立ちたがらないのです。
とうとう私は諦めてしまい、最後はS姉妹が足で踏んだり
手で延ばしたりしてやっと立たせることが出来ました。

後はいらない針かねを取る作業をしました。
食堂の周りに少しづつ完成されていくイルミネーションはとてもきれいです。

冬休みに韓国に帰る前に食堂の前で記念写真をたくさん取ろう。


詩篇
27:1 主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。

27:2 悪を行なう者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。

27:3 たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。

27:4 私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。

27:5 それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。

27:6 今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。

27:7 聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。

27:8 あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。

27:9 どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。

27:10 私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。

27:11 主よ。あなたの道を私に教えてください。私を待ち伏せている者どもがおりますから、私を平らな小道に導いてください。

27:12 私を、私の仇の意のままに、させないでください。偽りの証人どもが私に立ち向かい、暴言を吐いているのです。

27:13 ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。――

27:14 待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。


 

最善への逆転

2010-11-24 07:40:38 | Weblog
 今学期も残り少なくなり、午前中3時間連続講義。特に今日は洗礼を受けてクリスチャンになった記念日(1957年11月24日)でもあり、神学生たち胸襟を開いて語り合う時を持ちます。

 すべてのことが働いて益となる約束を、最善への逆転とすべてのことに感謝しつつ、今日もまた楽しい天国の一日です!

 最善への逆転

 幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。(詩篇41:1)

 こんな話があります。あるところにお菓子屋さんがありました。「あん」を作るためには小豆が必要ですね。ある日、小豆を煮て、ザルの中に入れておきました。ところが、そこを通りかかった少年店員が足を滑らし、スッテンコロリンと倒れました。倒れた拍子に、小豆はあちらこちらの器の中や地面に落ちました。少年店員はそれを見て真っ青になり、おろおろして立ちすくんでしまいました。

 店の主人が出て来て、この有り様を見て驚きました。大変なことになったぞと思いましたが、主人は思慮深い人物だったので、大声でどなったり、怒ったりしないで、ジックリと後始末を考え始めました。

 主人が散らばった小豆を見ていると、小豆の一部分が側にあった白砂糖の中に落ちているのに気がつきました。それを手ですくい上げて食べてみると、なかなか良い味がしました。その途端、主人の頭の中にアイデアが浮かびました。小豆に白砂糖をまぶしたものを作ることができたら、すばらしい名物ができあがるかも知れないぞということでした。主人は滑って転んだ店員を叱る代わりに、新しいお菓子を作るために考えたんですね。

 こうして考えた末にできあがったのが、甘納豆でした。最悪の状態が最善の状態に、逆転したのです。

 人生の幸、不幸も、これと似たことが多くあります。不幸な出来事とばかり思ったのに、それがやがて幸福になる原因となっていくんですね。

 アフリカでの話です。ある日突然、空が真っ暗になるほどのイナゴの大群が押し寄せて来ます。青々と育った作物の上に、イナゴは次々と落ちて来ます。イナゴが通り過ぎた後には、緑が一つも残らないほどです。そして、あの大収穫が約束された農場の畑という畑には、イナゴの死骸が、多い時には1メートルも積もって残るそうです。

 多くの農夫たちは、もうそこで農業をするのを諦めます。彼らは土地を捨て、家を畳んで引っ越して行きます。しかし、勇気のある農夫たちは、イナゴが通り過ぎた後、くわを持って畑へ出掛けて行きます。そして、イナゴの死骸を食い荒らされた畑の中へ耕し込むのです。額には汗があり、目には涙があります。今までの努力が一瞬のうちに消えてしまったからです。

 しかし、彼らにはまた、希望もあります。イナゴの死骸が肥料になって、土地を豊かにすることを知っているからです。次の年、すべてを失ってしまった倍以上の収穫の刈り入れをすることができるのです。

 聖書は私たちの人生に、逆転勝利を約束しています。イエス・キリストを信じている限り、不幸はやがて幸福に逆転するのです。あなたがイエス・キリストを信じる時、あなたの流した悲しみの涙は、やがて喜びの嬉し涙に変わるのです。だから、クリスチャンはいつも希望に輝いて人生を生きることができるのです。

 それはなぜでしょうか。それは神の子イエス・キリストが十字架の上にいのちを捨ててくださったからです。私たちの罪や病気、弱さや失敗を全部、背負って死なれたのです。そればかりでなく、三日目に復活し、今も生きていてくださる救い主です。

 イエス・キリストを信じる時、イエス・キリストに信頼する時、幸せはあなたの心を支配します。新しい生命と力に溢れて生きることができるのです。

 どうかどんな時にも失望しないで、大胆に生きてください。あなたの最悪の状態は、イエス・キリストによって、最善の状態へと必ず逆転します。十字架はあなたの人生をプラスに、最善に変えることのできる鍵です!


コリント人への第二の手紙

4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

4:12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

4:13 「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。

4:14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。

4:15 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。

4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

ふたたび・swing me agein という映画鑑賞

2010-11-23 09:19:19 | Weblog
メル友にking soromonさんがいます。とてもユニークな牧師で、映画館での映画鑑賞も大好きです。

 鑑賞した映画評をいつも画像とともに短く送ってくれます。見たいと思って御今年は一度も映画館に行く機会がありませんでした。

 メールで今上映中の、ふたたび・swing me agein を紹介され、昨日は授業もなく雨で午後の予定も変更したので、阿倍野アポロまで行き午後の上映を感動とともに鑑賞しました。

 50年ぶりに仲間と再会するための旅に出た元ジャズ・トランぺッターと孫との姿を、往年のジャズナンバーと共に描く心温まる映画でした。

 ハンセン病に冒されて50年以上もの隔離生活を強いられた主人公を、俳優でコメディアンでもあるベテランの財津一郎が、味わい深く演じています。

 ハンセン病の療養所を50年ぶりに退院した健三郎(財津一郎)を迎えた家族、その家の大学生の大翔には、祖父が生きていたことは初耳。

 しかも、その祖父が幻のジャズバンド“COOL JAZZ QUINTETTE”のトランぺッターだったことを知ります。

 祖父は若かいときにハンセン病に罹り、さあ、いよいよ!というところだったジャズも諦め、お腹に子供を宿した恋人とも引き離され、50年以上も隔離された生活を送っていて息子夫婦のもとに戻ってくるところから物語が始まります。

 ハンセン病ということで未だに根強い差別や偏見があり、間違った考えがどんなに人間関係を損なうかもと思わされました。

 昔のジャズ仲間を心筋梗塞を抱えながら孫と捜し続け、ふたたびの出会いで思い出のジャズ喫茶で演奏。ジャズはいままで聞いたこともないままでしたが、サックスやトロンボーン、チェロ、手が不自由になっても島の療養所で50年間トランペットを吹き続けた主人公の満足そうな顔等々、美しいシーンがいっぱいの映画でした。

 特にラストシーンは、キングソロモン牧師と同期の聖公会現役の牧師出演し、美しい教会堂とともにすばらしい幕切れした。

 キリスト教の映画ではありませんが、人間関係の美しさに感動し、「血液の流れが止まると人は死ぬように、対話が止まると人間関係が死ぬ」と言う、何かの本で読んだことばを思い出しました。

ルカの福音書(良いサマリヤ人の話)

10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」

10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」

10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。

10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、

10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。

10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」




ふたたび swing me agein  を映画館で鑑賞

2010-11-23 09:19:19 | Weblog
メル友にking soromonさんがいます。とてもユニークな牧師で、映画館での映画鑑賞も大好きです。

 鑑賞した映画評をいつも画像とともに短く送ってくれます。見たいと思って御今年は一度も映画館に行く機会がありませんでした。

 メールで今上映中の、ふたたび・swing me agein を紹介され、昨日は授業もなく雨で午後の予定も変更したので、阿倍野アポロまで行き午後の上映を感動とともに鑑賞しました。

 50年ぶりに仲間と再会するための旅に出た元ジャズ・トランぺッターと孫との姿を、往年のジャズナンバーと共に描く心温まる映画でした。

 ハンセン病に冒されて50年以上もの隔離生活を強いられた主人公を、俳優でコメディアンでもあるベテランの財津一郎が、味わい深く演じています。

 ハンセン病の療養所を50年ぶりに退院した健三郎(財津一郎)を迎えた家族、その家の大学生の大翔には、祖父が生きていたことは初耳。

 しかも、その祖父が幻のジャズバンド“COOL JAZZ QUINTETTE”のトランぺッターだったことを知ります。

 祖父は若かいときにハンセン病に罹り、さあ、いよいよ!というところだったジャズも諦め、お腹に子供を宿した恋人とも引き離され、50年以上も隔離された生活を送っていて息子夫婦のもとに戻ってくるところから物語が始まります。

 ハンセン病ということで未だに根強い差別や偏見があり、間違った考えがどんなに人間関係を損なうかもと思わされました。

 昔のジャズ仲間を心筋梗塞を抱えながら孫と捜し続け、ふたたびの出会いで思い出のジャズ喫茶で演奏。ジャズはいままで聞いたこともないままでしたが、サックスやトロンボーン、チェロ、手が不自由になっても島の療養所で50年間トランペットを吹き続けた主人公の満足そうな顔等々、美しいシーンがいっぱいの映画でした。

 特にラストシーンは、キングソロモン牧師と同期の聖公会現役の牧師出演し、美しい教会堂とともにすばらしい幕切れした。

 キリスト教の映画ではありませんが、人間関係の美しさに感動し、「血液の流れが止まると人は死ぬように、対話が止まると人間関係が死ぬ」と言う、何かの本で読んだことばを思い出しました。

ルカの福音書(良いサマリヤ人の話)

10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」

10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」

10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。

10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、

10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。

10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」




すべてのことに感謝すると幸せに包まれる

2010-11-22 08:32:36 | Weblog
日曜日の礼拝説教のメッセージは、真夜中の賛美と題して話しました。

 聖書のことばは、テサロニケ人への第一の手紙5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

 感謝ができません。現実は厳しんですよ。感謝する意味が分からないのですが・・・・。この聖書言葉を話すとよく問われます。すべてのことに感謝できればいいいんですがとも。

 このことばをモットーとしているので、どんなときにも感謝します!が口ぐせ二までなっています。小川へ落ち水に中にしばらく寝転んでいたときも、冷たいと思う前に感謝しますと口に出していました。

 やせがまん?ではないですかとも聞かれましたが、やせ我慢だったらもっとスリムになっていますと、へたなジュークで怒られました。
 
 感謝ができない、ということは自分の身の回りに、ありがたいなと思えることがない、と感じているからだと思います。

 03年10月19日より、ゆとりの一万歩と名付けて毎日散歩を継続しています。早いもので7年1ケ月が過ぎました。

 山道を歩きながら聖書のことばを口ずさみ、また賛美歌や聖歌、短いコーラスを歌います。喜びがわき上がり、イエス様のお名前による祈りの声に変わり、アーメン。ありがとうございます。答えてくださいました。与えられました。祝福されました。感謝します。

 自分のためや家族、教会員や神学生、与えられている働きや宣教活動、さらには全国のキリスト教会と全世界のクリスチャンの祝福、日本のリバイバルを祈るとき、その願いが聞かれたと信じ、素直にありがとうございますと感謝しています。

 それは無理にではなく、ヨハネの福音書のイエス様の約束を信じているからです。

14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。

14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。

15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

 ヨハネの第一の手紙のことばはさらに確信を与えてくれます。

5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

5:15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

 イエス様のお名前によって祈るなら、すべてのことに感謝する恵みが豊かに与えられます。

 感謝できないと思うことも多々あります。それはそれで素直にそう感じていることを認めますが、信仰により勇気を出して、微笑みつつ言葉を変えて不平や不満が出る前に、感謝しますと宣言したいものです。

 歩きながら、すべてのことに感謝しようと、種子島に生まれたこと、母や父のこと、少年時代のあれこれをすべて有り難く感謝だったと指折り数え、数えきれない感謝に取り巻かれている恵みに驚きます。

 いつの間にか、詩篇103篇を告白しながら歩いています。


103:1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。

103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

103:3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、

103:4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、

103:5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

 神様への感謝とともに、人にもありがとうございますと言う習慣も身につけることができれば最高です。店で買い物をしても、こちらから先にありがとうと言うこともあります。子どもや孫にもありがとう。ともかく良いことだけでなく、どんなときにもありがとうと言えたらいいと思いながらです。

 どうしても結果的な感謝にばかり目を向けていると、感謝の代わりに不平不満に支配されることが多くなります。こちらの期待通りになることより、期待はずれのことが起こるからです。そうると感謝ができないという気持ちになり、起こったり文句を言ったり、悪口になったりします。

 伝道者の書 3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。

 その先を見極めることができない事を認めて、神の最善を先取りで感謝できればすばらしいと思います。

ローマ人への手紙8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。


 神様の生きていて力のある聖書のことばどおりに、すべてのことに感謝を発してゆくから、結果的にも感謝するべき状況がどんどん生まれ、神の栄光が輝くようになると信じます。

 今日もまたすべてのことに感謝する天国の一日です!と朝を迎え、ありがとうございます。今日もまたすべてのことに感謝でした一日でした!感謝します。と安眠、熟睡の日々を生きれる幸いを感謝しています。