指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『長屋紳士録』

2015年01月17日 | 映画
1947年、戦争から戻って来た小津安二郎が最初に作った作品で、松竹から「早く作れ」と言われて12日間で野田高梧と脚本を書いたというもの。
主演は荒物屋をやっている飯田蝶子の未亡人で、場所は東京の佃島あたり、築地の本願寺の向かいという設定である。
東京の下町の庶民の話で、戦前に坂本武が演じた「喜八もの」の飯田蝶子版ともいえるだろう。
そこに易者の笠智衆が、子供を連れてくる。九段で一人でいた男の子で、親と逸れてしまったという。青木放屁で、青木富男の弟である。
飯田は、邪険に扱い、男親を探して茅ヶ崎に行き、海岸では「貝を拾ってきてくれ」と嘘をついて巻こうとするが、青木はどこまでもついてくる。
極端に食料事情の悪いことが反映されていて、今見るとほとんど開発途上国の日常生活並である。
翌朝、飯田は青木がオネショをしたことを知り、ますます嫌になる。
だが、ある日干し柿を盗み食いしたと責めると、実は隣家の雑貨屋の親父河村粂吉の仕業であることがわかり、初めて飯田は青木に素直に謝る。
だが、翌日青木は姿を消してしまい、今度はどこに行ったのかと心配する飯田。
夕方、九段にいたと笠智衆が連れて戻って来て、飯田は本気で青木を育てる気になり、上野の写真屋で二人の記念撮影までする。
だが、その翌日、父親の大工の小沢栄太郎が来て、二人は一緒に帰っていき、本当に九段で逸れたのだという。
子供がいなくなり、長屋の住人、飯田の他、河村、坂本武、笠智衆、吉川満子らは、戦争が終わった後、自分たちの心がぎすぎすして、余裕を失ってきたと認め合う。
これは、多分戦地から戻って来た小津安二郎が、日本の社会に対して抱いた第一の感想のように思える。
それは、この作品と次の『風の中の牝鶏』によく現れていたと思う。
だが、この2作は、必ずしも好評ではなく、次の『晩春』で、小津は本来の彼自身の生活である、中流でも上層の生活を映画化して成功を収めるのである。
すでに東宝に移籍していたこともあるが、この作品以降、飯田蝶子は小津安二郎作品からは、姿を消すことになる。

『動乱』

2015年01月17日 | 映画
映画『八甲田山』と同様のシナノ企画、創価学会映画なので見なかったが、昨年高倉健が亡くなった時、友人たちが「結構良い映画だったよ」というので見ることにする。



脚本は山田信夫で、結構面白いが、前半はともかく後半になるとダレてくる。
理由は、高倉健と吉永小百合を共演させているため、後半も吉永を出すが、本来政治的反乱もので男の話なので、そこに吉永が絡んでくると流れが停滞するからである。
仙台の兵舎から、高倉の部下の兵士の永嶋敏行が脱走し故郷に逃げる。貧困から姉の吉永小百合が身売りしなければならないからであった。
永嶋を擁護したことから、高倉健は、左遷されて北朝鮮との国境地帯に送られてしまう。
するとそこの部隊の宴席で、慰安婦になった吉永小百合と高倉が再会する。
所謂匪賊、北朝鮮のゲリラが暗躍していて、そこと通じ、軍用品を横流ししている連中も軍隊にはいて、そうした腐敗に高倉は次第に現状変革への思いが強くなる。
東京に戻った高倉は吉永と一緒に暮らしているが、同衾はせず、最後の蜂起の前日に二人は結ばれる。
高倉は香道派の中心人物となり、彼ら若手将校たちは、軍中央の統制派と対立し、ついには高倉の親友の田村高広によって軍務局長を白昼に惨殺する事件も起きる。
所謂相沢中佐事件である。
実在の人物をモデルにしているが、名前は替えられており、高倉が演じる軍人は 、多分村中孝二か、安藤輝三がモデルだろう。
そして、1936年2月26日に、反乱事件に彼らは一斉に蜂起する。
だが、真崎甚三郎らに裏切られて、反乱は失敗に終わり、秘密裁判で極刑が下され、銃殺される。
この2・26事件の悲劇性は、簡単に言えば、青年将校らが考えたのとは逆に、昭和天皇は西欧的な自由主義的志向を持っていた人であり、皇道派的な精神主義は大嫌いだったことである。
「余が近衛兵を率いて逆賊を討伐しよう」と言ったのは有名である。
桜田淳子が、蜂起参加兵士の一人と結婚する女性として出ていたのには驚く。
映画としてみれば、2・26事件を扱った作品は何本かあるが、最初の佐分利信監督の新東宝の『叛乱』が一番よかったように思う。
森谷司郎の作品も、この辺から無内容になって行ったと思う。
初期の『兄貴の恋人』の頃の瑞々しさが懐かしい。

『ドクトル・マブセ』

2015年01月16日 | 映画
サイレント時代の1922年のドイツの名作で、戦前に日本でも完全版ではないが、上映されて話題となったフリッツ・ラング監督作品。
『メトロポリス』のような抽象的、前衛的な作品だと思っていたら、まったく違い、犯罪ものであり、通俗的な部分もあり、非常に面白い。
物語は、医者にして、ギャンブラー、そしてギャングという恐るべきマブセ博士の悪行とそれを追い対決する検事との戦い。
「大賭博師」と「犯罪地獄」の2部構成で、260分を越える大作。
ストーリーも面白いが、美術とセットが凄くて、巨大な装置が続くのは、当時のハリウッド映画にも十分に匹敵するものだろう。



普通、表現派と言われるが、それは『メトロポリス』以降であり、ここでは未来派的な彫刻や美術が出てくる。
役者のメークも誇張されたものだが、大変な迫力がある。
冒頭で、地下室のような場所で老人のような連中が札束を扱っているので、何かと思うと、盲人に偽札作りをさせているのだった。
このように、1920年代のドイツの退廃し深刻な社会が反映されていると思える。
夜間のシーンがほとんどだが、アメリカ映画のような「擬似夜景」ではなく、本当の夜に撮影しているのは、当時のフィルムの感度やカメラを考えるとすごいことだと思う。
マブセと警察の追っ駆けのシーンは、内田吐夢の『警察官』にも影響していることがわかった。
こところどころは、退屈する場面もなかったわけではないが、この非常に面白い映画なのに、ずっと大きな鼾をかいて寝ている観客がいたのには驚く。
シネマヴェーラ渋谷

戦後は、小津安二郎作品に疑問を持っていた城戸四郎

2015年01月15日 | 映画
西河克己は、小津安二郎について、城戸四郎から「小津は松竹の看板だから、あのスタイルで良いけれど、君たちは絶対にマネをしてはいけないよ」と言われたそうだ。
また、篠田昌浩も、「カメラも動かず、画面も同じ小津映画のどこがいいのだ」と言われたそうだ。
その時、篠田は「小津映画は、戦前の絶対映画のようなもので、永遠に不滅です」と言い切ったそうだ。

戦前のサイレント時代から、松竹映画を率いて来た城戸と小津だが、城戸は戦後の黒澤明や松竹でも木下恵介ら新しい感覚の監督の台頭に、小津の特定のスタイルへの固執は、少々古いのではないかと思っていたようだ。
さらに、小津安二郎が、ほとんど1年作しか作らないことに不満があり、もっと製作してほしいと願っていたようだ。
松竹大船の代表的人物であり、誰もが尊敬する大監督だったが、意外にも撮影所の総指揮者である城戸四郎とは、必ずしも完璧に理解しあっていたわけではないと言うのは意外なことだが、本当のことのようだ。

『秋日和』

2015年01月14日 | 映画
1960年に作られた小津安二郎監督作品。
筋は、例によってほとんどどうでも良い中身で、ここでは母親原節子が、娘の司葉子をどうやって嫁にやるかが主題である。
言わば『晩春』の母子版になっている。



東京タワーが見える寺なので、芝あたりだが、未亡人の原節子が施主で法事が行われていて、大学時代の友人の佐分利信、中村伸郎、北竜二が集っているが、法事後の鉢洗いで、娘司葉子の結婚のことが話題になる。
今では、言うまでもなくセク・ハラだが、当時から1990年代頃までは、20歳を過ぎた頃は、女性の場合は嫁入りのことが話題にされたものである。
また、当時は結婚すればたとえ勤めていても、女性は会社等を辞めるのが普通で、給与も得れないので、定職のある男と結婚するのが当然のことだった。
今とは環境はまったく異なっていたのである。
さて、原節子は、東大前の薬屋の娘で、佐分利、中村、北が恋焦がれていたが、死んだ三輪が原と結婚したのである。
ここでも、一応3人の男たちの戦前派と、司葉子、岡田茉利子、さらに年下の桑野みゆき、男では佐田啓二、渡辺文雄、三上真一郎ら戦後派との結婚観の違いが表現されている。
要は、戦後派は、ドライで軽いのである。
司をその気にさせるために、原に北との結婚の話しのことを作り出すが、すべては嘘で、結局司を佐田啓二と結婚させるためのたくらみと分かる。
それが分かって「ひどいではないか」と岡田茉利子が3人の老人たちに抗議に来る。勿論、最後は互いに理解し、和解するのを見ると、この映画の製作されたのが1960年秋ということは、微妙な意味を感じずにはいられない。
1960年は、60年安保と松竹ヌーベルバーグの年であり、小津安二郎は、戦前派、戦後派の双方に妥協と和解を希望していたように見える。
もちろん、最後は盛大に結婚式が挙行されてエンド。

小津安二郎の映画は、この作品のように構造はほとんど同じで、美術などの細部、さらに出演者もほとんど同じである。
これはどういう意味なのだろうか。
要は、座付作者なのである、松竹大船撮影所の。
江戸時代からの歌舞伎の作者たちは、ほとんど同じ筋書きの劇を、その時々の役者、座組みの趣向等に合わせて、書き換えて上演して来た。
小津作品はほとんどそうしたものなのだろうと思う。
それは、マキノ雅弘や井上梅次らが、常に同じ筋書き、役割の俳優によって同じ趣向の作品を何本も作ってきたことと同じだと思う。
さらに、そうした座付作者としての仕事をずっと松竹大船で果たしてきたのは、映画『男はつらいよ』での山田洋次であることは言うまでもない。

『蟻の町のマリア』

2015年01月14日 | 映画
先日、あるところで、カトリック教会の関係の方にお会いして、事務所の場所が江東区潮見となっていたので、
「蟻の町でしょう」と聞くとそうだとのこと。
松竹で公開された映画『蟻の町のマリア』のことを、このブログで書いたはずだと思い、調べても出てこない。
さらに調べると、このブログの前の2チャンネルのサイトでやっていたところに書いたものだった。

  いじわるじじい:04/09/05 21:41 ID:OHe2Wffi先週から三百人劇場に通い、『好人好日』『大根と人参』『バナナ』を見たが、
 昨日阿佐ヶ谷のラピュタで見た五所平之助の『蟻の町のマリア』が予想以上に良かった。
 昭和30年代に浅草にあったバタヤ・蟻の町、どうやら浅草公園を不法占拠していたらしいが、
  ここにボランティアとして活動した北原玲子の実話。千之赫子の数少ない主演作品。脚本は長谷部慶次。
 東宝ストのときの共産党シンパで、後に左翼独立プロで活躍した伊藤武郎らからは、ややはなれた人達だった彼らは、
 五所を中心にスタジオ8という会社を作り、『煙突の見える場所』などを作るがつぶれ、最後は松竹の子会社・歌舞伎座プロで映画を作る。
  この会社は、京都で宮島義勇のカメラで『高丸菊丸』などという三流時代劇も作っている。

  五所のやさしさと抒情性、カット割と心情描写の細かさがいい。こういう演出がなくなったのは、惜しい。
 千之の父が斉藤達男、母が夏川静江。脇役が皆いい。飯田蝶子、三井弘次、中村是公、多々良純、浜村純、岩崎加根子
  須賀不二夫、町の代表(会長)が佐野周二。事務長が南原宏治(こいつは共産党みたいな奴で、対マスコミ向けに千之を利用しようとするが、
 最後は彼女の真摯な情熱に打たれる)
 勿論、最後は結核で死ぬ。新聞記者、渡辺文雄、都庁の役人・松本克平。
  彼らは、8号埋立地、現在の潮見地区に移転する。
 彼女は、カトリックの名門校、光塩女子学院の出身なのだそうだ。昔は偉い人がいたんだね。

確か、美輪明弘(当時は丸山明弘)も出ていたと思う。
長谷部慶次は、東宝の録音部にいて、黒澤明の『虎の尾を踏む男たち』では、録音ときちんとタイトルにある。
ストライキの後、組合派の一人として東宝を出て、五所平之助について独立プロで脚本家になり、1960年代以降は、今村昌平作品で活躍される。
非常にまじめな方で、緻密にシナリオを作る人だったらしい。
今は、ほとんど知られていない方だが、すぐれた脚本家だったと思う。

キリスト教が布教に失敗した国

2015年01月14日 | 政治
キリスト教が布教に失敗した国とはどこか。
言うまでもなく、日本である。
世界中の国、地域で最もキリスト教が、その布教に失敗し、教徒の数が少ない国は、日本である。
理由は二つ、一つは日本には天皇がいるためである。
ある意味で、多くの日本人は天皇教徒なので、他の宗教を受け入れないのである。
もう一つは、これはマルクス主義も同様だが、キリスト教にあっても、日本社会の上層、インテリから入ったために庶民に普及しなかったからである。
韓国が、北朝鮮の問題はあるとはいえ、キリスト教が下層の庶民レベルでの活動から入ったので広く根付いているのとは対照的である。
上野の山で、ホームレス等に炊き出しをしているのは、韓国系の教会である。
日本のヘイトスピーチをしている人間も見習った方が良いと思う。

『彼岸花』

2015年01月13日 | 映画
1958年、松竹で作られた小津安二郎映画で、ここからカラーになる。前作『東京暮色』が非常に暗い作品で、小津自身は自信があったにもかかわらず、大変に不評だったので、ここではカラー画面に合わせて明るく軽いコメディーにしている。
その結果、『東京暮色』は、キネマ旬報ベストテンで19位だったのに対して、3位にランクされることになる。
だが、用心深く作品を見ると、ここには『東京暮色』で扱った題材が再び出てくることに気づくだろう。
小津は、結構執念深い人間なのである。



映画は、華やかな結婚式の披露宴の場面から始まり、友人中村伸郎の娘の式で、主人公の佐分利信が祝辞を述べているが、自分と妻田中絹代との結婚など、はなはだ味気ないもので親の決めたままに一緒になったと言っている。
昭和30年代までの日本の結婚は、多くは親や親戚等を介した見合い結婚だったのだから、そのようなものだっただろう。
中村と佐分利は、互いの友人の笠智衆が来なかったことを、披露宴の後の酒席で、北竜二らと話しているが、その理由は笠の娘のことだという。
この酒席の冗談が非常に面白く、いつもの高橋とよも出て来ただけで笑わせてくれる。
翌日、笠が佐分利の会社に現れ、娘が家を出て男と同棲しているとのこと。
これは、明らかに『東京暮色』の笠智衆の娘で、田浦正巳と出来ていて妊娠してしまい最後は自殺してしまう筋を引きずっている。
家に戻ると、長女が有馬稲子で、佐分利はそろそろ彼女を結婚させようと知り合いの花婿候補のことなどを田中絹代と話しているが、有馬はまだ特定に人はいないと言う。
次女が桑野みゆきで、ここではまだ幼いが、2年後には大島渚の『青春残酷物語』で、不良少女になってしまうのだ。
佐分利のところには、京都から旅館をやっている山本富士子・浪花千枝子が出てきて、そこも結婚話しが出ている。
山本と有馬は友人で、互いに協力しようと約束し、これが最後に佐分利に結婚を納得させるヒントになる。
佐分利は、笠智衆の娘久我美子が務めている銀座のバーに行くが、ここは『東京暮色』に出てくる銀座のバー・ガーベラと全く同じインテリアで、マダムも桜むつ子で同じなのも笑える。
久我は、父は頑固で古いと言い、仕事の後、佐分利と久我は中華料理屋に行くが、「珍珍軒」で、これも『東京暮色』で藤原釜足が主人だった店の名で、元は松竹蒲田の近所にあった店だそうだ。
夫は音楽家だが、今はキャバレーでピアノを弾いている渡辺文雄で、佐分利は、ここでは若い二人に好意を持つ。
ある日、佐分利の会社に佐田啓二が来て、有馬と結婚させてくれといきなり言う。
藪から棒に言われてもと反発する佐分利に、会社で急に転勤することになったので、言いに来たと言うが、そんなの俺は知らないと愈々有馬の結婚に反対すると田中と有馬に宣言する。
要は、ここでも娘、つまり戦後派の連中への反発が、この作品の主題であり、小津は前作『東京暮色』を重く引きづっていたのである。
ラストは、勿論、佐分利も式に出て、転勤先の広島にも行くところで終わる。
結論は、小津は、戦後派の連中と妥協し、和解することにしたのである。
その理由は、彼らが日本の映画界でも大きな地位を得て来たことである。
だが、この映画のラストは非常に幸福感に包まれるが、その幸福感は、当時の日本映画界の繁栄が現れていると思う。
周知のことだが、この1958年は日本映画が最高の年だったのである。

長谷川一夫

2015年01月11日 | 演劇
今日の午後、高円寺の明石スタジオで、細野辰興作・演出のスタニスラフスキー探偵団公演『貌切り KAOKIRI』を見て来たので、長谷川一夫について書くことにする。
この劇は、1937年に林長二郎の松竹から東宝への移籍の際に起きた「顔斬り事件」を題材にして、その映画化を試みる監督が、ことの真相をロールプレイ劇を重ねることで解明しようとするもの。
その真実は、今となっては誰にも分からないが、不思議な経過の事件だったことは事実である。
さらに、東宝への移籍に怒った松竹の背後にいたのは、後に大映を設立する永田雅一だったことは公然の秘密だった。
だが、この事件後林は、その芸名林長二郎を松竹に返し、本名の長谷川一夫で東宝映画の大スターとして活躍する。
有名なのは、1939年の李香蘭と共演した『白蘭の歌』の公開の時、群衆が日劇を7廻りしたという伝説がある。
この時、長谷川は、「あれは李香蘭ではなく、俺を見に来た観客だ!」と言ったそうだからすごい。
スターはこのくらいに自惚れていなくてはならない。

戦後の東宝争議の時、反ストライキの首謀者は実は長谷川一夫だったのだが、組合側には、監督の衣笠貞之助がいた。
衣笠には松竹京都時代に『稚児の剣法』で自分を売り出してくれた恩義があるので、表立って反組合側の運動ができなかったというのは、この人らしい気がする。
同様に、山田五十鈴も、組合側を離れるのだが、愛する男が衣笠だったので、彼女もすぐに新東宝を離れてしまうことになる。
そして、長谷川の自分の劇団新演技座が大赤字になった時、それをすべて受け入れてくれたのが、大映の永田雅一だと言うのだから芸能界は実に面白い。
そして、大映で二枚目が無理になると、再び東宝演劇部の長谷川歌舞伎で大活躍する。

現在、日本の商業演劇では、洋楽を使用しているが、その開祖は、東宝歌舞伎での長谷川の和物ショーの『春夏秋冬』である。
ここでは、冒頭のセリ上がりの時、豪華衣装で長谷川と女優が姿を現すが、そのバックが『ビギン・ザ・ビギン』と言った具合なのである。
つまり、「松健サンバ」の元は、実は長谷川一夫なのである。
また、歌舞伎劇の和物での照明の使用も、この人が最初なのである。
私は、東京宝塚劇場で1976年の正月に長谷川一夫主演の『半七捕物帳』と『春夏秋冬』を見ているが、結構面白かった記憶がある。
彼は長谷川歌舞伎では、脚本、演出、美術、音楽、衣装のすべてを自分の手で行ったそうで、演出家、プロデューサーの才能があったと言えるだろう。
1970年に大映が倒産した時、彼は自分が持っていた料亭「賀寿楼」を売却し、大映の負債の清算に当てたとのこと、律儀な人だったわけである。

役者としては、演技はともかく、声は悪声だったと思うが、その声の甘さは他の男優もまねできないものだった。
溝口健二の映画『近松物語』では、素晴らしい演技を見せているのだから、すごいと言わざるを得ないだろう。
やればできるのに、他の作品ではろくにきちんと演じていなかったのだろうか。
その意味ではやはり天性の役者だったと言うべきだろう。

『早春』

2015年01月10日 | 映画
1956年、『東京物語』に続いて小津安二郎が監督した作品である。
『東京物語』の1953年から、3年空いているのは、小津が田中絹代の初監督作品『月は上がりぬ』の脚本を自ら書き、さらにその実現に追われていたからである。
映画『早春』は、『東京物語』の成功を踏まえて、さらに日本の現実を描こうとした意欲作で、結果は成功している。
新たな試み、従来の松竹の小津組の役者たちのみではなく、岸恵子、東宝から池部良、中北千枝子、さらに加東大介らも迎えている。
話は、蒲田に住む池部、高橋貞二、須賀不二男らの同じ会社に勤務する若いサラリーマンたちのことで、そこにタイピストの岸恵子が加わり、池部を誘惑する。
彼らは、ある週末に江の島にハイキングに行くが、道路を歩くのみで、この年の春以降に大騒ぎになる日活の太陽族のように海岸で遊んだりしない。
蒲田以来、松竹映画は庶民の味方であり、ヨットやボートのような金持ちの遊びとはずっと無縁で、画面に出てくるのは、篠田正浩監督の『涙を、獅子の鬣に』あたりが最初だが、新山下のヨットハーバーに集うのは、横浜の不良外人やヤクザたちで、否定的な対象である。
岸恵子は、池部とお好み焼き屋で飲んだ後、大森海岸の旅館で泊る。
お好み焼き屋と言うのも、小津の風俗感覚の鋭さを現していて、関西では盛んだったお好み焼き屋は、この頃東京に入り普及したのである。
大森海岸には、戦前から旅館があり、三業地もあって、恐らく若き小津も蒲田撮影所の頃は通ったものに違いない。
朝起きた二人は、海岸はすでに東京湾の埋立工事で、汚れている水やゴミを見る。
池部の妻淡島千影との間には、子供がいたが疫痢で死に、それ以来倦怠状態である。
淡島の母浦辺粂子は、五反田でおでん屋をやっていて、そこに池部が飲みに来て二人は結ばれたのである。
この作品の構図は、『東京物語』が、笠智衆・東山千恵子夫婦の戦前派と、息子の山村聡以下の戦中派との話だったのに対して、ここでは戦中派の池部以下の若い連中が中心になっている。
言わば、『東京物語』での異物というべき熱海の旅館で騒いで笠夫婦を寝かせない団体旅行の連中だとも言える。
だが、須賀不二男は少々年が行っているようだが、池部らは一応戦中派の若いサラリーマンと言うことになっている。
最後、池部は会社の工場がある兵庫の奥地に転勤になり、少しの間別居していた淡島もそこに来て、二人はやり直すことを約してエンド。

あえて言えば、この作品は、戦中派と戦後派との間を描こうとしたものだとも考えられる。
だが、良く考えれば、本当に戦後派なのは、岸恵子と同僚の山本和子らの女性、さらに浦辺の息子で大学生の田浦正巳くらいしかいないだろう。
その意味で、この作品はやや中途半端なところがあり、それが逆に厳しい現実にまで行かず、微妙な位置で上手く世界が保たれて成功したているとも言えるだろう。
この作品をさらに進めて、有馬稲子ら戦後派の実態を描こうとしたのが、次の『東京暮色』であるが、これは非常に興味深い作品で、私は大好きなのだが、世評は低く、以後小津は戦後の現実を対象にすることはなくなるのである。

『空の少年兵』

2015年01月08日 | 映画
1941年、少年航空兵募集のために作られた海軍推薦の記録映画。
1939年成立の映画法によって日本の映画館は、劇映画の他、ニュース映画と文化映画の上映が義務付けられ、文化映画、記録映画、漫画映画等が急に盛んに作られるようになり、多くは戦意高揚映画だった。
その中では、元プロキノの連中の会社だった芸術映画社製作のこの作品の水準は非常に高く、見る側からも好評だった。
撮影と監督の井上莞の力である。彼は戦後は記録映画に戻るが、中には日活の不良少年映画の秀作で、川辺和夫監督の『非行少年』もある。

筋は、家族と別れて入隊試験を受けた少年たちが、霞ヶ浦で地上の、そして上空の訓練を受けて一人前の航空兵になるまでの記録。
航空撮影が非常に良くて、多分当時見た少年たちは、すぐにも志願したくなったと思う。
その意味では大変よくできた戦意高揚映画である。
このDVDには、もう1本『勝利の基礎』という1942年に、やはり海軍の手で作られた映画も入っていたが、これは凡作。
監督は中川順夫で、この人は、戦時中は記録映画を作っていたが、戦後も新東宝の末期や、日活の最後の方でもなぜか映画を作っているという不思議な監督である。
夜間シーンをろくにライトも付けずそのまま撮影しているらしく、夜のシーンはほとんど見えず、内容的には非常に精神主義的でひどい。

白坂依志夫、死去

2015年01月08日 | 映画
シナリオ・ライターの白坂依志夫が亡くなった、82歳。
良く知られているように、八住利雄の息子で本名は八住利義、やすみとしよし。
ペンネームの由来が、阪神の選手白坂と吉田義雄であるように、反体制とまでは言えずとも、常に反主流派的だった。

作品を記録で見てみると、意外にも大映が多く、作風的に合っていると思われる東宝や日活作品は、そう多くない。
企画されたがいろいろな事情で途中で没になったものも多かったのだろう。
勿論、大映では『青空娘』以来の増村保造作品が良く、大映最後の1本である『盲獣』を見た時は本当に驚いた。
船越英二、緑魔子、千石規子の3人しか出て来ない映画で、これは世界中にもまずない作品だと思う。
初期の秀作『野獣死すべし』には、ご本人も出ているのはご愛敬だが、この辺は当時の大スター石原慎太郎も意識していたのではないか。

晩年に出した2冊の本、自身の自叙伝については賛否両論はあろうが、書かれている内容は多分ほとんど本当であり、今となっては当時の下り坂の日本映画界の実態を描くものとして貴重な記録だと思う。
だが、この本の読後感が決して悪くないのは、彼が日本映画を好きだったことが分かるからである。
戦後世代として、初めて日本映画界の脚本に現れたライターのご冥福をお祈りする。

仕事初めは

2015年01月07日 | その他
今週から各職場では通常の仕事が始まったようだが、私が最初に勤務していた市会事務局などは、実にのんびりとしたものだった。
まず、初日の朝には、市会棟の前で、議長・副議長を挟んで職員全員で記念写真を撮る。
撮影するのは、議会御用達の青柳写真館である。
午前中は、いろいろと挨拶周りに動き、市会の4階の大会議室では、「横浜市賀詞交歓会」が行われ、各会派の議員も登庁してくるとすぐに昼になる。
昼からは、議長、副議長が出席しての軽い午餐になり、もちろん酒も出て、1時過ぎには閉会。
これで帰って良かったのだから、実に古き良き時代である。
私は、大抵は伊勢佐木町に行き、映画を見ていた。
当時は、日活ロマン・ポルノの全盛時代で、1975年の1月4日の横浜日活に行くと、某会派の議員と会って苦笑いしたこともあった。
この時の作品は、神代辰巳監督の『宵待草』と藤田敏八・加藤彰監督の『炎の肖像』で、これは成人映画ではなく、一般映画2本立てだったと思う。

こうしたのんびりとした役所の習慣は、多分1970年代までは続いていたように思う。
だが、課長になって区役所に行く頃には、こうした習慣は次第に姿を消していくようになった。
まず、年末年始の御用納め、仕事始めの宴会は職場でやっても良いが、通常の勤務時間終了後に軽くやれになった。
次には、職場での宴会は一切まかりならぬになり、現在になっていると思う。
確かに市民から見れば何だということでもあろうが、正月や年末くらい、少しは遊びがあっても良いと思うのである。
今は昔のお話に過ぎないが。

『東京物語』の異物

2015年01月07日 | 演劇
『東京物語』と言えば、世界映画史に残る小津安二郎の名作で、尾道にいる父親笠智衆と母の東山千栄子が、長男山村聡と長女杉村春子のいる東京に出て来た、いつには東山は死んでしまう話である。
普通、この映画は、笠・東山らの父親と、山村聡、杉村春子、三男で大阪にいる大坂志郎、二女で尾道に両親と一緒に住んでいる二女香川京子、さらに戦死した二男の嫁原節子らとの世代とのことを描いた作品とされている。
笠は70歳、東山は67歳、山村は50、一番下の香川が23とされているので、両親は戦前派、子供たちは戦中派とされていることが分かる。
そして、東京に来ても、子供たちは1950年代から始まった経済の復興の中で仕事に忙しく、ろくに両親の面倒をみることができない。
唯一、比較的自由な未亡人の原節子が、二人の相手ができるという皮肉な筋書きになっている。
そして、この中で、戦前派でも、戦中派でもない連中のことが、異物のように描かれていることに気がついた。
両親が行く熱海の宿で、多分会社の団体旅行で大騒ぎしている若者たちと、東京に戻った笠が、尾道の友人十朱久雄の店を訪ねるところである。
十朱は、店の二階を下宿に貸していて、学生がいるが、麻雀とパチンコばかりで、ろくに法学の勉強などしていないと言われている。
この連中は、明らかに戦後世代の若者であり、この映画の翌年には、石原慎太郎の小説『太陽の季節』によって、日本の社会に出てくるのである。
『東京物語』では、ほとんど異物のように見えるが、その後日本映画界全体を覆い、ついには3年後の『東京暮色』では、主人公になるのである。

『紅白馴れあい歌合戦』

2015年01月06日 | テレビ
大晦日の夜は、言うまでもなくNHKテレビの「日本全国の村祭り」『紅白歌合戦』を見て来た。
多分、小学校高学年からずっとそうである。
だが、この数年、特に2015年の去年は、その面白さがなかったように感じた。
それは、歌合戦ではなく、馴れ合っているように見えたからだ。

もちろん、赤と白、女性と男性が本気で戦っているなどとは誰も思ってはいない。
だが、それをかつては、一応男と女は対立し、戦うものだという前提の上で、真剣に歌い合い、また両サイドもそれぞれの立場で応援するという劇があったように思う。
白組には、現在ではあり得ないが、「南氷洋上の捕鯨船団からの白組応援の電報」が必ず着いたものである。
だが、最近の紅白では、男女がやたらに仲良くし、一緒に歌い合うような場面が続出する。
そういう時代だと言われればそれまでだが、こうした馴れ合いが、番組をつまらなくしている最大の原因だと私は思う。

勿論、多くの歌手が、近年のバラエティー番組のよって、芸能界という世界の一員になり、相互によく知り合っているということが背景にあるのだろうが。
それと3年前の3・11以後の「みんなで復興を」というキャンペーンが、それを倍加させているように見えるのは、私の偏見だろうか。