1982年1月の、クラッシュの東京公演は、非常に感動的で、今も開幕のとき、『荒野の用心棒』のテーマが流れて来た時の場内の大歓声を憶えている。今はなき、新宿の東京厚生年金会館ホールである。
この年は、イギリス、アメリカのバンドが多数来て、ザ・プリテンダーズやトーキング・ヘッヅなどがあった。
国内でもいいものが多数あり、郵貯会館での勝新太郎コンサートでは、「郵便貯金なんて俺にふさわしくない、不渡り手形ホールならぴったり」と笑わせてくれた。
『与那国の歌と踊り』を国立小劇場で見て、「沖縄は日本じゃない、むしろ中国文化だ」と思わせたのも、この年で、11月には民音の主催で『服部メロディ・イン・ジャズ』があり、『ミュージック・マガジン』に「なんて軽いステップなんだ」と書いた。
後に、演出の瀬川昌久にお会いして、このときのことを話すと、大変に喜んでいただいた。
1970年代後半、イギリス全体で、人種差別運動が盛り上がっていて、それはナショナル・フロントの組織化されていて、黒人などの団体やコンサートで衝突がおきていた。
さらに、エリック・クラプトンやロッド・スチュアートが、「差別発言」を公然としていて、ロック・パンク勢は、危機感を持っていた。
「黒人音楽から、自分の音楽を得ているのに、どうしたことだ」
そして、ロック・アゲインスト・レイシズムの運動が始まる。
当初、500人程度と予測したコンサートは、8万人の参加で大成功する。
翌年の総選挙で、ナショナル・フロントは大敗北する。
そして、今年、彼らが危惧していたように、イギリスの首相が、インド系の人間になった。
もっとも、彼は大富豪であり、反人種差別主義かどうかは知らないが。